びいだま

 足元に小さく弾みながら転がってきたものを拾い上げる。土で汚れた野球のボールだ。どこから来たのかと辺りを見回すと、少し離れたネットの向こうから声が聞こえた。ユニフォームを着た男子生徒がこちらに向かって手を振っていた。

「ハヤト、それ投げてくれー!」

 同じクラスの奴の声だった。帽子をかぶるとわからなくなるもんだなあ、と思いながらネットの高さを確認する。距離もあるし越えられるかどうか。だけど、まあ、なんとかいけそうだ。

「いくぞー」

 鞄を下ろして数歩下がる。足元でアスファルトと小石が擦れる音がした。助走をつけて思い切り腕を振る。俺の手を離れたボールは弧を描きながら雲がいくつか浮かんでいる空へと向かって、そしてネットを飛び越えてグラウンドの中へ落ちていく。視線の先でグローブを嵌めた彼が慣れた様子で落下地点に走っていく。ボールは吸い込まれるようにグローブの中に収まった。

「サンキュー」

 彼は手を振ってそう声を上げた。おう、と軽く応えて、足元の鞄を肩にかける。グラウンドではたくさんの部活が集まって練習をしている。いつもだったら俺たちも音楽室に籠っている時間だけれど、今日は部活は休みだ。まっすぐ帰ってのんびりしようと門に向かって歩き出す。その背中を誰かに叩かれた。振り返るとマツバ先輩がいて、心臓が跳ねたのがわかった。

「すごいねハヤト、僕だったらネット超えられないよ」

 どうやら俺がボールを投げる所を見ていたらしい。なんだか恥ずかしくなってしまった。どう返したものかと考えようとしたけれど、それよりも先に先輩の姿に違和感を覚えて問い掛けた。

「先輩、今日は自転車なんですか?」

 先輩の隣には見慣れないものがあった。他の生徒たちが通学に使うような何の変哲もない銀色の自転車。だけど、先輩は俺と同じようにバスや電車で通ってきているから自転車には乗らないはずだ。

「ああ、部活が休みだって言ったらちょっと寄ってきてほしい所があるって親に言われてさ。電車でもバスでも不便だからな、と思ってこれで来ちゃった」

「遠くないですか?」

「うーん、確かに遠かったけど一日ぐらいならいいかなと思って。あ、そうだ、ハヤトはもうバス停に行く?」

「はい、まっすぐ帰ろうかなと」

「じゃあ乗ってきなよ。バス停と同じ方向だから」

「え、乗っていくって」

「先生に見つかるといけないから、ちょっと離れた所でね」

 内緒話のように先輩は囁く。つまりは二人乗りの事だろう。真面目な先輩らしくないなと思ったけれど、なんだか楽しそうにしているから何も言えなくなってしまう。

「行こうか」

「はい」

 授業が終わった後の方が学校内は賑やかだ。運動部の掛け声だとか、吹奏楽部の演奏する音だとか。秋の終わり。日が傾くのは早い。色を変え始めた空の下を先輩と二人で歩いていく。今、トランペット音外したね、なんて笑いながら。

 門を抜けて、部活に入っていない少数の生徒たちに紛れながら歩く。バス停の方へと向かう道に入った所で、お互いに黙って目配せをした。子供のように先輩は笑った。普段は見せない顔だった。だから、もしかしたら俺は特別なんじゃないかと期待してしまった。……確かに同じ部活の数少ない後輩ならば特別なはずだ。でも、そうじゃなくて。そんなはずないのに。

「よし、乗って」

 先輩は自転車にまたがると、後ろに乗るように促した。タイヤの横の少しだけ張り出した部分に右足をかける。

「あ」

「どうしたの?」

「手、って、どうするのかなって」

「ああ、遠慮しなくていいよ。僕の肩に掴まって」

 彼は何気なくそう言った。自分から触れる事がどれだけ勇気のいる事かなんて、きっとこれっぽっちもわかっていない。俺は唾を飲み込み、肩に手を置いた。どうかこの手が震えているのがわからないようにと祈りながら。右足に体重をかけ、左足で地面を蹴る。体を自転車と先輩の肩に預けた。痩せた体。制服の向こう、皮膚の下にある骨の感触が掌に伝わって、それがなんだか少し怖かった。

「行くよ」

 自転車はゆっくりと動き出す。緩い坂道を下りていく。冷えた風が先輩と俺の髪を揺らす。見慣れている通学路もいつもよりも高い視点から見下ろすと新鮮だ。空が近くて、飛んでいるようで気持ちがいい。指は少し冷たいけれど。

「なんか青春って感じがして楽しいね」

 スピードが出過ぎないように、適度にブレーキをかけながら先輩はそう言って笑った。そうですね、と返す声も少し弾んでいたかもしれない。坂を下りきって、信号を二つ超えたらもうバス停に着いてしまう。もっと遠くにあったらいいのに。そうしたらこうしてずっと触れていられるのに。まるで二人きりでいるみたいに思っていられるのに。夢を、見ていられるのに。

 楽しい気分なのに、笑っているのに、胸の奥が痛いと思った。いつまでもこのままでいられると思えるほど俺はもう子供ではないのだった。先輩は卒業して、きっと大学に行って、就職して。その途中で本当に大事な人を見つけるんだ。それは多分……絶対に、俺じゃなくて、もっとやわらかくて可愛らしい人なんだろう。その人の手を引いて先輩は歩いていく。俺にはその背中を見送る事だってできないかもしれない。卒業したらそこでもうおしまいかもしれない。そうなって悲しむ前に鍵をかけてしまわないと。ただの思い込みだって。たまたま近くにいたから、気の迷いで好きになってしまっただけだって。そうやって自分に思い込ませないと。早くしないと。冬が来て、そして去っていったら先輩はもう。

「先輩」

「ん?」

「秋って寂しいですね」

「どうしたのいきなり」

 ふんわりとした声には翳りがなかった。それがまた俺の胸を突き刺したけれど、なんとなくです、と答えてごまかした。

 肩を掴む手に少しだけ力を籠める。触れるのはこれで終わりだと自分に言い聞かせて。どこかで誰かが泣いている声が聞こえたような気がした。きっと、きっと、木枯らしの音だ。

(END)
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