夏の王様
「そういえば、今日は俺の日なんだって」
居間の床に腹這いになって、指でキャモメと戯れながらハヤトはそう言った。冷えた麦茶を飲み込んで僕は返事をする。
「ハヤトの日?」
「そう、俺の日。8月10日だから。8と10だから」
首を傾げている僕を見て、彼は少し考えた後、ハヤトだからはちはちじゅう、とぶっきらぼうに言った。そういう事かと納得した僕はコップを流しに置いて、彼の隣に同じように腹這いになった。手を引っ込めた彼の代わりにキャモメのくちびるを指先でつつく。くすぐったかったのか驚いたのか、キャモメは僕の指に噛みついた。生まれたばかりだから大した力はないけれど、くちばしに挟まれた指は少し痛い。
「こら」
彼が宥めるように頭を撫でると、キャモメは大人しく指を離す。眠くて機嫌悪いのかも、と呟いて彼は起き上がってキャモメを抱えて部屋を出た。取り残された僕は頬杖をついた。彼の背中を思い出しながら、赤ちゃんの世話をする母親みたいだと思う。ここしばらく卵から育てた子がいない僕では鈍ってしまっている感覚を使いながら、ちょっとした変化を見ながら大事に育てているようだ。第一線で戦える強い子になるといいけれど。そうでなくても、彼はあの子を大事にするんだろうけれど。もっともそれはトレーナーとして当然だと彼も僕も思っているのだけれど。
「たまには卵から育てようかなあ」
彼の足音だけが遠くで聞こえる部屋の中。僕の呟く声は思ったよりも大きく響く。何がいいかなとぼんやり考えている間に、階段を下りる音が聞こえた。その音はこの部屋に近づいてきて、そして扉が開いた。
「おかえり」
キャモメを寝かせてきたらしいハヤトに声をかける。ただいま、と答えた彼は僕の隣を通り過ぎる。日焼けをしていない白い爪先が視界の端に映る。ハヤトもお茶でも飲むのだろう。まだ日が落ちたばかり。数か月後には寒いと震えているのだろうけれど、夏の盛りのこの時期は日が沈んでも暑いままだ。
「よいしょ」
冷蔵庫の前にいるにしては近くから声が聞こえた気がした。そう思った次の瞬間、背中がずんと重くなった。思わず潰れたような声が漏れる。
「うわ、すごい声」
「ハヤトが乗ってるからだよね……」
返事をする声も低くしわがれている。その声を聞いて彼は笑う。小柄だから同年代の男の子よりも軽いのだろうけれど、それでも重いものは重い。冷房が入ってはいてもあまり冷えてはいない部屋の中。背中に汗が浮かんでくる。重い、と訴えたけれど、彼が動く気配はない。
「どうしたの、いきなり」
「さっき、今日は俺の日って言ったよね」
「うん」
ちょうど左右の肩甲骨のあたりに鈍い衝撃が走る。両手を着いたのだろう。背中が少し軽くなってまた重くなる。どうやら座り直したらしい。ひどい。
「それで俺、かき氷食べたいんだけどさ」
「お祭りなんてやってないよ、今日」
「知ってる。だからカップに入った普通のでいい」
「わかった。買ってくるから降りてくれる? 何味?」
ハヤトは動かない。名前を呼んでみたけれど返事はない。首を動かして表情を伺おうとしたけれど、背中を押さえ付けられて動かしにくくて、顔を見る事はできなかった。
「俺も行く」
お互いに黙ったまま少し経ってから、拗ねたような口調で彼はそう言った。その態度の理由に思い至った僕は思わず笑ってしまう。見られていなければいいのだけれど。
「わかった。どうしようか、コンビニでもいいけどスーパーに行く? ちょっと遠いけど」
「うん、そっちがいい。……種類も多いし」
ハヤトはようやく僕の背中から降りてくれた。息を吐き出して大きく吸う。なんだか久しぶりにちゃんと呼吸をしたような気がする。床に手をついて起き上がる。同じ姿勢で固められていたせいか腰が痛い。腰をさすっている僕を置いて、ハヤトは棚から取り出したがまぐちを手に取ってぱたぱたと玄関に向かう。
「一緒に出かけたいならそう言えばいいのに」
そう呟いた声が聞こえたのか、何か言ったか、と問い掛ける声がした。なんでもないと返事をして立ち上がる。クーラーのスイッチを切って部屋を出た。湿気を含んだ空気に息が詰まるけれど、それがどうしたというような顔で彼は玄関に立っている。
「スーパー閉まるよ、早く行かないと」
「そうだね」
扉の向こうは廊下よりは少し涼しかった。まだうっすらと青い空が彼の背中の向こうに見える。デートだなんて言ったら今度は殴られでもしそうだから、黙って隣に並んで歩き出した。夜の散歩の始まりだ。
(END)
