ふたりごはん
「あの、これ、なんですか?」
たまには散歩がてら、と向かった商店街。肉屋でついコロッケを買ってしまった所で、見慣れないものがショーウインドーの中にあるのを見つけた。なんですか、とは聞いたものの俺には流木か何かにしか見えなかった。店主のおじさんの趣味かと思ったけれど、それならショーウインドーに入っているのはおかしいし。
「ああ、これね、生ハムのゲンボク」
「ゲンボク……?」
ゲンボクとは何だっただろうと考えていると、おじさんは額をつつきながら唸って、少ししてから口を開いた。
「あー、あれ、ほら、キノコとかが生えるやつ」
キノコとかが生えるやつ。キノコが生えるのは……木、だろうか。そう思った所で頭の中に文字が浮かぶ。ゲンボク。原木。
「……ハムなのに木なんですか?」
「そうそう、これでもれっきとしたハムなんだよ」
安くしておくよ、と笑顔で言われてしまったら、頷かないわけにはいかなかった。
「なにこれ?」
発泡スチロールの白いトレーに入ったものを見て、向かいに座るマツバは首を傾げた。
「肉だよね?」
「うん、生ハム。原木から切ってもらった」
「……ハムなのに木なの?」
原木、と聞いてもマツバは困らなかったらしい。そう思った後、俺と同じ質問をした事に気が付いてつい笑ってしまった。それを見たマツバは不思議そうな顔をしていたけれど、俺は知らないふりをした。
「ハムなのに木なんだって。塊だと木に見えるから」
とはいっても、さすがにあの大きさのものをそのまま買うつもりはなかったし、買ってもどう考えても食べきれないし、俺が買ってきたのは二人分の切り落としだけだ。切ってしまえば木とは程遠い見た目で、濃いピンク色は間違いなく肉の色だ。
「うーん、木っぽい肉ってなんか想像できないかも……ねえ、これこのまま食べれるの?」
マツバは眉間に皺を寄せたまま唸る。それから上に下にと首を動かして、子供みたいにいろいろな角度からトレーを覗き込んでいた。
「食べれるらしい。おじさんが言ってた」
そう教えてもマツバは納得していないようだった。本当かなあ、と呟きながら困ったような顔をしている。本当だって、と答えて、一枚つまみ上げて口に入れる。途端に煙のような味が広がって、もしかしたら買ったのは間違いだったんじゃないかと思った。渋い顔をしたまま噛んでいくうちに肉がやわらかくほぐれていって、染み出した塩味と混ざりあっていくのがわかった。この味は悪くないかもしれない。
「おいしい?」
「うーん、一口食べてすごくおいしいって思うわけじゃないけど」
そう言いながらも手は勝手に生ハムに伸びていた。もう一枚つまんで口へ。マツバに言った通り、驚くほどおいしいというわけではないけれど、なんとなくまた食べたくなる。クセになるというやつだ。
「食べてみたら?」
「そうだね……。でもなんとなく生って言われると怖くて……」
その言葉を無視して黙ってマツバを見ていると、渋々といった様子でマツバは生ハムを手に取る。しばらくそのまま眺めていたけれど、やがて思い切った様子で目を閉じながら口に放り込んだ。途端にぴたりと動きが止まる。
「は、ハヤト……」
「いいから噛め。噛めばわかる」
涙目になっているマツバをそう宥めると、頷いてもぐもぐと口を動かし始める。だんだんと表情が緩んでいく。その気持ちはよくわかる。喉が一つ動いて、それからマツバは口を開いた。
「ハヤトの言ってた意味がわかった気がする」
「だろ?」
「でもこれどうしようって話だったよね。このまま食べるにはさすがに限界があるかも」
「それなんだよな……」
おじさんの言葉に釣られて思わず二人分でと言ってしまったものの、その後どうするかを俺は考えていなかった。とりあえずマツバに連絡をして夕飯として一緒に食べる事にしたけれど、まずそのメニューをどうするか相談しないといけない。
「生ハムっていうぐらいだから、ハムとかベーコンとかと同じように使えばいいんだよね、きっと」
「あー、なるほどな、そうすればいいのか。それだと……アスパラ巻いたりとか?」
「ああ、おいしそうだね」
「じゃあアスパラ巻きは決定、っと」
