この夏の向こう側
畳の上に転がっていた彼は僕の顔を見るなり、見られてしまった、とでも言いたげな顔をして起き上がって、少し乱れた襟元を直した。
「……僕というものがありながら?」
「はあ!? いや、誤解……でもないだろ、これ」
ハヤトの横にはつやつやとしたピンク色のかたまりがどっしりと横たわっていた。僕とのジム戦に連れてくる人はほとんどいないけれど、見た事はある。それは僕の気配を感じたのか、のそのそと顔をこちらに向けて、やぁん、と一声鳴いた。
「もしかして、去年来たって言ってたヤドン?」
去年の夏に突然ふらりと庭に現れたヤドンの話を聞いていたのを思い出した。数日間ハヤトの家でのんびりと過ごして、気が付いたら来た時と同じようにふらりといなくなっていたらしい。
「そうそう。もう別の所に行っちゃったかと思ってたんだけど、今年も来てさ」
ハヤトはヤドンの背中を手のひらで撫でる。近くに座るとヤドンが気持ちよさそうに目を閉じているのがよくわかる。去年と合わせても数日間一緒に過ごしただけのはずなのに、もうすっかり懐いているみたいだ。
「それで一緒に昼寝してたの?」
「うん。なんかこの顔見てたら眠くなって」
「ああ、わかるかも」
言われてみれば、いつでも少し開いている口とゆったりとした動きはどうにも気が抜けていて、眺めているうちにこちらの力が抜けてしまいそうな気もしてくる。いつも通り今日も暑いけれど、この和室は風が通るから涼しい……と言えるほどではないかもしれないけれど、外と比べればずっと快適で、そりゃあ昼寝もしたくなるよな、と思う。ハヤトの方に視線を戻すと、大きなあくびをしているのが見えた。
「昼寝の邪魔しちゃった?」
「いや、そんなにしっかり寝てたわけでもないから」
もうすぐ来ると思ってたし、とハヤトは呟いた。その言葉に目を丸くした僕を見てハヤトは首を傾げた。
「なんだよ」
「なんでもない」
僕の返事に不思議そうな顔をしたけれど、思い返してみても何も心当たりがなかったらしく、すぐにその表情は消えた。ハヤトは立ち上がると部屋を出ていく。ヤドンと僕だけが残される。
もうすぐ来ると思ってた、という言葉を思い出す。……その言葉は、それぐらい僕がここに来るのが当たり前になっているという事の証明だった。特に連絡を入れなくても、なんとなくふらっと来ては立ち寄っていくのが違和感のある事ではないという事だから。無意識の言葉のようだけれど、だからこそ嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。そんな僕の事を特に気にする様子もなく、畳の上に丸くなったヤドンもさっきのハヤトみたいに大きなあくびをする。これまで想像していたよりもずっと口が大きい。
「眠い?」
聞いてみたけれどもちろん返事はない。ただしっぽがゆらゆらと揺れるのがわかった。目を閉じる様子はないから眠る気ではないみたいだ。頭を突き合わせるように腹這いになる。間近にある小さな目が僕を見た。ふと思いついてヤドンの眉間のあたりを指さして、それを左右に振ってみた。予想通り僕の動きに合わせて首が小さく左右に揺れる。ぐるっと円を描いてみる。それにもヤドンはついてくる。
「こら」
急に聞こえた声に顔を上げると、眉を吊り上げたハヤトがおぼんを持ったまま僕を見下ろしていた。
「なんでいじめるんだよ」
「いじめてないよ、遊んでただけ」
見て、とさっきと同じように指を動かす。ハヤトは黙ってそれを見ていた。
「可愛くない?」
「……可愛い」
不本意だと顔に書きながらもハヤトはそう答えて、ヤドンと僕の隣に腰を下ろす。置かれたおぼんの上には水饅頭が乗った皿が二つ並んでいた。
