潮江文次郎の実家について
「潮江先輩、まだ寝ないんですか?お身体に障りますよ」
田村は可愛らしい赤い目を眠たげに細めた。子の刻、予算会議前とはいえまだ十三を数えたばかりの子にとっては十分に眠い時間帯である。
「先に寝ていろ。俺はここまで終わらせてから寝る」
十三と十五の二年にそこまでの隔たりがあるのか、田村はいまだに潮江の背中に追いつけないでいる。
丑の刻になると、潮江も六年長屋に戻っていく。その片手には愛用の10kg算盤。
潮江は常に10kg算盤と一心同体である。
鍛錬の時も、忍務の時も。忍務の時は置いていけと立花に言われたこともあるが、それだけはどうしてもできない。
潮江文次郎という男の来歴を、誰も知らない。
忍びとならんとして通う学園なのだから、様々な事情があるものだが、大抵六年間も残るようなものたちは多少なりとも同輩の人となりと共にその背景に触れることとなる。
しかし、潮江文次郎については学園の生徒たちは誰も知らない。
「立花先輩、潮江先輩は休みもご実家に帰られないと聞くのですが、潮江先輩はきり丸のようなご事情をお持ちですか?」
同室ならば知っているかと田村が聞いてみると、六年間枕を並べている立花ですら潮江の家庭については一切知らないという。
潮江の来歴はこの学園の七不思議となっているのだ。
そんな謎と聞けば一年は組が動かないはずがない。
会計委員である加藤団蔵を筆頭に一年は組は潮江文次郎の来歴を調べ始めた。
まずは教科担当である土井半助に聞いてみる。
「土井先生は潮江先輩のご実家を知ってますか?」
「さて、私は文次郎の担任をしたことがないからね、あまり知らないんだ」
そう答えた土井は小さく笑っていた。
次は実技担当の山田伝蔵だ。
「山田先生は潮江先輩のご実家を知ってますか?」
「そうだなぁ、それは学園長先生に聞くといい」
団蔵は一年は組の級友を伴って学園長の庵へと向かった。
「学園長先生は潮江先輩のご実家を知っていますか?」
「そうじゃのう、潮江は答えてくれんかったか?」
学園長は隣にいる愛犬と揃いの含み笑いをする。
「潮江先輩に聞いても答えてくれない気がして……」
田村を含むこの学園の生徒たちは、誰も潮江本人に彼の来歴を聞いたことはなかった。
誰にも言わないそれを本人に聞くのはご法度だと思っているのだ。
しかし、学園長はこともなげに言った。
「本人に聞けば一番早い」
それも一理ある。
幼いということは大胆なこともできてしまうということでもある。誰もが避けてきた、潮江自身に聞くという行為はその幼さ故にできたのであろう。
「潮江先輩、潮江先輩のご実家はどこなのですか?」
委員会でつながりの多い加藤団蔵が聞く。帳簿をつけている潮江の表情は見えない。
「なんだ、誰かに俺の実家を聞けと頼まれたのか?」
「いえ、潮江先輩が長期休みに実家に帰らないと聞いたので、どうしてかなって……」
「そうか。簡単なことだ。俺の実家はこの辺りでな。たまの休日に帰っているからわざわざ長期に帰らんだけだ。実家は兄夫婦も住んでいて人が増えると窮屈だしな」
なんのことはない、そういった。
団蔵にとっては不満な答えだった。もっとひた隠しにされたり、はぐらかされると思ったのだ。それを探るのが楽しそうだと思ったのだ。だがそうではなかった。つまらない答えだった。
不満そうな空気に気付いた潮江は振り返って小さく笑いながら言った。
「とは言ったものの、建前だ。団蔵、お前が本当に誰にも言わないと誓うならば、面白い話をしてやろう」
百年使った物は付喪神という神になるという。
会計委員会で使う鉄製の10kg算盤は先代、先々代と会計委員長たちが受け継いできたものである。
果たしてそれが百年経ったかどうかはわからないが、それでもこの算盤は付喪神として生きている。
「さて、俺はこの学園に棲んでいる。先生たちに聞いても答えは教えてもらえなかっただろう。簡単なことだ。俺はそもそも生徒ではない。俺の来歴を正確に知っているのはな、学園長先生くらいだ。まぁ、来年になればお前たちの一年下の世代に入学し直す予定だ。よろしくな、加藤先輩」
***
団蔵が二年生になったとき、どこかで見たことのあるような新入生が入ったが、誰も気にするものはいなかった。
団蔵も、それが誰に似ているのかは思い出せなかった。
「はじめまして、会計委員会に所属することになりました、潮江文次郎といいます」