適当に手に取ったざらざらとしたチラシの裏にボールペンでアスパラと書く。あとは何があるだろう。ハムやベーコンの代わりと言われてもすぐには思いつかない。目玉焼きに敷くのはなんとなくもったいない気がするし。サンドイッチは夕飯としては向いていない気がするし。
本やテレビで生ハムを使った料理を見た事があってもいいはず、と記憶の中を探ってみる。料理番組で生ハムはあんまり出てこない気がするけれど、多分ゼロではないだろう。いつもは見てなくても、たまたま見ていた事ならあるかもしれない。
「あ」
映像が頭に浮かんだ。けれどそれは料理番組ではなくて、たまたま見たドラマのワンシーンだった。そうだ、そういえば。
「緑色のものに乗ってるの、見た事あるかも」
「緑色?」
マツバと二人で頭を抱える。緑色の……緑色の、なんだっただろう。ほうれん草みたいなくっきりとした緑じゃなくて、もっと淡い色だった気がする。淡い緑。だけどレタスではなくて、キャベツでもない。もっとどっしりとしたものだった気がする。
「うーん……、キュウリ、とか?」
マツバは絞り出すようにそう言った。言われた通りにキュウリを思い浮かべてみる。大きめに切ったキュウリの上に生ハムを乗せてみた。おかしくはない。生ハムの塩味とキュウリも合いそうだ。そうか、言われてみればキュウリだったかもしれない。
「それかも。じゃあキュウリもだな」
キュウリと書く。これで二品。
「なんだか汁物が欲しくなってきたねえ」
「汁物かあ……」
多分スープがいいんだろうなと思う。コンソメで味をつけて、タマネギを入れて、卵を入れて。でもおかずがアスパラはともかくキュウリとなると洋風のスープとはなんとなく合わないような気がする。和風のものならアスパラでもキュウリでも問題ないけれど。
「そういえばこれ豚肉だよね。豚汁風にしてもいいんじゃない? 生で食べれるならしゃぶしゃぶみたいにくぐらせるだけにしてもいいし」
「コンソメよりはその方が他のおかずに合うよなあ、やっぱり。具は考えないといけないけどさ」
「豆腐は合わないかもね……。でもネギは悪くなさそう。あと大根とかもいいんじゃないかな」
味を想像してみる。あの最初にやってくる生ハムの煙のような風味と豆腐は確かに合わないような気がする。ネギはよさそうだ。それから大根も。他には何を入れていただろう。ごぼうと、こんにゃくと、里芋と……これはどれもいまいちな気がする。
「そうだな、その二つと……あ、しめじもいいかも」
「ああ、いけそうだね」
ネギ、大根、しめじ。あとはご飯があればとりあえずはよさそうだ。この前買ったリンゴが残っているから食後にはそれを剥いてつまめばいい。となると、買うものはこれだけで十分のはず。買いに行くか、と呟くと、そうだね、と答えてマツバは立ち上がった。いつもと比べるとこの時期でも暖かいような気もするけれど、それでもさすがに上着を着ないと外を歩くのは辛い。どうせまた出かけるからと壁にかけてあった上着を羽織る。マツバも畳んで置いてあったコートをしっかりと着込んでいた。
二人揃って家を出る。夕飯の準備にはちょうどいい時間で、夕飯にはまだ早い時間。それなのに、もうすっかり日が傾いて薄暗かった。風が出てきたせいかやけに冷える。玄関に鍵をかけて、肩を竦めながら歩き出した。雲の隙間から夕焼けの名残が漏れている。
「そういえば、他の人じゃなくてよかったの?」
門を出た所でマツバがそう言った。何の話だろうと思っていると、俺の様子に気付いたらしいマツバは首を傾げながらもう一度口を開く。その目は少しだけ不安そうな、困ったような色を浮かべていた。
「僕、生ハムなんて食べるの初めてだし、もっとああいう食べ物に詳しい人がいたんじゃないかなと思って」
「あー……」
言われてみれば確かにそうかもしれない。アカネはよくジムの子たちとランチに行くと言っていたから食べていそうだし、ミカンさんもこういう食べ物にも詳しそう。家に……は、まあ、呼べないけれど、別に電話か何かでちょっと相談するぐらいならよかったはずだ。でもどうしてかそれは全く思いつかなくて、気が付けばマツバに電話をかけていた。
「なんでだろ、マツバ以外思いつかなくて」
焼き魚のにおいを乗せた冷たい風が通り抜けていった。あ、と思った時にはもう遅い。恐る恐る見上げると、マツバはきょとんとした顔でこちらを見ていた。それから少しして俺の言葉の意味を理解したのか、その顔がみるみるうちに緩んでいく。