「可愛いけど、ほどほどにしろよ」
「わかってるよ。もうおしまい」
そっと手を伸ばしてみるとヤドンは少し身構えるような仕草を見せたけれど逃げる事はなかった。丸みを帯びた頭はひんやりとしていてこの季節にはちょうどいい。しばらく撫でているうちに慣れてきたのか、機嫌がよさそうに尻尾が揺れる。
「なんかさ」
そう言うとハヤトは畳の上に手をついて、足をぐっと後ろに伸ばして、僕の隣で同じように腹這いになる。
「まだまだ知らないやつ、いっぱいいるんだなって思う。こうやって普段はあんまり関わらないポケモンと一緒にいると」
「そうだね」
僕たちはジムリーダーだ。それぞれ専門のタイプがあって、それに合ったポケモンを使う。挑戦者はいろいろなポケモンを連れてくるけれど、目的は僕たちに勝ってバッジを手に入れる事だから、当然手持ちにはタイプ相性が有利な子が多い。ジョウトで捕まえやすいポケモンとなるとその顔ぶれはだいたい決まってくる。ジムリーダーになってそれなりの時間が経ったけれど、会った事がないポケモンはいくらでもいる。それはハヤトも同じみたいだ。
「いつかジムリーダーじゃなくなったら、いろんなやつに会いに行くのもいいかも」
ハヤトは足を交互にぱたぱたと動かしながら、ヤドンの手を取って握手をするように上下に振る。ヤドンは相変わらずぼんやりとした表情を浮かべていた。
「そんな先の事、考えてるとは思わなかった」
「俺だってたまには考えるよ。いつまでもジムリーダーでいると思ってた父さんも、もうジムリーダーじゃないわけだし」
いつかは僕たちだってジムリーダーの立場から退く時が来る。体力の限界を感じた時か、自分よりもっと強い人が現れた時か、バトルの世界から離れたくなった時か。いずれにしてもまだまだ先の話だと思う。これから何が起きるかなんてわからないけれど、すぐに何かがやってきそうな予感はない。予感でしかないけれど、僕の予感はそこそこ当たる。
遠くの方で風鈴が音を立てて、空気がほんの少しだけ冷たくなったような気がした。ハヤトが語ったのはきっと今よりもずっと未来の話。……その時、僕たちはどうなっているんだろう。
「ねえ、マツバはどこがいい?」
「え?」
「ジムリーダー辞めたら行く所。俺、まずはシンオウに行ってみたい」
ハヤトは両手で頬杖をついて、楽しそうな声でそう言った。その声を聞いた途端、喉を何かがふわりと塞いだ。声にしようと思った言葉はつまづきながら口から出ていく。
「……僕は、イッシュかな。いつもトーナメントだけ出てすぐに帰ってきちゃうから、一度ゆっくり回ってみたいな」
「イッシュもいいなー。じゃあ、まずはシンオウで、それからイッシュに行こう」
未来の話をハヤトはしている。未来のハヤトと僕の話をしている。青い目は夏の太陽を拾って光っているように見えた。まっすぐなその目は、僕たちがジムリーダーを辞めるその時にお互いが傍にいる事を少しも疑っていないようだった。
これからもハヤトは僕の隣にいてくれて、僕がハヤトの隣にいる事を許してくれる。そう思ったら胸の中にあった不安はあっという間に姿を消して、その場所を埋める、どころか、そこに留まらずに溢れるぐらいに嬉しい気持ちが湧いてきて、もう僕が今どんな顔をしているかよくわからなくなってきた。
「しばらく先になりそうだけどね」
「うん、まだまだジムリーダー辞めるつもりはないよ。……マツバ、なんでにやにやしてるんだよ」
「なんでもない。ヤドンが可愛いからかなあ」
そう言うと、大人しくハヤトに手を握られたままだったヤドンはちらりと僕を見て、それからまた視線を逸らす。そういう事にしておいてやる、と言ってくれたような気がして、僕はまたヤドンの頭を撫でた。
