プラチナの剣
割れたガラスが射し込む街灯を反射してキラキラと光っていた。星みたいだと思ったけれど、今日は空を分厚い雲が覆っていた。星なんて一つも見えない夜だった。
「ハヤト、大丈夫?」
引き攣ったようなマツバの声に我に返る。足元の星空の中につるりと丸みを帯びた石が転がっていた。石は窓に当たってガラスは割れてしまったけれど、それだけだった。
「平気」
「そう……」
俺の返事にマツバは少しだけ安心したようだった。けれど空気が緩んだのはほんの一瞬。部屋の入口に立ち尽くすマツバは険しい顔をしていた。
「警察」
「……いや、呼ばなくてもいいと思う」
彼の呟きに思わずそう返事をしてしまった。窓が割れて、俺が状況を把握するよりも早く、ゲンガーたちが外に飛び出していったから。それから少しして情けない悲鳴が聞こえた。犯人の声、だったのだろう。多分もうしないと思う。ただのいたずらですら容赦のないあの子たちが怒って飛び出していったのだから、相当怖い思いをしているはずだ。
「片付けないと」
虚ろな声が零れたのが自分でもわかった。滅多に使わない軍手を押入れの中から取り出して、ガラスの破片を拾い集める。大きな塊は新聞紙の上へ並べていく。細かいものは掃除機で吸い込むしかなさそうだ。割れてしまった窓もなんとかしたいけれど、もうすぐ日付が変わる時間。修理業者はもうやっていない。今夜はなんとか凌いで明日電話をするしかない。
俯いて作業を続ける俺の視界にすっと手が入り込んでくる。俺と同じように軍手をしたマツバがガラスを拾い上げていた。マツバは何も言わなかった。俺も何も言わなかった。破片を集め終えて新聞紙に包む。掃除機はマツバに任せて、俺は台所のゴミ箱へと向かう。深夜の台所は静かだ。片付けもすっかり済んでいるから、まるで死んでいるみたいだと思う。燃えないゴミの容器の横に置いて和室に戻った。ちょうどマツバも掃除機を止めた所だった。
「ゲンガーたち、戻ってきたよ。今日は窓見張っててくれるって」
部屋には不機嫌そうな表情を浮かべたままのマツバの手持ちたちが勢ぞろいしていた。これならば確かに入ってこられない。そう思うと同時に窓の向こうで鳴き声がした。庭の木の上でヨルノズクは任せろと言うかのように首を振る。
「みんなにお願いして寝ようか」
うん、とその言葉に返事をする。マツバが掃除機をしまっている間に軍手を洗濯物の上に置く。それから部屋の電気を消して、揃って寝室へ向かった。春とは言っても冷える日もまだまだあるけれど、今日は暖かい夜だった。裸足で歩く廊下もそれほど冷たくはない。それどころか生き物のような妙な温さがあって、なんとなく落ち着かない気分だった。ふと気を抜くと心臓が騒ぎ出しそうだ。それはつまり、不安なのだった。マツバの寝間着の袖を軽くつまむ。気付いてはいないようだ。
寝室の扉の前で手を離した。二つ並んだ布団の上に寝転がると、マツバが電気を消した。橙色の小さな明かりだけが灯る。暗くなった視界の中に割れたガラスの破片が浮かび上がった。慌てて目を閉じる。その影を消すように瞬きを繰り返す。
「ハヤト」
まさか俺の顔が見えていたわけではないと思うけれど、隣にいるマツバは俺の名前を呼んだ。
「一緒に寝ようか」
甘さのない諦めたような声に、マツバも同じ気持ちなのだと思い知る。平気なはずがない。あんな風に石を投げられて、窓を割られて。一歩間違えば大怪我だった。けれど、怪我をしそうになったからでも家を壊されたからでもなくて、もっと深い所からこの不安は来ているのだった。
俺は黙ってマツバの布団に潜り込んだ。身を寄せるとマツバは布団を掛け直してくれた。腕が背中に回ったのがわかる。その手が震えているのに気が付いたら、もう黙ってはいられなかった。
「……なんにも悪い事してないのにな、俺たち」
苦しそうな息の音が聞こえた。そして背中に回った腕に力が籠められる。マツバの胸に顔が押し付けられる。苦しくて顔を上げようとしたけれど、マツバの腕がそれを阻む。仕方がないからそのまま我慢する事にした。
ごめんね、と小さな声がした。それから頭に冷たいものが触れたのを感じた。泣いているのだと思った。それなら俺が慰めてやらないといけない。なんとか右腕を持ち上げてマツバの背中を叩く。母親が子供をあやすみたいに。マツバの腕が少し緩んだ。見上げると予想通り涙を零すマツバの顔があった。