「あ、いや、これは」
うん、と返事をする声が震えている。唇を噛んでいるのを隠せてはいないし、完全に目が泳いでいる。嬉しそうでなによりだ、と思う事でごまかそうとしたけれど、やっぱり恥ずかしさには耐えられなかった。
「か、買い物袋! 買い物袋忘れたから取ってきて!」
ポケットから取り出した鍵を押し付ける。マツバはその勢いに半歩下がっただけで、何事もなかったように鍵を受け取った。
「買い物袋?」
その声がまだふわふわと揺れているから、腹立たしいような恥ずかしいような……俺の言葉に喜んでいるのが、少しだけ、本当に少しだけ、嬉しいような気もするけれど、きっと気のせいだ。そういう事にしておこう。しておきたい。
「そう、買い物袋!」
「わかった」
マツバは門を開けて、鍵を開けて、家へと入っていく。それを見届けてから、閉じた門に凭れて大きく溜め息をついた。空気は相変わらず冷えているのに、暑くて仕方がなかった。上着の袖を捲ると腕が外気に晒されて心地よい。こんなやりとりをしているうちに雲の隙間のオレンジは薄れて、深い青が覗き始めていた。そのうちにその色も黒になって、すっかり夜になるのだろう。
背中の向こうで扉が開く音がした。買い物袋を片手に持ったマツバがこちらに歩いてくる。その表情はもういつものものだった。だから助かったような気もするけれど、そうでもないような気もする。
「……ありがと」
「うん。行こうか」
街灯が乾いたアスファルトと散らばった落ち葉を照らしていた。もう冬がやってくる。温かいものが欲しくなる時期だなあと思う。そうだ、ぜんざいが食べたい気がする。あずきの缶をこの前見つけたんだった。でも一人分だけ作るのも微妙だし、かといって作りすぎたらおいしくなくなってしまうし、またマツバを呼んで一緒に食べよう。……いや、だから、なんでマツバなんだよ。
「ああもう、うるさい!」
「えっ、何も言ってないのに……」
(END)
たまには散歩がてら、と向かった商店街。肉屋でついコロッケを買ってしまった所で、見慣れないものがショーウインドーの中にあるのを見つけた。なんですか、とは聞いたものの俺には流木か何かにしか見えなかった。店主のおじさんの趣味かと思ったけれど、それならショーウインドーに入っているのはおかしいし。
「ああ、これね、生ハムのゲンボク」
「ゲンボク……?」
ゲンボクとは何だっただろうと考えていると、おじさんは額をつつきながら唸って、少ししてから口を開いた。
「あー、あれ、ほら、キノコとかが生えるやつ」
キノコとかが生えるやつ。キノコが生えるのは……木、だろうか。そう思った所で頭の中に文字が浮かぶ。ゲンボク。原木。
「……ハムなのに木なんですか?」
「そうそう、これでもれっきとしたハムなんだよ」
安くしておくよ、と笑顔で言われてしまったら、頷かないわけにはいかなかった。
「なにこれ?」
発泡スチロールの白いトレーに入ったものを見て、向かいに座るマツバは首を傾げた。
「肉だよね?」
「うん、生ハム。原木から切ってもらった」
「……ハムなのに木なの?」
原木、と聞いてもマツバは困らなかったらしい。そう思った後、俺と同じ質問をした事に気が付いてつい笑ってしまった。それを見たマツバは不思議そうな顔をしていたけれど、俺は知らないふりをした。
「ハムなのに木なんだって。塊だと木に見えるから」
とはいっても、さすがにあの大きさのものをそのまま買うつもりはなかったし、買ってもどう考えても食べきれないし、俺が買ってきたのは二人分の切り落としだけだ。切ってしまえば木とは程遠い見た目で、濃いピンク色は間違いなく肉の色だ。
「うーん、木っぽい肉ってなんか想像できないかも……ねえ、これこのまま食べれるの?」
マツバは眉間に皺を寄せたまま唸る。それから上に下にと首を動かして、子供みたいにいろいろな角度からトレーを覗き込んでいた。
「食べれるらしい。おじさんが言ってた」