(END)
「……僕というものがありながら?」
「はあ!? いや、誤解……でもないだろ、これ」
ハヤトの横にはつやつやとしたピンク色のかたまりがどっしりと横たわっていた。僕とのジム戦に連れてくる人はほとんどいないけれど、見た事はある。それは僕の気配を感じたのか、のそのそと顔をこちらに向けて、やぁん、と一声鳴いた。
「もしかして、去年来たって言ってたヤドン?」
去年の夏に突然ふらりと庭に現れたヤドンの話を聞いていたのを思い出した。数日間ハヤトの家でのんびりと過ごして、気が付いたら来た時と同じようにふらりといなくなっていたらしい。
「そうそう。もう別の所に行っちゃったかと思ってたんだけど、今年も来てさ」
ハヤトはヤドンの背中を手のひらで撫でる。近くに座るとヤドンが気持ちよさそうに目を閉じているのがよくわかる。去年と合わせても数日間一緒に過ごしただけのはずなのに、もうすっかり懐いているみたいだ。
「それで一緒に昼寝してたの?」
「うん。なんかこの顔見てたら眠くなって」
「ああ、わかるかも」
言われてみれば、いつでも少し開いている口とゆったりとした動きはどうにも気が抜けていて、眺めているうちにこちらの力が抜けてしまいそうな気もしてくる。いつも通り今日も暑いけれど、この和室は風が通るから涼しい……と言えるほどではないかもしれないけれど、外と比べればずっと快適で、そりゃあ昼寝もしたくなるよな、と思う。ハヤトの方に視線を戻すと、大きなあくびをしているのが見えた。
「昼寝の邪魔しちゃった?」
「いや、そんなにしっかり寝てたわけでもないから」
もうすぐ来ると思ってたし、とハヤトは呟いた。その言葉に目を丸くした僕を見てハヤトは首を傾げた。
「なんだよ」
「なんでもない」
僕の返事に不思議そうな顔をしたけれど、思い返してみても何も心当たりがなかったらしく、すぐにその表情は消えた。ハヤトは立ち上がると部屋を出ていく。ヤドンと僕だけが残される。
もうすぐ来ると思ってた、という言葉を思い出す。……その言葉は、それぐらい僕がここに来るのが当たり前になっているという事の証明だった。特に連絡を入れなくても、なんとなくふらっと来ては立ち寄っていくのが違和感のある事ではないという事だから。無意識の言葉のようだけれど、だからこそ嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。そんな僕の事を特に気にする様子もなく、畳の上に丸くなったヤドンもさっきのハヤトみたいに大きなあくびをする。これまで想像していたよりもずっと口が大きい。
「眠い?」
聞いてみたけれどもちろん返事はない。ただしっぽがゆらゆらと揺れるのがわかった。目を閉じる様子はないから眠る気ではないみたいだ。頭を突き合わせるように腹這いになる。間近にある小さな目が僕を見た。ふと思いついてヤドンの眉間のあたりを指さして、それを左右に振ってみた。予想通り僕の動きに合わせて首が小さく左右に揺れる。ぐるっと円を描いてみる。それにもヤドンはついてくる。
「こら」
急に聞こえた声に顔を上げると、眉を吊り上げたハヤトがおぼんを持ったまま僕を見下ろしていた。
「なんでいじめるんだよ」
「いじめてないよ、遊んでただけ」
見て、とさっきと同じように指を動かす。ハヤトは黙ってそれを見ていた。
「可愛くない?」
「……可愛い」
不本意だと顔に書きながらもハヤトはそう答えて、ヤドンと僕の隣に腰を下ろす。置かれたおぼんの上には水饅頭が乗った皿が二つ並んでいた。
「可愛いけど、ほどほどにしろよ」
「わかってるよ。もうおしまい」
