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暗闇の話



忘れ物などするのではなかった。

 今年度忍術学園に入学したばかりの潮江文次郎はそう思った。
忍術学園の生徒の必需品、忍たまの友を教室に忘れてしまったのだ。
努力家で、自室での予習、復習を日課としている文次郎にとって、これは由々しき事態であった。

取りにいかなければ。

 しかし外はすでに暗く、いつもはきゃらきゃらと同級生の声が響く廊下は真っ暗な闇に閉ざされて、まるで異界のようだ。
同室の仙蔵に同行を頼もうと思ったが、暗闇が怖いなど忍を目指す者として、いかに同室の友人と言えど自ら口にすることは文次郎の性格上できなかった。

「大丈夫だ。暗闇など怖くない。幽霊など、いたところで怖くもない」

 そう自らに言い聞かせて、自室の戸を開けた。
衝立の向こうで眠っているであろう仙蔵には何も言わなかった。

 長屋の自室から教室のある棟までは真っ暗な廊下を通って、さらに庭を通ってから教室のある棟に行かなければならない。
そこからさらに誰の気配もない真っ暗な廊下を通って教室まで行くのだ。
まだ暗闇が怖く、学園生活に慣れてもいない文次郎にとってはとても厳しい試練のように思えた。

「大丈夫、俺は忍びを目指すんだから暗闇を怖がっていてどうする」

 昨年までは家にいて、夜中に厠に行きたいと目を覚ますと必ず両親が付いてきてくれていた。だが、今年からはそうではない。教師は親ではないし、文次郎は忍びを目指すのだ。そんなことではいけないのだ。

 もう一度言い聞かせてから、それでも習ったばかりの足音を立てない歩き方を実践しつつ教室を目指して歩を進めた。

「大丈夫、大丈夫」

 何度も呟く。

「大丈夫、何も怖いものなどない」

 それは恐怖を追い出すように。

「大丈夫、俺は…」

 忍びを目指す者なのだから。そう言い切る前に、ぎしりと音がした。まだ未熟な文次郎自身の足音かと思えば、音は背後から聞こえた。
先ほどまで誰もいなかった。一年生の文次郎がもちろん気配など探れるはずもない。後ろを振り返ればきっと同級の誰かが厠へ行こうと思って部屋から出てきたのだ。大丈夫、大丈夫、怖くない。そう思っても、振り返ることは出来なかった。
これが同級生の誰でもなく、上級生や教師の誰でもなく、見知らぬ、血染めの誰かが後ろに立っていたら。うっすらと透き通った何かが、背後にいたら。見たこともない生き物が、蠢いていたら。
 まるで金縛りにあったように硬直した文次郎は、後ろを振り返ることも前に進むこともできず、ただただ立ち往生していた。

ぎしり

 もう一度、背後で音がする。音は近づいていた。先ほどよりも、確実に文次郎に近くなる。ぎしり、ぎしり、どんどん近づく。もうあと数歩ほどで文次郎の真後ろに立つであろうその何者かは、一言も発しない。ぎしり、ぎしり。足音が、文次郎の背中にぴったりと張り付いた。

「おい」

 耳元で囁かれたその声を聞いた瞬間、文次郎は足音など気にもせずに廊下をまっすぐ駆けていった。残されたのは、何も言わずに部屋を出て行った同室が気になって追いかけた仙蔵であった。


***


 はぁ、はぁ、はぁ。

 体力も何も考えずにできる限りあの場から遠く逃げようと走っていった文次郎は、長屋の廊下をまっすぐ突っ切り、それどころか行き過ぎて井戸まで出てきてしまった。
先ほどの声の主が仙蔵であることには、落ち着いてから気づいた。仙蔵に悪いことをしてしまったと思いながらも、謝るのは明日のしておこうと思う。今はとにかく教室まで行くことが先決だ。
教室まで向かおうとするが、目の前の井戸に目が行く。以前郷里の父が、文次郎を怖がらせようと悪戯心で語った怪談話を思い出したのだ。
井戸から出てくる女の霊。ただ目的もなく、ぼーっとそこにいるのだ。
女は姑から不貞を責められただか、主人の大切な茶碗を割ってしまっただか、怖くて耳を塞いでいた文次郎は詳しく覚えてはいなかったが、まぁ、井戸に身を投げたのだ。
その女がどうやら濡れ衣だったと化けて出る話だったような気がする。とにかく、井戸からぼやっと透き通った女の霊が出てくる。そのくだりがとにかく怖かった。

「大丈夫、」

 さっきは仙蔵だった。やはり幽霊などいないのだ。怖くなどない。
何度も心で呟いて、もう一度恐る恐る、見なければいいのに井戸を見る。

井戸に、うっすらと白い、靄のような、透き通った、女の影が見えた。

 文次郎はその場でゆっくりと気を失い、通りがかった上級生が部屋へと運んでくれた。
その上級生が、あの井戸はどこやらの廃屋にあった井戸の石を使って積んでいるが、どうもその井戸で女が飛び込んだやら女が殺されて遺体を投げ込んだやらの曰く付きの井戸の石を使って積んだらしいのだと教えてくれた。
ごくごくたまに女を見るという話しを聞くので、まぁそれが見えた文次郎はそういう性質なのだろうと笑いながら言っていた。

「まぁ、これから頑張れ」

 そう言って笑った上級生の姿は、後にも先にも学園内で見たことがない。そして、仙蔵も気づかないうちに文次郎は部屋に戻っていたのだと教えてくれた。


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