そう教えてもマツバは納得していないようだった。本当かなあ、と呟きながら困ったような顔をしている。本当だって、と答えて、一枚つまみ上げて口に入れる。途端に煙のような味が広がって、もしかしたら買ったのは間違いだったんじゃないかと思った。渋い顔をしたまま噛んでいくうちに肉がやわらかくほぐれていって、染み出した塩味と混ざりあっていくのがわかった。この味は悪くないかもしれない。
「おいしい?」
「うーん、一口食べてすごくおいしいって思うわけじゃないけど」
そう言いながらも手は勝手に生ハムに伸びていた。もう一枚つまんで口へ。マツバに言った通り、驚くほどおいしいというわけではないけれど、なんとなくまた食べたくなる。クセになるというやつだ。
「食べてみたら?」
「そうだね……。でもなんとなく生って言われると怖くて……」
その言葉を無視して黙ってマツバを見ていると、渋々といった様子でマツバは生ハムを手に取る。しばらくそのまま眺めていたけれど、やがて思い切った様子で目を閉じながら口に放り込んだ。途端にぴたりと動きが止まる。
「は、ハヤト……」
「いいから噛め。噛めばわかる」
涙目になっているマツバをそう宥めると、頷いてもぐもぐと口を動かし始める。だんだんと表情が緩んでいく。その気持ちはよくわかる。喉が一つ動いて、それからマツバは口を開いた。
「ハヤトの言ってた意味がわかった気がする」
「だろ?」
「でもこれどうしようって話だったよね。このまま食べるにはさすがに限界があるかも」
「それなんだよな……」
おじさんの言葉に釣られて思わず二人分でと言ってしまったものの、その後どうするかを俺は考えていなかった。とりあえずマツバに連絡をして夕飯として一緒に食べる事にしたけれど、まずそのメニューをどうするか相談しないといけない。
「生ハムっていうぐらいだから、ハムとかベーコンとかと同じように使えばいいんだよね、きっと」
「あー、なるほどな、そうすればいいのか。それだと……アスパラ巻いたりとか?」
「ああ、おいしそうだね」
「じゃあアスパラ巻きは決定、っと」
適当に手に取ったざらざらとしたチラシの裏にボールペンでアスパラと書く。あとは何があるだろう。ハムやベーコンの代わりと言われてもすぐには思いつかない。目玉焼きに敷くのはなんとなくもったいない気がするし。サンドイッチは夕飯としては向いていない気がするし。
本やテレビで生ハムを使った料理を見た事があってもいいはず、と記憶の中を探ってみる。料理番組で生ハムはあんまり出てこない気がするけれど、多分ゼロではないだろう。いつもは見てなくても、たまたま見ていた事ならあるかもしれない。
「あ」
映像が頭に浮かんだ。けれどそれは料理番組ではなくて、たまたま見たドラマのワンシーンだった。そうだ、そういえば。
「緑色のものに乗ってるの、見た事あるかも」
「緑色?」
マツバと二人で頭を抱える。緑色の……緑色の、なんだっただろう。ほうれん草みたいなくっきりとした緑じゃなくて、もっと淡い色だった気がする。淡い緑。だけどレタスではなくて、キャベツでもない。もっとどっしりとしたものだった気がする。
「うーん……、キュウリ、とか?」
マツバは絞り出すようにそう言った。言われた通りにキュウリを思い浮かべてみる。大きめに切ったキュウリの上に生ハムを乗せてみた。おかしくはない。生ハムの塩味とキュウリも合いそうだ。そうか、言われてみればキュウリだったかもしれない。
「それかも。じゃあキュウリもだな」
キュウリと書く。これで二品。
「なんだか汁物が欲しくなってきたねえ」
「汁物かあ……」
多分スープがいいんだろうなと思う。コンソメで味をつけて、タマネギを入れて、卵を入れて。でもおかずがアスパラはともかくキュウリとなると洋風のスープとはなんとなく合わないような気がする。和風のものならアスパラでもキュウリでも問題ないけれど。
「そういえばこれ豚肉だよね。豚汁風にしてもいいんじゃない? 生で食べれるならしゃぶしゃぶみたいにくぐらせるだけにしてもいいし」
「コンソメよりはその方が他のおかずに合うよなあ、やっぱり。具は考えないといけないけどさ」
「豆腐は合わないかもね……。でもネギは悪くなさそう。あと大根とかもいいんじゃないかな」
味を想像してみる。あの最初にやってくる生ハムの煙のような風味と豆腐は確かに合わないような気がする。ネギはよさそうだ。それから大根も。他には何を入れていただろう。ごぼうと、こんにゃくと、里芋と……これはどれもいまいちな気がする。
