メランコリーキッチン

 とにかくもう、ここは嫌な事ばかりがあった場所だった。壁にもたれて座り込んだまま僕は何度もそう思った。夢は跡形もなく消えてしまって、僕にはもう何も残ってはいなかった。



「ここを出ていこうかと思うんだ」

 彼は夕飯を作る手を止めた。夏の終わりの雨の日だった。窓の向こうの空は重苦しい灰色。部屋の中は蛍光灯の白々とした明かりで照らされて不自然に明るい。彼は静かにコンロの火を消した。そして傍に置いてあったお椀を手に取ると、慣れた手付きで味噌汁をよそった。

「この前もらったさやえんどう」

 お椀の中には豆腐と鮮やかな色のさやえんどうが浮かんでいた。それを僕に向けて突き出すと、食器棚を眺めながら彼は呟いた。ご飯よそって、といつも通りに。僕は頷いてお椀を食卓の上に置いた。そして食器棚から茶碗を二つ取り出して、何も言わずに炊飯器を開けた。立ちのぼる湯気が熱くてじわりと汗が滲む。

 僕がご飯をよそっている間に、彼は席に着いていた。お茶をコップに注ぐ音が聞こえる。それからコップを置く音。そしてもう一度お茶を注ぐ音。振り返って茶碗を彼の前に置き、腰を下ろしながら自分の前にも置いた。

 彼がすっと手を持ち上げる。両手を合わせる。いただきます、という僕たちの声が明るい部屋に飲み込まれる。味噌汁を飲みながら彼の様子を伺うと、まるで僕の言った事なんて初めから存在しなかったかのように、何の揺らぎもない表情をしていた。

 どうして、と思った。どうして僕がこんなに苦しんで苦しんで考えた事なのに、それを簡単に消してしまうの。わかってほしい、のかどうかはわからなかった。けれど、ハヤトに一番に伝えないといけないと思った。伝えたいと思った。……でも、伝えてどうするつもりだったんだろう。押し付けてどうするつもりだったんだろう。どうしてほしいと思ったんだろう。

 自己嫌悪は雪のように少しずつ積もっていく。結局僕は一人で空回って、勝手につまずいて、それなのに、それだけで、動けなくなる。嫌いだと思った。僕は僕が嫌い。死んでしまえたらいいのに。こうしているうちに突然心臓が止まって、息が止まって、眠るように静かに。僕は食事をする手を止めて、心臓に意識を向けた。規則正しく動き続ける心臓は、僕を死なせてはくれないようだ。

「おいしくなかった?」

 彼は首を傾げた。おいしいよ、と答えたけれど、味はあまりわからなかった。それを悟ったのか彼の眉間に皺が寄る。時折そうして険しい顔をする彼の額に、笑いながら指を伸ばしたのはいつの事だっただろう。

「そうか」

 中身のない言葉だった。表面だけを受け止めて彼はそう返事をした。暗く沈んだ、今の空のような色をした声だった。僕たちはそれ以上何も言わなかった。食事をする微かな音と雨音しか聞こえないまま夕食を終えた。

「ごちそうさま」

 呟くような小さな声でそう言って手を合わせた。黙ったまま食器を片付ける。食器を流しに置き終えた所で、ハヤトは冷蔵庫を開けた。

「近所の人がスイカくれたんだ」

 食べるかどうかを問う事もなく、半分に切れたスイカに包丁を入れた。細い手首に筋が浮き上がる。軽快な音を立てて赤いスイカが割れて揺れる。切り分けたスイカを皿に載せて再び食卓へ。

 椅子に座ったハヤトは両手でスイカを持って齧る。薄い赤が指を伝って皿に落ちる。死んでしまいたいとまた思った。エンジュの街を出た所で結局僕は僕でしかないのなら、消えてしまわない事にはどうにもならない。でも僕はそれもできずにここにいる。

「マツバ」

 その声にいつの間にか俯いていた顔を上げると、ハヤトは口元を手の甲で拭っていた。皿の上には皮だけになったスイカが残っていた。べたべたする、と呟いて彼は椅子から立ち上がる。流しで手を洗いながら、さっきまでのように何事もなかったかのように、ただ何気ない会話をするように、まだ少年らしさを残した声でハヤトは僕に問い掛けた。

「ここを出たらさ、どこに行くつもりなの」

 よく通る彼の声は、雨音と水を流す音にも掻き消される事はなかった。けれど、問われた意味を把握するのには少し時間がかかった。ここを出たら。ハヤトは僕の零した言葉を受け止めて、そして応えてくれたらしかった。それにようやく気付いて僕は息を呑んだ。

「……どこ、に、しようかな」

「なんだよ、決めてなかったのか」

 水を止め、濡れた手をタオルで拭いながら、苦笑いを交えて彼は言う。乱れたタオルを慣れた手つきで整えて再び席に戻った。そして頬杖をつくと、窓の向こうに広がる重苦しい色をした空を眺めた。