田村は可愛らしい赤い目を眠たげに細めた。子の刻、予算会議前とはいえまだ十三を数えたばかりの子にとっては十分に眠い時間帯である。
「先に寝ていろ。俺はここまで終わらせてから寝る」
十三と十五の二年にそこまでの隔たりがあるのか、田村はいまだに潮江の背中に追いつけないでいる。
丑の刻になると、潮江も六年長屋に戻っていく。その片手には愛用の10kg算盤。
潮江は常に10kg算盤と一心同体である。
鍛錬の時も、忍務の時も。忍務の時は置いていけと立花に言われたこともあるが、それだけはどうしてもできない。
潮江文次郎という男の来歴を、誰も知らない。
忍びとならんとして通う学園なのだから、様々な事情があるものだが、大抵六年間も残るようなものたちは多少なりとも同輩の人となりと共にその背景に触れることとなる。
しかし、潮江文次郎については学園の生徒たちは誰も知らない。
「立花先輩、潮江先輩は休みもご実家に帰られないと聞くのですが、潮江先輩はきり丸のようなご事情をお持ちですか?」
同室ならば知っているかと田村が聞いてみると、六年間枕を並べている立花ですら潮江の家庭については一切知らないという。
潮江の来歴はこの学園の七不思議となっているのだ。
そんな謎と聞けば一年は組が動かないはずがない。
会計委員である加藤団蔵を筆頭に一年は組は潮江文次郎の来歴を調べ始めた。
まずは教科担当である土井半助に聞いてみる。
「土井先生は潮江先輩のご実家を知ってますか?」
「さて、私は文次郎の担任をしたことがないからね、あまり知らないんだ」
そう答えた土井は小さく笑っていた。
次は実技担当の山田伝蔵だ。
「山田先生は潮江先輩のご実家を知ってますか?」
「そうだなぁ、それは学園長先生に聞くといい」
団蔵は一年は組の級友を伴って学園長の庵へと向かった。
「学園長先生は潮江先輩のご実家を知っていますか?」
「そうじゃのう、潮江は答えてくれんかったか?」
学園長は隣にいる愛犬と揃いの含み笑いをする。
「潮江先輩に聞いても答えてくれない気がして……」
田村を含むこの学園の生徒たちは、誰も潮江本人に彼の来歴を聞いたことはなかった。
誰にも言わないそれを本人に聞くのはご法度だと思っているのだ。
しかし、学園長はこともなげに言った。
「本人に聞けば一番早い」
それも一理ある。
幼いということは大胆なこともできてしまうということでもある。誰もが避けてきた、潮江自身に聞くという行為はその幼さ故にできたのであろう。
「潮江先輩、潮江先輩のご実家はどこなのですか?」
委員会でつながりの多い加藤団蔵が聞く。帳簿をつけている潮江の表情は見えない。
「なんだ、誰かに俺の実家を聞けと頼まれたのか?」
「いえ、潮江先輩が長期休みに実家に帰らないと聞いたので、どうしてかなって……」
「そうか。簡単なことだ。俺の実家はこの辺りでな。たまの休日に帰っているからわざわざ長期に帰らんだけだ。実家は兄夫婦も住んでいて人が増えると窮屈だしな」
なんのことはない、そういった。
団蔵にとっては不満な答えだった。もっとひた隠しにされたり、はぐらかされると思ったのだ。それを探るのが楽しそうだと思ったのだ。だがそうではなかった。つまらない答えだった。
不満そうな空気に気付いた潮江は振り返って小さく笑いながら言った。
「とは言ったものの、建前だ。団蔵、お前が本当に誰にも言わないと誓うならば、面白い話をしてやろう」
百年使った物は付喪神という神になるという。
会計委員会で使う鉄製の10kg算盤は先代、先々代と会計委員長たちが受け継いできたものである。
果たしてそれが百年経ったかどうかはわからないが、それでもこの算盤は付喪神として生きている。
「さて、俺はこの学園に棲んでいる。先生たちに聞いても答えは教えてもらえなかっただろう。簡単なことだ。俺はそもそも生徒ではない。俺の来歴を正確に知っているのはな、学園長先生くらいだ。まぁ、来年になればお前たちの一年下の世代に入学し直す予定だ。よろしくな、加藤先輩」
***
団蔵が二年生になったとき、どこかで見たことのあるような新入生が入ったが、誰も気にするものはいなかった。
団蔵も、それが誰に似ているのかは思い出せなかった。
「はじめまして、会計委員会に所属することになりました、潮江文次郎といいます」
潮江文次郎の実家は誰も知らない
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