俺がこちらに住むようになってから五度目の春を迎えた。マツバも俺もおじさんに片足を突っ込んでいるようなものだ。そんな年の男が二人で一緒に住んでいるのは世間的に見れば不自然で、加えて俺たちがジムリーダーという目立つ仕事をしていたから、あっという間に噂は広がった。事実だし、否定する方がおかしいから俺たちは何も言わなかった。何事もないように受け入れてくれる人もたくさんいたけれど、そうでない人も多かった。よそよそしくなるぐらいはかわいいもので、冷ややかな目を向けられたりだとか、面と向かってからかわれたりだとか、そんな事は日常茶飯事なのだった。マツバも俺もそれぐらいは覚悟していた。覚悟していたけれど、今回のように明確に危害を加えられたのは初めてだった。不安もあるけれど、ショックだというのも大きいのかもしれないとようやく気が付いた。悪い事をしているわけでもないのにどうして、と。そう思った事は一度や二度ではないし、マツバも俺も何度も泣いてきた。思い詰めては謝り続けるマツバを一晩中宥めた事もある。……もちろん、その逆もあるのだけど。
体の下敷きになっていた左手を引き出す。薬指に嵌る指輪を涙の跡に触れさせる。マツバは驚いたような顔をしてそれからまた俺の体を引き寄せる。背中の手が頭に回される。ひやりとした感覚に同じように指輪が触れたのだとわかる。
「俺は平気だから」
強がりでしかないけれど、そう言うのが俺の役目だと思った。この指輪を交換したという事は無条件に支えてあげないといけないという事で、それから無条件に支えてもらえる事なのだと思う。二人で生きていくためにそうしなければいけない。大丈夫。二人揃って潰れてしまう事なんてない。だから大丈夫。苦しくても一緒に生きていける。
「明日窓修理してもらったらさ、花見に行こうよ。いい天気になるって言ってたから。それで和菓子でも買ってきてのんびりしよう」
一緒に、と付け加えると頷く気配がした。マツバの手が頭から離れる。左手同士の指を絡めた。指輪がぶつかる微かな音を聞くと少し心が穏やかになった。目を閉じて額をマツバの胸につける。鼓動の音は子守歌。明日が優しい日になりますようにと祈りながら眠りについた。
(END)
「ハヤト、大丈夫?」
引き攣ったようなマツバの声に我に返る。足元の星空の中につるりと丸みを帯びた石が転がっていた。石は窓に当たってガラスは割れてしまったけれど、それだけだった。
「平気」
「そう……」
俺の返事にマツバは少しだけ安心したようだった。けれど空気が緩んだのはほんの一瞬。部屋の入口に立ち尽くすマツバは険しい顔をしていた。
「警察」
「……いや、呼ばなくてもいいと思う」
彼の呟きに思わずそう返事をしてしまった。窓が割れて、俺が状況を把握するよりも早く、ゲンガーたちが外に飛び出していったから。それから少しして情けない悲鳴が聞こえた。犯人の声、だったのだろう。多分もうしないと思う。ただのいたずらですら容赦のないあの子たちが怒って飛び出していったのだから、相当怖い思いをしているはずだ。
「片付けないと」
虚ろな声が零れたのが自分でもわかった。滅多に使わない軍手を押入れの中から取り出して、ガラスの破片を拾い集める。大きな塊は新聞紙の上へ並べていく。細かいものは掃除機で吸い込むしかなさそうだ。割れてしまった窓もなんとかしたいけれど、もうすぐ日付が変わる時間。修理業者はもうやっていない。今夜はなんとか凌いで明日電話をするしかない。
俯いて作業を続ける俺の視界にすっと手が入り込んでくる。俺と同じように軍手をしたマツバがガラスを拾い上げていた。マツバは何も言わなかった。俺も何も言わなかった。破片を集め終えて新聞紙に包む。掃除機はマツバに任せて、俺は台所のゴミ箱へと向かう。深夜の台所は静かだ。片付けもすっかり済んでいるから、まるで死んでいるみたいだと思う。燃えないゴミの容器の横に置いて和室に戻った。ちょうどマツバも掃除機を止めた所だった。
「ゲンガーたち、戻ってきたよ。今日は窓見張っててくれるって」
部屋には不機嫌そうな表情を浮かべたままのマツバの手持ちたちが勢ぞろいしていた。これならば確かに入ってこられない。そう思うと同時に窓の向こうで鳴き声がした。庭の木の上でヨルノズクは任せろと言うかのように首を振る。
「みんなにお願いして寝ようか」
