灰の降る夜
キキョウの冬にはほんの数日、ひどく雪が降る日がある。一日中降り続く雪はみるみるうちに町の景色を変えて、俺はいつもいつの間にか、別世界にいるような気がしてくる。
立ち止まり、来た道を振り返ると、深夜の静まりかえった町に降り続ける雪が俺の足跡を覆い隠そうとしていた。音もなく、ただ静かに。夜が明ける頃には、穢れなど欠片もないとでもいうような顔をしているのだろう。銀世界に歓声を上げてはしゃいだのはまだほんの一年前。もう二度とそんな日は来ないのだと思った。俺はこれから雪景色を見る度に今日の事を思い出すのだろう。
道路を走る自動車の灯りが遠くに見えた。その光の中に彼の姿が見えたような気がして、俺はまた走り出した。息はとっくに上がっていた。凍りついた空気が炎のように喉を灼いた。息を吸っても楽にはならない。鼻の奥が乾いて痛む。息が白く浮かび上がっては耳元を掠めて流れていく。靴の隙間から雪が入り込んで濡れた爪先は冷え切っていた。けれど、もう冷たいとも痛いとも感じられなかった。
ひたすらに膝を上げ、足を前に出す。重くまとわりつく雪を引き剥がして振り落とす。寒さと疲れで膝は震えていた。何度も何度も転びそうになった。それでも走らずにはいられなかった。逃げずにはいられなかった。
逃げようが、何をしようが、俺のした事は変わらないのに。そう思った瞬間膝の力が一気に抜けて崩れ落ちそうになったけれど、俺はそれを許さなかった。無理矢理に足を踏み出す。真っ白な雪を醜く踏みにじって走る。
冷えて乾いた空気が目の表面を痛めつける。それに逆らうように涙が浮かぶ。街灯の光も降る雪も滲んでいく。それでも迷う事はなかった。生まれてから今日まで生きてきた場所だから。この道をまっすぐ走って、あの角を右に曲がれば家に着く。ただ走る事だけを考えた。本当はもっと頭にこびりついて離れない事があったけれど、それが浮き上がってしまわないように必死で押さえつけた。
息を吐く度に喉がざらついた音を立てる。喉を撫でる空気が不快な味を残していく。必死に足を動かしても、もう早くは走れない。酸素が足りなくて頭がぼんやりとするけれど、それに身を任せたらいけないと思った。感覚を失った爪先に意識を集中させて冷たさを探す。痛みを探す。頭の芯を凍らせ、ただひたすら前を見る。ふらつく体でようやく三叉路に辿り着いた。
「っ!」
発した音は言葉にはならない。右に曲がろうと踏み込んだ足を滑らせて、肩から派手に雪の上に倒れた。雪の粒が擦れる音が聞こえて、ようやく自分が転んだのだと気付く。寒さと疲れで腕も足も震えていた。積もったばかりの柔らかい雪に手を埋めて、膝をついて、やっとの事で立ち上がる。歩く事さえ辛かった。動くのを拒もうとする足を引きずって歩く。まっさらな雪の上に乱れた線を引きながら歩く。凍りかけた道に何度も足をとられながら。
転んだのは雪の上ばかりだから怪我はしていないのだろうけれど、雪に触れた肌は冷えて痛んだ。自宅の門の前まで辿り着いた時にはもう、耳がきちんとついているのかどうかもわからないほどだった。
感覚のない手は思い通りに動かない。門を開けるだけ、それだけの事が難しかった。取っ手の上を右手が滑り落ちる。それを持ち上げて、また手をかける。重い左手を持ち上げて右手の上に乗せる。そのまま体重をかけるとようやく門が開いた。支えるものを失って傾いた体を止めようと足を踏み出す。不安定に数歩歩いたけれど、そこで限界だった。膝から崩れ落ちて、そして今度はとうとう立ち上がる事ができなかった。両腕は力をなくして鉛のように重くぶら下がり、両足はもうどこに力を入れればいいかもわからないぐらいに疲弊していた。頭を支える事すら辛くて俯いた。積もった雪とわずかに覗く灰色の飛び石、濡れて変色した袴、それから紫と赤のマフラーの端が見えた。
その色を見たらもう耐えられなかった。視界が一気に歪んで、目に映る何もかもがぼやけて混ざり合う。それはあっという間に溢れて零れた。降る雪と同じように音も立てずに落ちていく。
震える右手をやっとの事で持ち上げてマフラーに触れる。彼がいつも身に着けているものだ。身に着けているものだった。それを今は俺が持っている。どうしてこんな事をしたのかと聞かれたら答えられないけれど。……嘘だ。答えはもう知っている。口にしてはいけない。知られてはいけない。けれどもう隠せない。
湧き上がったのは後悔だった。もう何もかもを閉じ込めて、友達として、仲間として、隣にいる事も許されなくなってしまった。勝手に彼の物を持ち出した。それが異常ではないだなんて思ってもらえるはずがない。そんな簡単な事を今更理解した。涙が止まらない。震えが止まらない。怖い。怖い。どうしたらいいかわからない。
