天使の梯子
僕の足元に広がるのは、ジャグリングのクラブが落ちた跡。フラフープに打ち据えられた跡。動物たちの爪の跡。ステージの上は細かい傷で埋め尽くされていた。薄暗い蛍光灯の明かりの中に傷跡を晒したこの舞台が僕の、僕たちの生きる世界だった。
「ねえ、なんで黙ってるの」
その声に顔を上げる。夜には華やかに輝くステージには不似合いの、鉄骨を組み上げただけの無骨な足場の上に彼はいた。
「俺がいるのわかってたんだろ、千里眼」
舞台袖の暗がりの中で彼の目だけが光って見えた。
「そうだね。えっと、こんにちは?」
そう言えば彼は露骨に溜め息をつく。暗くてあまり見えないけれど、きっと不機嫌そうな顔をしている事だろう。無意識に目を細めて表情を伺おうとした僕の耳に、金属の擦れる音が聞こえた。彼はブランコを掴んでいる。その目はもう僕を見ていない。深呼吸を一度するのが気配でわかった。足場を蹴って彼が飛ぶ。ブランコ乗りとは思えない華奢な両腕だけが彼を繋ぎ止めている。彼の命を繋ぎ止めている。
足を振り子のように大きく振りながら体を曲げる、反らす。その繰り返しだけで、ブランコはみるみるうちに高度を上げていく。天井に届きそうなほどに高く。しばらく彼はそうしてブランコを揺らしていた。なんでもない道を歩いているかのような、何の感情も浮かんでいない表情だった。そう思った次の瞬間、彼は唯一の命綱であるはずのブランコを突き放した。揺れるブランコの勢いに押された体が舞い上がる。彼の命を繋ぐものはない。それは死ぬのと同じ事だと思った。
細い体が空中で反転する。そしてその手は吊り下げられたブランコを掴んだ。静止していたブランコがその衝撃で動き出す。眠りから覚めるかのように。さっきまで静まり返っていた舞台が息をしている。揺れる二つのブランコとその間で踊る一つの体。鼻歌でも聞こえてきそうなほどの気軽さで彼は宙を舞う。緩やかに体を一捻り。勢いをつけて軽やかに宙返り。鳥のように。猫のように。
白い練習着は羽のようだ。伸びた両腕の間を持ち上げられた両足がすり抜ける。膝の裏にブランコを挟んで手を離す。逆さ吊りになった彼の肌が露わになる。引き締まった細い腰が綺麗だと思った。そんな邪念を抱かせたのはほんの一瞬。鍛え上げた筋肉はいともたやすく彼の体を引き上げる。そしてブランコの上に座った彼は、公園で遊ぶ子供のように揃えた足を緩く揺らす。
「怖くないの?」
「何が?」
「飛ぶの」
「どうして?」
「何もないから。命綱が邪魔ならネットでも張ればいいのに」
馬鹿だなあ、と彼は笑った。笑顔になると少し近寄りがたい雰囲気は和らぐけれど、冷ややかな声はそれを拒絶する。
「みんなサーカスに何を観に来てるんだと思う?」
「僕たちの芸、じゃないの?」
「意外と頭悪いんだな。30点」
本当の子供のように無邪気に彼はブランコを漕ぐ。体を少し後ろに傾けてみたり、両足をぶらぶらと揺すってみたり。どこか愛らしい仕草と対照的に、ただひたすらに発言は辛辣だった。そういえばこうして話すのは初めてかもしれない。一つの公演の中で僕たちが同時にステージに上がる事はない。公演以外の時間には僕は部屋にいるか散歩でもしている事が多いし、彼はきっとここで練習しているんだろう。僕が本番以外でここに来るのは初めてだからわからないけれど。ブランコ乗りはこのサーカスの中では花形だ。誰よりも大きな拍手喝采をその体で受け止める。つまり、まあ、少しぐらい生意気になってしまうのも仕方がない。
「厳しいね。じゃあ何を観に来てるの?」
その問いかけに返事はなかった。ただブランコが軋む音が同じ間隔で繰り返される。彼はブランコの上に立ち上がり、膝を曲げてブランコを漕ぐ。大きく、大きく。穏やかに揺れていたブランコは再び天井に近付く。彼の背中は床とほとんど平行になる。足の裏のわずかな面積と、ブランコを握る掌だけで支えられた体。振り落そうと牙を剥くそれに、平然とした顔で身を任せている。ふと違和感を感じて僕は手を軽く握る。手のひらは微かに湿っていた。
どうしてだろう、と考える僕の目には一際大きく上ったブランコが見えた。それに食らいついていた彼が力尽きたかのように手を離す。体がブランコから離れて傾く。眠るように目を閉じて彼は落ちていく。あの高さから落ちれば無事では済まない事は明白だ。
受け止めないといけないとわかっていた。無駄でもなんでも落ちてくるならそうするしかない。けれど僕は動けなかった。彼が落ちていく光景から目を離せなかった。
「練習で落ちる馬鹿はここにはいないよ」