「やっぱり遠くがいいよな。ジョウトを出るっていうのも一つの手だし」

 ただ他愛もない会話をする時のように穏やかに彼は呟いた。けれど、これがただの戯れの会話でない事は僕が一番よく知っていた。だって僕たち、ここからいなくなる話をしているのに。

「あ、俺、海が見える所がいいな。高くて風が気持ちいい所」

 ペリッパーが喜びそうだ、と嬉しそうにハヤトは笑った。どうしてなんだろう。どうしてハヤトはこんなに優しく笑うんだろう。ここを出ていくというのは、大好きなお父さんと暮らした家を捨てて、背負っているジムリーダーの仕事を捨てて、消えてしまうという事なのに。

 手を付けていないスイカはどんどんぬるくなっていく。せっかく切ってくれたんだから食べないと。呆けてしまった頭の中でなんとかそう考えた。重く感じる腕を持ち上げて皿に載ったスイカを手に取る。思っていたよりは冷たい果肉が指に触れた。持ち上げて齧ったけれど、やっぱり味はよくわからなかった。二口齧って皿に戻す。下ろそうとした手を伸びてきた手が掴んだ。

「マツバ」

 しっかりとした彼の声。僕は顔を上げられなかった。体が竦んでしまったようだった。

 手に込められた力は強い。怖いのだと僕は自覚した。ハヤトの素直さは、ひたむきさは、本当は僕なんかに向くべきではないのに僕はそれを求めている。この手は離さないといけない。この子のために。僕は一人で消えてしまおう。顔を上げて、手を解いて、さようならと言おう。そして何も持たずに体一つだけでどこかへ、彼の言っていた通りどこか遠くへ行こう。行かないと。

「俺もちゃんと連れて行ってよ」

「……いやだ」

 手を振り払おうとしたけれど、僕より華奢な癖に力強い手はそれを許さなかった。痣でも残りそうなぐらいに強く手首を掴まれる。

「いやだよ、どうして僕のためになんて」

「どうしてなんて今更聞くのか」

 馬鹿、と零れ落ちた言葉は弱々しい。思わず顔を上げたけれど、彼の顔は想像していたほど悲しげではなかった。けれどその目は必死に、まっすぐに、僕を見つめていた。

「決まってるだろ。ねえ、マツバは俺の事嫌いなのか?」

「そんな事ない。でも、だから、ダメなんだよ」

 手が引かれた。浮いた体を咄嗟に支えようとして踏み出した足が机にぶつかる。痛いと思うよりもほんの少しだけ早く、彼の腕が僕の背中に回っていた。

 頬をくすぐる髪の感触に、首に触れる少し汗ばんだ腕に、温かい手のひらに、胸が詰まった。吐く息が震えた。視界が滲んだ。

「好きなんだよな」

 それは僕への問いかけだったのか、彼自身への確認だったのかはわからなかった。わからないけれどその通りだと思った。僕はハヤトが好きだからこうして救ってほしくて、それから救ってもらってはいけないのだと思ったのだ。好きだから。好きだから。

「好きなら一緒にいるべきだなんて押し付けがましくて嫌だけど、でも、それが全部なんだ。俺がマツバと一緒に行きたい理由なんてそれだけ。だから、意地でも追いかけてやる」

 それで捕まえてやる。言葉は乱暴だけれど、彼は力強く笑っていた。顔は見えなかったけれど確かに。いつの間にか雨音は止まっていた。これから晴れるのかもしれないと思った。

「捕まっちゃうのは嫌だなあ」

 自分でもわかるぐらいに涙が滲んだ声だった。情けないなと思った途端、涙が流れ落ちるのがわかった。止んだ雨の代わりのように次々と。皿の中に、机の上に落ちて音を立てる。

「じゃあ最初から逃げなければいいんだよ。どうする?」

「……どうしようかな。降参、しちゃおうかなあ」

 腕を持ち上げる。まだ動きは鈍いけれど、これまでほど重くは感じなかった。彼の背中もやっぱり温かくて涙が止まらなかった。僕はもうどうしようもなく弱い人間で、どこに逃げてもきっとそうだ。それでもいいと思った。ハヤトがいいと言ってくれたのだからそれが全て。僕の全て。

「ひどい顔してるな、マツバ」

 彼は潤んだ目で鼻を赤くしながら歯を見せて笑った。人の事は言えないと思ったけれど、なんだかその顔すら綺麗に見えたから何も言わなかった。僕は手の甲で目を拭う。みっともなく鼻を啜って返事をした。

「塩をかけたらもっと甘いかなと思って、スイカ」

「なんでそれで自分でなんとかしようとするんだよ。塩が欲しいんだったらちゃんと言えよ」

 僕の背中から手を離して、彼は僕に背を向けた。右手が目元を擦って離れる。台所にあった塩の入った瓶を掴んで、僕の前に置いた。その瓶の蓋が青かったから。青空みたいで、ハヤトみたいだと思ったから。なんだかおかしくなって僕はまた泣いた。ハヤトは呆れて笑っていた。

(END)
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