卵がひとつ

 作業が一段落した所でちょうど昼になった。足場を伝って降りて、置いてあった昼食の包みを持ってさっきいた場所まで登っていく。組んだ足場の一番上。そこに腰かけて包みを開く。真夏というには少し早いけれど、梅雨も明けたし間違いなく今は夏だ。凍らせてきた保冷材は溶けてやわらかくなっていた。弁当箱を開けて、保冷材のおかげで幸か不幸か冷えているご飯を口に運ぶ。生姜焼きは少し焦げてしまったけれど、苦いというほどではないし、及第点だと思う。

 鳩が一羽飛んできて俺の傍に降りた。くるくると喉を鳴らしながらせわしなく首を動かす。あちらこちらに振れる視線が、主に俺に向いていると思うのは間違いではないだろう。ポケットに入れていた袋からパン屑を取り出して撒いた。撒いたというか置いた。足場にこんなものが残っていたら間違いなく叱られる。

「かしこいなーお前」

 パン屑をつつく姿を見て思わず呟いた。時々こうして餌をやっているうちに学習したらしく、俺がこうして弁当を食べていると寄ってくるようになった。群れで来られたらその時は餌をやるのをやめないと、と思ったけれど、まるでそのあたりの事情もわかっているかのようにいつも一羽で来るのだった。

 鳩をぼんやりと眺めながら弁当を食べていると、下の方から音が聞こえてきた。ラジオをつけたらしい。お気に入りの番組があるらしいその人は、いつも同じチャンネルに合わせている。テーマ曲らしきアップテンポな音楽もすっかり聞き慣れてしまった。パーソナリティのさっぱりとした話し方だって。やたらと英語の発音がいいので、ありきたりなカタカナ語ですら聞き取れなくて、後からあの事だったのかと思う事が何度もあった。今日もそうだった。唐突に水彩と聞こえてきてどうしてだろうと思いながらトークを聴いているうちににシーサイドだったと気が付いた。

 弁当を食べ終わる頃にはその番組も終盤だった。お決まりの挨拶をすらすらと読み上げて、それからBGMがゆっくりと消えていく。それから車屋だとかサラ金だとかのCMがいくつか流れた後、さっきとは違う、でもすっかり耳に馴染んだ音楽が流れた。ほんの数秒だけ流れるゆったりとした曲。リラックスタイムに、というキャッチコピーでもつけられていそうな曲だといつも思う。その音楽を合図に始まるのは3分にも満たないニュースコーナー。若い男の人の穏やかな声で地元のニュースや交通情報が読まれていく。明後日どこかの神社で祭りがあるようで、そのあたりが通行止めになるらしい。夏祭りなんてしばらく行っていないな、と思う。久しぶりに綿菓子を食べたいような気がする。りんご飴も好きだし、イカ焼きもいいよなと思う。日の出ているうちしか作業はできないから、夜に仕事が入るような事はない。それがこの仕事のいい所だ。その分朝は早いけれど、もともと早起きだからそれほど苦にならない。

 だけど昼飯の後はさすがに眠たいな、とあくびを漏らした所で、ぼんやりとしていた意識が突然引き戻された。鳩、という単語が耳に飛び込んできて思わず傍に座り込んでいた件の鳩の方を見ると、ちょうど目が合った。なんでニュースで鳩の話なんだろう、と思いながら聴いていくと、どうやらニュースは終わって交通情報を読んでいるようだった。高速で事故があって渋滞中。……その近くのサービスエリアの名前にたまたま鳩と入っているだけの話だった。

「渋滞中だって。大変だよな」

 そう話しかけると、それがどうしたとでも言うかのように首を数回振ってからどこかへ飛んでいってしまった。つれないやつ。



 日が落ちたし作業も順調に進んだので今日の仕事は終わりだ。昼を過ぎてから一気に暑くなったせいかなんだか疲れてしまった。たまには弁当でも買って帰ろう、と思いながら通い慣れた道を歩いていく。少し前に家の近くに新しく弁当屋ができたはずだ。そこに寄ってみよう。のり弁も好きだけど今日は肉が食べたい気分。すき焼き弁当かカツ丼にするか。それならいっそ牛丼屋でもいいかもしれないけれど、残念ながら牛丼屋があるのは反対方向だ。今日の所は諦めよう。

 夜になって少しは涼しくなったけれど、まだまだ歩くと汗が出てくる。風がある日ならもう少しマシだろうけど、今日は風がないから更に暑い。腹は減ったけど帰ったら先に風呂に入ろう。そんな事を考えているうちに弁当屋が見えてきた。住宅地だから光といえば街灯と家から漏れる明かりぐらい。その中で店の明かりはやけに眩しく見えた。

 自動ドアが開くとひんやりとした空気が流れてくる。そして入店音が鳴った。やっぱり冷房はありがたいなと思いながらレジに並ぶ。店内にいるのは一人だけ。金髪にスーツというなんとなく噛み合わない格好の男の人が注文している所だった。

「すき焼き弁当と、うーん、生卵一つお願いします。あと豚汁も」

 おっとりとした口調で彼はそう言った。なんとなく聞き覚えのある話し方だと思ったけれど、とりあえずこんな髪の色をした知り合いはいなかったはずだ。年だって父さんの知り合いにしては若いし、俺の友達にしては少し大人だ。しばらく後頭部を見つめてみたけれど思い出せなかった。気のせいだろうか。気のせいなんだろうなあ。