「たすけて」
雨のように涙が落ち続ける。全部自分が起こした事なのに、誰かに助けて欲しかった。身勝手な話だった。誰も救ってくれるはずなんてないのに。それでも子供みたいにぼろぼろと泣いた。止まらなかった。
「マツバ」
マツバ、と繰り返し彼の名前を呼んだ。こんなに寒い所に一人きりでずぶ濡れで座り込んで泣いている子供を彼なら放ってはおかないだろうと思った。どうしたのって、なんでこんな事しているのって、そう聞いてくれたら全部答えてしまうのに。マツバが好きでどうしようもなかったって。そう言葉にしたら優しい彼は嘘をついてくれるのだろう。嬉しいと言ってくれるのだろう。それでもきっと俺の手を引いてはくれない。なんだかんだとやわらかく理由をつけて、離れていってしまうのだろう。
嫌われる、という言葉が浮かぶ。なんとも的確な表現だった。彼らしいやり方で彼はきっと俺を嫌う。こんなにも彼の事が好きな俺の事を嫌う。胸にナイフを突き立てられたようだった。息が詰まって苦しくて、積もった雪に爪を立てた。もうどこにも体力なんて残っていないと思っていたのに、ぼろぼろになった心が撒き散らすその力は強かった。まっさらな雪を醜く抉っていく。
「……好きなのに」
自分が発したその言葉に涙が一気に引いていくのを感じた。そして静まり返った頭の中に泡のように浮かんだのは、もっと暴力的な感情だった。
「好きなのに」
冷え切った体に熱が戻る。腹の奥が熱くなって、そこから心臓を伝って脳へと向かう。
「好きなのに」
唇を噛んだ。歯を思い切り立てて強く。何かが削れるような音が微かに聞こえて、口の中に鉄の味が広がった。噛み切った場所が痛んで、それがまた怒りを増幅させていく。雪を掴んで、振り上げて叩きつけた。降ったばかりのやわらかな雪は地面に落ちる前に散り散りになって舞った。欠片が熱を持った頬に触れて、その冷たさにまた涙が戻ってきた。
後悔と、恋情と、怒りと。いくつもの感情が混ざり合って、頭の中で渦を巻いた。もう耐えられないと思った。流れて落ちる涙はそのままに空を仰ぐ。灰色の重たい雲が星も月も覆い隠していた。真っ暗な空を見上げて、声を上げて俺は泣いた。
(END)
立ち止まり、来た道を振り返ると、深夜の静まりかえった町に降り続ける雪が俺の足跡を覆い隠そうとしていた。音もなく、ただ静かに。夜が明ける頃には、穢れなど欠片もないとでもいうような顔をしているのだろう。銀世界に歓声を上げてはしゃいだのはまだほんの一年前。もう二度とそんな日は来ないのだと思った。俺はこれから雪景色を見る度に今日の事を思い出すのだろう。
道路を走る自動車の灯りが遠くに見えた。その光の中に彼の姿が見えたような気がして、俺はまた走り出した。息はとっくに上がっていた。凍りついた空気が炎のように喉を灼いた。息を吸っても楽にはならない。鼻の奥が乾いて痛む。息が白く浮かび上がっては耳元を掠めて流れていく。靴の隙間から雪が入り込んで濡れた爪先は冷え切っていた。けれど、もう冷たいとも痛いとも感じられなかった。
ひたすらに膝を上げ、足を前に出す。重くまとわりつく雪を引き剥がして振り落とす。寒さと疲れで膝は震えていた。何度も何度も転びそうになった。それでも走らずにはいられなかった。逃げずにはいられなかった。
逃げようが、何をしようが、俺のした事は変わらないのに。そう思った瞬間膝の力が一気に抜けて崩れ落ちそうになったけれど、俺はそれを許さなかった。無理矢理に足を踏み出す。真っ白な雪を醜く踏みにじって走る。
冷えて乾いた空気が目の表面を痛めつける。それに逆らうように涙が浮かぶ。街灯の光も降る雪も滲んでいく。それでも迷う事はなかった。生まれてから今日まで生きてきた場所だから。この道をまっすぐ走って、あの角を右に曲がれば家に着く。ただ走る事だけを考えた。本当はもっと頭にこびりついて離れない事があったけれど、それが浮き上がってしまわないように必死で押さえつけた。
息を吐く度に喉がざらついた音を立てる。喉を撫でる空気が不快な味を残していく。必死に足を動かしても、もう早くは走れない。酸素が足りなくて頭がぼんやりとするけれど、それに身を任せたらいけないと思った。感覚を失った爪先に意識を集中させて冷たさを探す。痛みを探す。頭の芯を凍らせ、ただひたすら前を見る。ふらつく体でようやく三叉路に辿り着いた。
「っ!」
