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水辺



「文次郎!今日は新月だ!鍛錬にはもってこいだぞ!」
「すまん、今日は行けない」

小平太の誘いを即答で断る。新月の鍛錬を断るなど、文次郎には非常に珍しいことだ。
さすがの小平太も文次郎の体調を心配する。
「どうした?変なものでも食ったか?」
「バカタレ。そんなんじゃねぇ。ただ、今日の夜は駄目だ。小平太も行くなら明日にしとけ」
 文次郎は時々このようなことを言う。なんでも、理由は特にないという。ただ、小さく「水が・・・」と呟く。
 文次郎は名前の通り海辺の生まれである。海辺の者たちにとって水とは恐怖の対象だ。だからこそ、六年生は皆文次郎のこの感覚を信じていた。
「わかった!文次郎が駄目だというなら私も行かない!長次にも今夜は駄目だと伝えておく!」
 そういって小平太は駆けていった。

「文次郎、お前のそれは一体なんなんだ?」
会話を聞いていた仙蔵が疑問を投げかけた。
「以前から気になっていた。その根拠のない違和感はなんなんだ?お前は私と同じで現実主義だと思っていたがな」
「俺は自分の見てる物しか信じねぇよ」
「つまり、私の見えているものとお前の見えているものは違うのだな。水に何が見えるのだ?」
「そうだなぁ。あれがなんだか説明するのも難しいのだが、あえて言うなら濁りだ。水が濁るんだ。昔からそういう日はいけねぇ。何かが起こる。父親が海から帰ってこなくなった日も、妹が波に攫われて消えた日も、水が濁ってた。村の年寄りに聞いたら水が濁る日は水辺に近寄るなと言われた」
水が濁る日は、海神が怒っているのだと言っていたが、文次郎は現実主義者だ。海神は信じていない。
しかし、水が濁る日は極力水に近づかない。
山に入れば川がある。それに近づかないために、文次郎は水が濁る日に極力山には近寄らない。
「そうか、しかし次の新月は海辺の村で忍務だと思っていたが」
「別に新月がいけねぇわけじゃねぇ、新月と水が濁る日は別物だ。前の新月は水が澄んでたから普通に鍛錬したしなぁ」
 文次郎が言うには、水が濁る日は特に決まっていない。朝から濁る日もあれば夜に急に濁ることもある。その水の濁りは文次郎の村の人間でも全員が見えるものではなかった。現に文次郎の父親も妹も水が濁るのは見えなかったという。
「うちの家でも、俺とおふくろにしか見えてなかった。兄貴にも見えねぇ」
 水が濁る日は水辺に近寄るなと言われても、見えなければ仕方がない。
「どうも、水の濁りが見える人間にはほかの人間には見えんようなものが見えるらしい」
 文次郎は幼い頃から色々と“見る”子どもだった。父親も妹も兄も七つまでは見えたらしいが、七つを越えてから見える人間は限られてくる。
「七歳までは神の内、か。八歳になれば途端に見えなくなるのか?」
「あぁ、うちの村の人間はみんな七つまでは見えるが八つを越えると水の濁りも含めて色々と見えなくなるやつが大半だ。だがうちの村はそういう風だからな、見えることは当たり前なんだ」
 だから、特異なことではないのだという。見える者はそういう意味では重宝される。村にある寺の巫女などは見える者が担う。船にも見える者が極力乗る。いない時は出る前に見える者に確認を取る。そういう土地柄なのだ。
「俺は八つを越えても見えていた。よく村の連中も俺に海の様子を聞きに来た」
 文次郎、今日の海は澄んでいるか?そう聞くのが漁に出る父親の毎朝の仕事の一環であった。見える者が家にいる漁師は、その者に海の様子を聞いてから漁に出るのだ。
「親父を最後に見た日の海は澄んでいた。ただ、親父が出て数刻してから様子が変わったんだ。そんな日もある。絶対じゃない。俺と同じで母親も見えていたからな。誰も何も言わなかった。」
 避けられなかったことを責める人間は村にはいない。出てから変わったのであれば、水が濁ったのはその船が出たこと自体が海神の怒りを買ったのだと考える村人も多い。
「なかなか面白い村だな。一度行ってみたいものだ」
「そうか、ありがとうな。だが村は二年前にその濁り水の底に沈んだんだ。昨年行ってみたがあれはいかん。水が濁りきってる。まぁ、沈んだ人間の怨念ってやつかもしれんな」
 笑いながら帰る村は沈んだという文次郎の眼に何が映っているのかを聞く勇気は仙蔵にはなかった。

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