そっと手を伸ばしてみるとヤドンは少し身構えるような仕草を見せたけれど逃げる事はなかった。丸みを帯びた頭はひんやりとしていてこの季節にはちょうどいい。しばらく撫でているうちに慣れてきたのか、機嫌がよさそうに尻尾が揺れる。
「なんかさ」
そう言うとハヤトは畳の上に手をついて、足をぐっと後ろに伸ばして、僕の隣で同じように腹這いになる。
「まだまだ知らないやつ、いっぱいいるんだなって思う。こうやって普段はあんまり関わらないポケモンと一緒にいると」
「そうだね」
僕たちはジムリーダーだ。それぞれ専門のタイプがあって、それに合ったポケモンを使う。挑戦者はいろいろなポケモンを連れてくるけれど、目的は僕たちに勝ってバッジを手に入れる事だから、当然手持ちにはタイプ相性が有利な子が多い。ジョウトで捕まえやすいポケモンとなるとその顔ぶれはだいたい決まってくる。ジムリーダーになってそれなりの時間が経ったけれど、会った事がないポケモンはいくらでもいる。それはハヤトも同じみたいだ。
「いつかジムリーダーじゃなくなったら、いろんなやつに会いに行くのもいいかも」
ハヤトは足を交互にぱたぱたと動かしながら、ヤドンの手を取って握手をするように上下に振る。ヤドンは相変わらずぼんやりとした表情を浮かべていた。
「そんな先の事、考えてるとは思わなかった」
「俺だってたまには考えるよ。いつまでもジムリーダーでいると思ってた父さんも、もうジムリーダーじゃないわけだし」
いつかは僕たちだってジムリーダーの立場から退く時が来る。体力の限界を感じた時か、自分よりもっと強い人が現れた時か、バトルの世界から離れたくなった時か。いずれにしてもまだまだ先の話だと思う。これから何が起きるかなんてわからないけれど、すぐに何かがやってきそうな予感はない。予感でしかないけれど、僕の予感はそこそこ当たる。
遠くの方で風鈴が音を立てて、空気がほんの少しだけ冷たくなったような気がした。ハヤトが語ったのはきっと今よりもずっと未来の話。……その時、僕たちはどうなっているんだろう。
「ねえ、マツバはどこがいい?」
「え?」
「ジムリーダー辞めたら行く所。俺、まずはシンオウに行ってみたい」
ハヤトは両手で頬杖をついて、楽しそうな声でそう言った。その声を聞いた途端、喉を何かがふわりと塞いだ。声にしようと思った言葉はつまづきながら口から出ていく。
「……僕は、イッシュかな。いつもトーナメントだけ出てすぐに帰ってきちゃうから、一度ゆっくり回ってみたいな」
「イッシュもいいなー。じゃあ、まずはシンオウで、それからイッシュに行こう」
未来の話をハヤトはしている。未来のハヤトと僕の話をしている。青い目は夏の太陽を拾って光っているように見えた。まっすぐなその目は、僕たちがジムリーダーを辞めるその時にお互いが傍にいる事を少しも疑っていないようだった。
これからもハヤトは僕の隣にいてくれて、僕がハヤトの隣にいる事を許してくれる。そう思ったら胸の中にあった不安はあっという間に姿を消して、その場所を埋める、どころか、そこに留まらずに溢れるぐらいに嬉しい気持ちが湧いてきて、もう僕が今どんな顔をしているかよくわからなくなってきた。
「しばらく先になりそうだけどね」
「うん、まだまだジムリーダー辞めるつもりはないよ。……マツバ、なんでにやにやしてるんだよ」
「なんでもない。ヤドンが可愛いからかなあ」
そう言うと、大人しくハヤトに手を握られたままだったヤドンはちらりと僕を見て、それからまた視線を逸らす。そういう事にしておいてやる、と言ってくれたような気がして、僕はまたヤドンの頭を撫でた。
(END)
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