発した音は言葉にはならない。右に曲がろうと踏み込んだ足を滑らせて、肩から派手に雪の上に倒れた。雪の粒が擦れる音が聞こえて、ようやく自分が転んだのだと気付く。寒さと疲れで腕も足も震えていた。積もったばかりの柔らかい雪に手を埋めて、膝をついて、やっとの事で立ち上がる。歩く事さえ辛かった。動くのを拒もうとする足を引きずって歩く。まっさらな雪の上に乱れた線を引きながら歩く。凍りかけた道に何度も足をとられながら。
転んだのは雪の上ばかりだから怪我はしていないのだろうけれど、雪に触れた肌は冷えて痛んだ。自宅の門の前まで辿り着いた時にはもう、耳がきちんとついているのかどうかもわからないほどだった。
感覚のない手は思い通りに動かない。門を開けるだけ、それだけの事が難しかった。取っ手の上を右手が滑り落ちる。それを持ち上げて、また手をかける。重い左手を持ち上げて右手の上に乗せる。そのまま体重をかけるとようやく門が開いた。支えるものを失って傾いた体を止めようと足を踏み出す。不安定に数歩歩いたけれど、そこで限界だった。膝から崩れ落ちて、そして今度はとうとう立ち上がる事ができなかった。両腕は力をなくして鉛のように重くぶら下がり、両足はもうどこに力を入れればいいかもわからないぐらいに疲弊していた。頭を支える事すら辛くて俯いた。積もった雪とわずかに覗く灰色の飛び石、濡れて変色した袴、それから紫と赤のマフラーの端が見えた。
その色を見たらもう耐えられなかった。視界が一気に歪んで、目に映る何もかもがぼやけて混ざり合う。それはあっという間に溢れて零れた。降る雪と同じように音も立てずに落ちていく。
震える右手をやっとの事で持ち上げてマフラーに触れる。彼がいつも身に着けているものだ。身に着けているものだった。それを今は俺が持っている。どうしてこんな事をしたのかと聞かれたら答えられないけれど。……嘘だ。答えはもう知っている。口にしてはいけない。知られてはいけない。けれどもう隠せない。
湧き上がったのは後悔だった。もう何もかもを閉じ込めて、友達として、仲間として、隣にいる事も許されなくなってしまった。勝手に彼の物を持ち出した。それが異常ではないだなんて思ってもらえるはずがない。そんな簡単な事を今更理解した。涙が止まらない。震えが止まらない。怖い。怖い。どうしたらいいかわからない。
「たすけて」
雨のように涙が落ち続ける。全部自分が起こした事なのに、誰かに助けて欲しかった。身勝手な話だった。誰も救ってくれるはずなんてないのに。それでも子供みたいにぼろぼろと泣いた。止まらなかった。
「マツバ」
マツバ、と繰り返し彼の名前を呼んだ。こんなに寒い所に一人きりでずぶ濡れで座り込んで泣いている子供を彼なら放ってはおかないだろうと思った。どうしたのって、なんでこんな事しているのって、そう聞いてくれたら全部答えてしまうのに。マツバが好きでどうしようもなかったって。そう言葉にしたら優しい彼は嘘をついてくれるのだろう。嬉しいと言ってくれるのだろう。それでもきっと俺の手を引いてはくれない。なんだかんだとやわらかく理由をつけて、離れていってしまうのだろう。
嫌われる、という言葉が浮かぶ。なんとも的確な表現だった。彼らしいやり方で彼はきっと俺を嫌う。こんなにも彼の事が好きな俺の事を嫌う。胸にナイフを突き立てられたようだった。息が詰まって苦しくて、積もった雪に爪を立てた。もうどこにも体力なんて残っていないと思っていたのに、ぼろぼろになった心が撒き散らすその力は強かった。まっさらな雪を醜く抉っていく。
「……好きなのに」
自分が発したその言葉に涙が一気に引いていくのを感じた。そして静まり返った頭の中に泡のように浮かんだのは、もっと暴力的な感情だった。
「好きなのに」
冷え切った体に熱が戻る。腹の奥が熱くなって、そこから心臓を伝って脳へと向かう。
「好きなのに」
唇を噛んだ。歯を思い切り立てて強く。何かが削れるような音が微かに聞こえて、口の中に鉄の味が広がった。噛み切った場所が痛んで、それがまた怒りを増幅させていく。雪を掴んで、振り上げて叩きつけた。降ったばかりのやわらかな雪は地面に落ちる前に散り散りになって舞った。欠片が熱を持った頬に触れて、その冷たさにまた涙が戻ってきた。
後悔と、恋情と、怒りと。いくつもの感情が混ざり合って、頭の中で渦を巻いた。もう耐えられないと思った。流れて落ちる涙はそのままに空を仰ぐ。灰色の重たい雲が星も月も覆い隠していた。真っ暗な空を見上げて、声を上げて俺は泣いた。
(END)
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