「そうだな、その二つと……あ、しめじもいいかも」
「ああ、いけそうだね」
ネギ、大根、しめじ。あとはご飯があればとりあえずはよさそうだ。この前買ったリンゴが残っているから食後にはそれを剥いてつまめばいい。となると、買うものはこれだけで十分のはず。買いに行くか、と呟くと、そうだね、と答えてマツバは立ち上がった。いつもと比べるとこの時期でも暖かいような気もするけれど、それでもさすがに上着を着ないと外を歩くのは辛い。どうせまた出かけるからと壁にかけてあった上着を羽織る。マツバも畳んで置いてあったコートをしっかりと着込んでいた。
二人揃って家を出る。夕飯の準備にはちょうどいい時間で、夕飯にはまだ早い時間。それなのに、もうすっかり日が傾いて薄暗かった。風が出てきたせいかやけに冷える。玄関に鍵をかけて、肩を竦めながら歩き出した。雲の隙間から夕焼けの名残が漏れている。
「そういえば、他の人じゃなくてよかったの?」
門を出た所でマツバがそう言った。何の話だろうと思っていると、俺の様子に気付いたらしいマツバは首を傾げながらもう一度口を開く。その目は少しだけ不安そうな、困ったような色を浮かべていた。
「僕、生ハムなんて食べるの初めてだし、もっとああいう食べ物に詳しい人がいたんじゃないかなと思って」
「あー……」
言われてみれば確かにそうかもしれない。アカネはよくジムの子たちとランチに行くと言っていたから食べていそうだし、ミカンさんもこういう食べ物にも詳しそう。家に……は、まあ、呼べないけれど、別に電話か何かでちょっと相談するぐらいならよかったはずだ。でもどうしてかそれは全く思いつかなくて、気が付けばマツバに電話をかけていた。
「なんでだろ、マツバ以外思いつかなくて」
焼き魚のにおいを乗せた冷たい風が通り抜けていった。あ、と思った時にはもう遅い。恐る恐る見上げると、マツバはきょとんとした顔でこちらを見ていた。それから少しして俺の言葉の意味を理解したのか、その顔がみるみるうちに緩んでいく。
「あ、いや、これは」
うん、と返事をする声が震えている。唇を噛んでいるのを隠せてはいないし、完全に目が泳いでいる。嬉しそうでなによりだ、と思う事でごまかそうとしたけれど、やっぱり恥ずかしさには耐えられなかった。
「か、買い物袋! 買い物袋忘れたから取ってきて!」
ポケットから取り出した鍵を押し付ける。マツバはその勢いに半歩下がっただけで、何事もなかったように鍵を受け取った。
「買い物袋?」
その声がまだふわふわと揺れているから、腹立たしいような恥ずかしいような……俺の言葉に喜んでいるのが、少しだけ、本当に少しだけ、嬉しいような気もするけれど、きっと気のせいだ。そういう事にしておこう。しておきたい。
「そう、買い物袋!」
「わかった」
マツバは門を開けて、鍵を開けて、家へと入っていく。それを見届けてから、閉じた門に凭れて大きく溜め息をついた。空気は相変わらず冷えているのに、暑くて仕方がなかった。上着の袖を捲ると腕が外気に晒されて心地よい。こんなやりとりをしているうちに雲の隙間のオレンジは薄れて、深い青が覗き始めていた。そのうちにその色も黒になって、すっかり夜になるのだろう。
背中の向こうで扉が開く音がした。買い物袋を片手に持ったマツバがこちらに歩いてくる。その表情はもういつものものだった。だから助かったような気もするけれど、そうでもないような気もする。
「……ありがと」
「うん。行こうか」
街灯が乾いたアスファルトと散らばった落ち葉を照らしていた。もう冬がやってくる。温かいものが欲しくなる時期だなあと思う。そうだ、ぜんざいが食べたい気がする。あずきの缶をこの前見つけたんだった。でも一人分だけ作るのも微妙だし、かといって作りすぎたらおいしくなくなってしまうし、またマツバを呼んで一緒に食べよう。……いや、だから、なんでマツバなんだよ。
「ああもう、うるさい!」
「えっ、何も言ってないのに……」
(END)
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