 少々お待ちください、と言う店員の声に従って、その人は壁際に置かれた長椅子に座った。店員は店の奥にある厨房に向かって注文内容を告げてすぐに俺の方に向き直る。すき焼き弁当一つ、と伝えて会計を済ました。そしてさっきの人と同じ長椅子の反対側の端に座った。スマホを取り出してボタンを押すと画面が光る。待ち受けにしているのは近所で撮った鳥の写真。

「あ」

 その写真を見て思い出した。頭の中にパン屑をつつく鳩の姿と馴染みの音楽が浮かんでくる。そうだ、ラジオのあのニュースコーナーの人の話し方に似ている気がする。些細な事だし、実は会計をしている間に忘れていたのだけれど、解決するとなんだかすっきりとした。思い出せた事に満足して鼻歌混じりでニュースサイトを開く。そしていくつか気になったニュースを読んでいく。新しくできたラーメン屋が最大三時間待ち、という記事を開こうとした所で、ビニール袋が鳴る音と何かが潰れるような音が聞こえた。思わず顔を上げる。さっきの金髪スーツの人が目を丸くして俺を見ながら立ち止まっていて、足元には弁当の入ったビニール袋が落ちていた。

 なんだろう、と思った所で何故かその人は俺に頭を下げて、袋を拾い上げて店を出た。こんな反応をされるような事を何かしただろうかと首を傾げた所でカウンターに呼ばれた。立ち上がり、弁当を受け取った所で自動ドアが開く音と軽快なメロディーが聞こえた。

 その音で答えに辿り着いた俺は、背を向けかけていたカウンターの方へ向き直り、財布を取り出しながら店員に声をかけた。

「すみません。やっぱり生卵一つください」



 その人の背中は随分と小さくなっていたけれど、見通しのよい道だからすぐに見つけられた。弁当の袋を片手に背中を追いかける。提げた袋が揺れて音を立てる。向こうは歩いているだけだから、中身がこぼれないように気を付けながら走ったけれど追いつく事はできた。あと10メートルを切ったかな、と思ったあたりで、足音に気が付いたのか彼は振り返った。そして俺が追いかけてきているのに気付いたようで、そのまま立ち止まった。

「あの」

 速度は落としていたけれど、それなりの距離を走ったせいで息が切れていた。息を整えている俺に、こんばんは、と彼は声をかけた。柔らかいその声はこんなべたついた夏の夜には似合わないと思いながら手の甲で汗を拭った。

「さっき、すみません」

「え?」

「驚かせて」

 入店音を聞いた時に、ほとんど無意識に鼻歌に選んだ曲があのニュースコーナーのオープニングの曲だったと気が付いた。それを聞いて驚いたんだろうなという予想は当たりだったようで、彼はすぐに首を横に振った。

「俺が勝手にびっくりしただけなので」

 そう言って照れたように笑う。俺よりも明らかに年上だけれど笑うと少し幼く見えた。それでも俺よりは大人っぽい。五つぐらい上かな、と勝手に考えた。……いや、そんな事はどうでもいい。俺は提げた袋の中からさっき買ったばかりの卵を取り出した。

「あの、卵、ダメになったかもしれないから」

 袋が落ちた時、パックが潰れたような音がした。卵は割れていないかもしれないけれど、割れているかもしれない。渡そうと手を伸ばした勢いで、透明なパックの中の卵が微かに揺れた。

「いや、そんな。大丈夫ですよ」

 気にしないでください、と彼は片手を持ち上げて手のひらをこちらに向けたけれど、俺も引かなかった。そりゃあ見知らぬ相手からいきなり卵を渡されてもな、と思う気持ちもないではなかったけれど、ここまで来てしまったからには引けないと思った。

 しばらくそのまま向き合っていたけれど、そのうちに彼の方が折れて受け取ってくれた。

「ありがとうございます。ごめんなさい、気を遣わせちゃって」

「いえ……こちらこそ、すみません」

 薄々感づいてはいたけれど、急になんだかおかしな事をしているんじゃないかという気持ちが湧き出てきて、いたたまれなくなって、それじゃ、ともごもごと呟いて彼に背を向けた。それから来た時と同じ道を走り出した。

「あの!」

 数メートル走った所で呼び止められる。そのまま走り去ってしまおうかと迷ったけれど、向こうは立ち止まって待ってくれたんだ。止まらないといけないと思った。足を止めて振り向くと、彼は明るい顔で笑っていた。

「聴いてくれてありがとうございます」

 おやすみなさい、と言う声はやっぱり穏やかで本当にこんな夜にはもったいないぐらいだと思う。俺は何も答えずに、ただ一度頭を下げた。そして家を目指してひたすら走った。息が切れる。心臓がうるさい。何度も道を曲がったからもう俺の姿なんて見えるはずがないのに、走るのをやめる事ができなかった。

 そうして家に着いた時には、提げた袋の中は器から溢れたすき焼きの汁でべたべたになっていた。俺も全身にべったりと汗をかいているし、なんだか疲れたし、最悪だと思った。

「なんだよ、もう」

 床の上に転がってぼんやりと蛍光灯を見上げる。最悪だけど、本当に最悪なんだけど、悪い夜じゃなかったんじゃないかとどこかで思っていた。

(END)
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