春うらら

 畳の上に横たわっている姿を見た時は正直慌てた。体調が悪かったとしても無理して隠してしまうような彼だから、僕の気が付かないうちに悪化させていたんじゃないかとか、そうでなくても急に倒れたんだろうかとか。

 急ぎ足で近づいて隣に屈みこむ。顔を覗き込んだ。少しだけ開いた口と目を閉じていてもわかる穏やかな表情。胸はゆっくりと一定のリズムで上下していた。

「なんだ、寝てるだけか……」

 すっかり春らしくなって、動くと汗ばむ日も増えてきた。そんな季節の日溜まりの中だ。そりゃあ眠たくもなるよな、と納得する。今日は日曜日。一週間分の疲れも溜まっているのだろう。気持ちよさそうに眠っている彼を見ていたら僕も眠くなってきてしまった。あくびが零れたけれど、いけないと首を横に振る。春とはいえ朝晩はまだ冷える。いつまでもここで寝かせていては風邪を引いてしまいかねない。

 せめて何かかけてあげよう、と僕は階段を上って、彼の寝室の押し入れを開けた。いつも使っている掛け布団を抱えてそろそろと階段を下りる。僕の家もそうだけれど、建てられてから随分と経ったこの家の階段は急で、ひやひやした事は一度や二度ではない。

 庭に面した和室に足を踏み入れると少しだけ温度が上がったように感じた。日のよく当たる部屋だから当然といえば当然だ。だけど暖かさと眠気で頭の回転が落ちているらしい僕は彼の体温を思い出して、ハヤトがいるからだなんて考えた。彼の手はいつでも僕より温かいから。

 できるだけ足音を立てないように歩き、日なたで眠っている彼の傍に屈みこむ。春の陽気が僕のよく働いていない頭を温める。全身に布団を掛けたら暑そうだ。悩んだ末にお腹のあたりにだけ被せておく事にした。

 一仕事終えて安心した僕はその場に座り込んだ。我慢する事もなく大きく口を開けてあくびをする。ハヤトは相変わらず子供みたいな顔で眠っていた。童顔だからもともと子供っぽく見えるのだけれど。

「ほんと可愛いよねえ……」

 愛おしいだとか安らぐとかそういった感情ではなくて、もうなんだか呆れたような気分になってきてしまった。普段は根性だとか特訓だとか言っているのにこんな顔をするんだから。悔しいような気さえしてくる。投げやりな気分になってしまった僕はそのまま畳の上に転がった。視界に灰色がかった淡い緑の天井が映る。伸びをしてもう一度あくびをした。僕もこのまま寝てしまおうか。そう思い、余った布団を借りようと寝返りをうつ。くすんだ緑から日射しを受けて鮮やかに光る青へ。

「あ」

 僕が寝転がった時か、寝返りをうった時か。わからないけれど彼を起こしてしまったらしい。さっきまで閉じられていた目が開いていた。

「マツバ」

「ごめん」

 起こしちゃったね、と僕が言うよりも早く、彼の口がもごもごと動いた。

「おかえり……」

 そう言っている間にも瞼が落ちていく。そしてあっという間にまた夢の中へ。穏やかな寝息の音が聞こえる。それからワンテンポ遅れて僕が零した、ただいまという間抜けな声も。

 彼の寝顔を見つめながら呆けていた僕が、言われた言葉と返した言葉の意味に気付いたのはしばらく経った後だった。おかえり。ただいま。初めて交わす言葉だった。だけどこれってなんだか。なんだか。

「お嫁さん、みたい?」

 呟いただけのはずの言葉は思っていたよりもはっきりと響いて耳に飛び込んだ。それを頭の中で噛み砕く。鈍った頭が理解した瞬間、一気に顔が熱くなった。どうしてかはわからないけれど恥ずかしいと思った。仰向けになって両手で顔を覆う。熱い。耳まで赤くなっているような気がする。どっと汗が出てきて、僕はヘアバンドを右手で乱暴に外して放り投げた。そしてまた顔を覆う。熱は引かない。汗臭くなりそうだと妙に現実的な事を考えた。それこそが現実逃避なのだけれど。

 今日の晩ご飯は何にしようだとかあの書類の締め切りはいつだったかとか、今の状況とは関係がない事を必死で選んで考えた。そうして少し落ち着いた後、彼の方を向いて、指の間からそっと彼の顔を見た。相変わらず気持ちよさそうに眠っていた。僕がこうして悶えていたのなんて全く知らないのだろう。

「ハヤトの馬鹿……」

 僕の声は手のひらの中に収まって漏れ出す事はなかった。馬鹿だなんて喧嘩をした時だって言った事はない。それぐらい僕は混乱してしまっているのに。恥ずかしくて死にそうなのに。

 大好き、とますます恥ずかしい言葉を吐き出して、僕はまた一人うららかな日射しの中で転げ回る。どうしようもなく満たされているのだとうるさい心臓が告げていた。

(END)
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