自信に溢れた、僕よりも少し高い声が耳に届いた。それをきっかけに、呪縛が解けるかのように僕は息を吹き返す。眩暈がしてふらついた体を一歩踏み出した足で支える。彼は膝の裏でしっかりとブランコを捉えていた。さっきまでの僕の焦燥なんて素知らぬ顔で心地よさそうに目を細めている。わずかな光を照り返して薄く青に光る髪が風に流れる。
「客が観に来ているのは芸じゃない。俺たちが死ぬ所だ」
くるりと体を起こした彼は、そう呟いて片方の支柱に寄りかかった。
「さっき俺が本当に落ちていたら、お前だけが目撃者だ。このサーカスで一番の演者が死ぬ所を見たのはお前だけ。ここではそうやって何度も歴史が変わってきた。俺が死んだら誰かが代わりにブランコに乗る。猛獣使いだってナイフ投げだってそうだ」
僕が踏みしめている舞台に残るのが傷だけではない事ぐらいとっくに気付いていた。消そうとしても消えない跡。濃く、薄く、赤黒く残る跡がまだらに散っている。
「観たいんだよ、みんな。その公演に居合わせた人だけが見られる特別なものが」
目を閉じて、眠りに就く前のように緩やかな呼吸を一つ。そしてゆっくりと開かれた彼の目は、さっきまでの辛辣さも生意気さも消えた、夢を見ているような柔らかさを湛えていた。
「……落ちてく父さん、綺麗だったな」
背中を、冷たいものが這い上がっていくのを感じた。心臓が早鐘を打つ。彼は陶然とした表情で僕の方を見た。僕の足元にある古びた大きな染みは彼の父親のものだろうか。
「ねえ、千里眼。俺が死ぬ時が見えたら教えてよ。そうしたら最後には一番、世界中のどのブランコ乗りよりも高く飛んで、それで父さんみたいに落ちるんだ。絶対に忘れられないような最高の公演にしてみせるよ」
約束するよな、と問い掛けた彼の言葉にうなずいて見せた。それを確認した彼も満足そうにうなずいた。そして次の瞬間には僕への興味を一切無くしたようだった。ブランコを握った両腕の間を器用に通り抜けて、また彼は自分の腕だけが命を繋ぐ世界に戻った。僕は彼に背を向けて舞台を降りた。客席の間を歩いて出口へと向かう。扉の隙間からは昼間の日差しが漏れていた。扉を開ける前に僕は一度振り返る。彼が二度宙返りをして、隣のブランコに移ったのが見えた。
本当は人が死ぬ時なんて僕には見えない。僕は他の人よりほんの少し目と勘がいいだけのペテン師でしかない。彼がいつ死ぬかなんて見えるはずがない。
見えるはずがない、それなのに、彼の白い背中を蝕む影が見えた気がした。
(END)
「ねえ、なんで黙ってるの」
その声に顔を上げる。夜には華やかに輝くステージには不似合いの、鉄骨を組み上げただけの無骨な足場の上に彼はいた。
「俺がいるのわかってたんだろ、千里眼」
舞台袖の暗がりの中で彼の目だけが光って見えた。
「そうだね。えっと、こんにちは?」
そう言えば彼は露骨に溜め息をつく。暗くてあまり見えないけれど、きっと不機嫌そうな顔をしている事だろう。無意識に目を細めて表情を伺おうとした僕の耳に、金属の擦れる音が聞こえた。彼はブランコを掴んでいる。その目はもう僕を見ていない。深呼吸を一度するのが気配でわかった。足場を蹴って彼が飛ぶ。ブランコ乗りとは思えない華奢な両腕だけが彼を繋ぎ止めている。彼の命を繋ぎ止めている。
足を振り子のように大きく振りながら体を曲げる、反らす。その繰り返しだけで、ブランコはみるみるうちに高度を上げていく。天井に届きそうなほどに高く。しばらく彼はそうしてブランコを揺らしていた。なんでもない道を歩いているかのような、何の感情も浮かんでいない表情だった。そう思った次の瞬間、彼は唯一の命綱であるはずのブランコを突き放した。揺れるブランコの勢いに押された体が舞い上がる。彼の命を繋ぐものはない。それは死ぬのと同じ事だと思った。
細い体が空中で反転する。そしてその手は吊り下げられたブランコを掴んだ。静止していたブランコがその衝撃で動き出す。眠りから覚めるかのように。さっきまで静まり返っていた舞台が息をしている。揺れる二つのブランコとその間で踊る一つの体。鼻歌でも聞こえてきそうなほどの気軽さで彼は宙を舞う。緩やかに体を一捻り。勢いをつけて軽やかに宙返り。鳥のように。猫のように。
白い練習着は羽のようだ。伸びた両腕の間を持ち上げられた両足がすり抜ける。膝の裏にブランコを挟んで手を離す。逆さ吊りになった彼の肌が露わになる。引き締まった細い腰が綺麗だと思った。そんな邪念を抱かせたのはほんの一瞬。鍛え上げた筋肉はいともたやすく彼の体を引き上げる。そしてブランコの上に座った彼は、公園で遊ぶ子供のように揃えた足を緩く揺らす。
「怖くないの?」
「何が?」
「飛ぶの」
「どうして?」
「何もないから。命綱が邪魔ならネットでも張ればいいのに」