うん、とその言葉に返事をする。マツバが掃除機をしまっている間に軍手を洗濯物の上に置く。それから部屋の電気を消して、揃って寝室へ向かった。春とは言っても冷える日もまだまだあるけれど、今日は暖かい夜だった。裸足で歩く廊下もそれほど冷たくはない。それどころか生き物のような妙な温さがあって、なんとなく落ち着かない気分だった。ふと気を抜くと心臓が騒ぎ出しそうだ。それはつまり、不安なのだった。マツバの寝間着の袖を軽くつまむ。気付いてはいないようだ。
寝室の扉の前で手を離した。二つ並んだ布団の上に寝転がると、マツバが電気を消した。橙色の小さな明かりだけが灯る。暗くなった視界の中に割れたガラスの破片が浮かび上がった。慌てて目を閉じる。その影を消すように瞬きを繰り返す。
「ハヤト」
まさか俺の顔が見えていたわけではないと思うけれど、隣にいるマツバは俺の名前を呼んだ。
「一緒に寝ようか」
甘さのない諦めたような声に、マツバも同じ気持ちなのだと思い知る。平気なはずがない。あんな風に石を投げられて、窓を割られて。一歩間違えば大怪我だった。けれど、怪我をしそうになったからでも家を壊されたからでもなくて、もっと深い所からこの不安は来ているのだった。
俺は黙ってマツバの布団に潜り込んだ。身を寄せるとマツバは布団を掛け直してくれた。腕が背中に回ったのがわかる。その手が震えているのに気が付いたら、もう黙ってはいられなかった。
「……なんにも悪い事してないのにな、俺たち」
苦しそうな息の音が聞こえた。そして背中に回った腕に力が籠められる。マツバの胸に顔が押し付けられる。苦しくて顔を上げようとしたけれど、マツバの腕がそれを阻む。仕方がないからそのまま我慢する事にした。
ごめんね、と小さな声がした。それから頭に冷たいものが触れたのを感じた。泣いているのだと思った。それなら俺が慰めてやらないといけない。なんとか右腕を持ち上げてマツバの背中を叩く。母親が子供をあやすみたいに。マツバの腕が少し緩んだ。見上げると予想通り涙を零すマツバの顔があった。
俺がこちらに住むようになってから五度目の春を迎えた。マツバも俺もおじさんに片足を突っ込んでいるようなものだ。そんな年の男が二人で一緒に住んでいるのは世間的に見れば不自然で、加えて俺たちがジムリーダーという目立つ仕事をしていたから、あっという間に噂は広がった。事実だし、否定する方がおかしいから俺たちは何も言わなかった。何事もないように受け入れてくれる人もたくさんいたけれど、そうでない人も多かった。よそよそしくなるぐらいはかわいいもので、冷ややかな目を向けられたりだとか、面と向かってからかわれたりだとか、そんな事は日常茶飯事なのだった。マツバも俺もそれぐらいは覚悟していた。覚悟していたけれど、今回のように明確に危害を加えられたのは初めてだった。不安もあるけれど、ショックだというのも大きいのかもしれないとようやく気が付いた。悪い事をしているわけでもないのにどうして、と。そう思った事は一度や二度ではないし、マツバも俺も何度も泣いてきた。思い詰めては謝り続けるマツバを一晩中宥めた事もある。……もちろん、その逆もあるのだけど。
体の下敷きになっていた左手を引き出す。薬指に嵌る指輪を涙の跡に触れさせる。マツバは驚いたような顔をしてそれからまた俺の体を引き寄せる。背中の手が頭に回される。ひやりとした感覚に同じように指輪が触れたのだとわかる。
「俺は平気だから」
強がりでしかないけれど、そう言うのが俺の役目だと思った。この指輪を交換したという事は無条件に支えてあげないといけないという事で、それから無条件に支えてもらえる事なのだと思う。二人で生きていくためにそうしなければいけない。大丈夫。二人揃って潰れてしまう事なんてない。だから大丈夫。苦しくても一緒に生きていける。
「明日窓修理してもらったらさ、花見に行こうよ。いい天気になるって言ってたから。それで和菓子でも買ってきてのんびりしよう」
一緒に、と付け加えると頷く気配がした。マツバの手が頭から離れる。左手同士の指を絡めた。指輪がぶつかる微かな音を聞くと少し心が穏やかになった。目を閉じて額をマツバの胸につける。鼓動の音は子守歌。明日が優しい日になりますようにと祈りながら眠りについた。
(END)
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