居間の床に腹這いになって、指でキャモメと戯れながらハヤトはそう言った。冷えた麦茶を飲み込んで僕は返事をする。
「ハヤトの日?」
「そう、俺の日。8月10日だから。8と10だから」
首を傾げている僕を見て、彼は少し考えた後、ハヤトだからはちはちじゅう、とぶっきらぼうに言った。そういう事かと納得した僕はコップを流しに置いて、彼の隣に同じように腹這いになった。手を引っ込めた彼の代わりにキャモメのくちびるを指先でつつく。くすぐったかったのか驚いたのか、キャモメは僕の指に噛みついた。生まれたばかりだから大した力はないけれど、くちばしに挟まれた指は少し痛い。
「こら」
彼が宥めるように頭を撫でると、キャモメは大人しく指を離す。眠くて機嫌悪いのかも、と呟いて彼は起き上がってキャモメを抱えて部屋を出た。取り残された僕は頬杖をついた。彼の背中を思い出しながら、赤ちゃんの世話をする母親みたいだと思う。ここしばらく卵から育てた子がいない僕では鈍ってしまっている感覚を使いながら、ちょっとした変化を見ながら大事に育てているようだ。第一線で戦える強い子になるといいけれど。そうでなくても、彼はあの子を大事にするんだろうけれど。もっともそれはトレーナーとして当然だと彼も僕も思っているのだけれど。
「たまには卵から育てようかなあ」
彼の足音だけが遠くで聞こえる部屋の中。僕の呟く声は思ったよりも大きく響く。何がいいかなとぼんやり考えている間に、階段を下りる音が聞こえた。その音はこの部屋に近づいてきて、そして扉が開いた。
「おかえり」
キャモメを寝かせてきたらしいハヤトに声をかける。ただいま、と答えた彼は僕の隣を通り過ぎる。日焼けをしていない白い爪先が視界の端に映る。ハヤトもお茶でも飲むのだろう。まだ日が落ちたばかり。数か月後には寒いと震えているのだろうけれど、夏の盛りのこの時期は日が沈んでも暑いままだ。
「よいしょ」
冷蔵庫の前にいるにしては近くから声が聞こえた気がした。そう思った次の瞬間、背中がずんと重くなった。思わず潰れたような声が漏れる。
「うわ、すごい声」
「ハヤトが乗ってるからだよね……」
返事をする声も低くしわがれている。その声を聞いて彼は笑う。小柄だから同年代の男の子よりも軽いのだろうけれど、それでも重いものは重い。冷房が入ってはいてもあまり冷えてはいない部屋の中。背中に汗が浮かんでくる。重い、と訴えたけれど、彼が動く気配はない。
「どうしたの、いきなり」
「さっき、今日は俺の日って言ったよね」
「うん」
ちょうど左右の肩甲骨のあたりに鈍い衝撃が走る。両手を着いたのだろう。背中が少し軽くなってまた重くなる。どうやら座り直したらしい。ひどい。
「それで俺、かき氷食べたいんだけどさ」
「お祭りなんてやってないよ、今日」
「知ってる。だからカップに入った普通のでいい」
「わかった。買ってくるから降りてくれる? 何味?」
ハヤトは動かない。名前を呼んでみたけれど返事はない。首を動かして表情を伺おうとしたけれど、背中を押さえ付けられて動かしにくくて、顔を見る事はできなかった。
「俺も行く」
お互いに黙ったまま少し経ってから、拗ねたような口調で彼はそう言った。その態度の理由に思い至った僕は思わず笑ってしまう。見られていなければいいのだけれど。
「わかった。どうしようか、コンビニでもいいけどスーパーに行く? ちょっと遠いけど」
「うん、そっちがいい。……種類も多いし」
ハヤトはようやく僕の背中から降りてくれた。息を吐き出して大きく吸う。なんだか久しぶりにちゃんと呼吸をしたような気がする。床に手をついて起き上がる。同じ姿勢で固められていたせいか腰が痛い。腰をさすっている僕を置いて、ハヤトは棚から取り出したがまぐちを手に取ってぱたぱたと玄関に向かう。
「一緒に出かけたいならそう言えばいいのに」
そう呟いた声が聞こえたのか、何か言ったか、と問い掛ける声がした。なんでもないと返事をして立ち上がる。クーラーのスイッチを切って部屋を出た。湿気を含んだ空気に息が詰まるけれど、それがどうしたというような顔で彼は玄関に立っている。
「スーパー閉まるよ、早く行かないと」
「そうだね」
扉の向こうは廊下よりは少し涼しかった。まだうっすらと青い空が彼の背中の向こうに見える。デートだなんて言ったら今度は殴られでもしそうだから、黙って隣に並んで歩き出した。夜の散歩の始まりだ。
(END)
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