馬鹿だなあ、と彼は笑った。笑顔になると少し近寄りがたい雰囲気は和らぐけれど、冷ややかな声はそれを拒絶する。
「みんなサーカスに何を観に来てるんだと思う?」
「僕たちの芸、じゃないの?」
「意外と頭悪いんだな。30点」
本当の子供のように無邪気に彼はブランコを漕ぐ。体を少し後ろに傾けてみたり、両足をぶらぶらと揺すってみたり。どこか愛らしい仕草と対照的に、ただひたすらに発言は辛辣だった。そういえばこうして話すのは初めてかもしれない。一つの公演の中で僕たちが同時にステージに上がる事はない。公演以外の時間には僕は部屋にいるか散歩でもしている事が多いし、彼はきっとここで練習しているんだろう。僕が本番以外でここに来るのは初めてだからわからないけれど。ブランコ乗りはこのサーカスの中では花形だ。誰よりも大きな拍手喝采をその体で受け止める。つまり、まあ、少しぐらい生意気になってしまうのも仕方がない。
「厳しいね。じゃあ何を観に来てるの?」
その問いかけに返事はなかった。ただブランコが軋む音が同じ間隔で繰り返される。彼はブランコの上に立ち上がり、膝を曲げてブランコを漕ぐ。大きく、大きく。穏やかに揺れていたブランコは再び天井に近付く。彼の背中は床とほとんど平行になる。足の裏のわずかな面積と、ブランコを握る掌だけで支えられた体。振り落そうと牙を剥くそれに、平然とした顔で身を任せている。ふと違和感を感じて僕は手を軽く握る。手のひらは微かに湿っていた。
どうしてだろう、と考える僕の目には一際大きく上ったブランコが見えた。それに食らいついていた彼が力尽きたかのように手を離す。体がブランコから離れて傾く。眠るように目を閉じて彼は落ちていく。あの高さから落ちれば無事では済まない事は明白だ。
受け止めないといけないとわかっていた。無駄でもなんでも落ちてくるならそうするしかない。けれど僕は動けなかった。彼が落ちていく光景から目を離せなかった。
「練習で落ちる馬鹿はここにはいないよ」
自信に溢れた、僕よりも少し高い声が耳に届いた。それをきっかけに、呪縛が解けるかのように僕は息を吹き返す。眩暈がしてふらついた体を一歩踏み出した足で支える。彼は膝の裏でしっかりとブランコを捉えていた。さっきまでの僕の焦燥なんて素知らぬ顔で心地よさそうに目を細めている。わずかな光を照り返して薄く青に光る髪が風に流れる。
「客が観に来ているのは芸じゃない。俺たちが死ぬ所だ」
くるりと体を起こした彼は、そう呟いて片方の支柱に寄りかかった。
「さっき俺が本当に落ちていたら、お前だけが目撃者だ。このサーカスで一番の演者が死ぬ所を見たのはお前だけ。ここではそうやって何度も歴史が変わってきた。俺が死んだら誰かが代わりにブランコに乗る。猛獣使いだってナイフ投げだってそうだ」
僕が踏みしめている舞台に残るのが傷だけではない事ぐらいとっくに気付いていた。消そうとしても消えない跡。濃く、薄く、赤黒く残る跡がまだらに散っている。
「観たいんだよ、みんな。その公演に居合わせた人だけが見られる特別なものが」
目を閉じて、眠りに就く前のように緩やかな呼吸を一つ。そしてゆっくりと開かれた彼の目は、さっきまでの辛辣さも生意気さも消えた、夢を見ているような柔らかさを湛えていた。
「……落ちてく父さん、綺麗だったな」
背中を、冷たいものが這い上がっていくのを感じた。心臓が早鐘を打つ。彼は陶然とした表情で僕の方を見た。僕の足元にある古びた大きな染みは彼の父親のものだろうか。
「ねえ、千里眼。俺が死ぬ時が見えたら教えてよ。そうしたら最後には一番、世界中のどのブランコ乗りよりも高く飛んで、それで父さんみたいに落ちるんだ。絶対に忘れられないような最高の公演にしてみせるよ」
約束するよな、と問い掛けた彼の言葉にうなずいて見せた。それを確認した彼も満足そうにうなずいた。そして次の瞬間には僕への興味を一切無くしたようだった。ブランコを握った両腕の間を器用に通り抜けて、また彼は自分の腕だけが命を繋ぐ世界に戻った。僕は彼に背を向けて舞台を降りた。客席の間を歩いて出口へと向かう。扉の隙間からは昼間の日差しが漏れていた。扉を開ける前に僕は一度振り返る。彼が二度宙返りをして、隣のブランコに移ったのが見えた。
本当は人が死ぬ時なんて僕には見えない。僕は他の人よりほんの少し目と勘がいいだけのペテン師でしかない。彼がいつ死ぬかなんて見えるはずがない。
見えるはずがない、それなのに、彼の白い背中を蝕む影が見えた気がした。
(END)
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