フランメ

 麦わら帽子を頭に乗せて、庭のひまわりにホースで水を撒いていた。真夏の日差しは強い。袖を捲り上げたおかげで剥き出しの肌に突き刺さり、少しずつ焦がしていくのが見えなくてもわかる。暑いのは別に嫌いではないけれど、それほど得意というわけでもない。目を閉じ、溜め息をつく。水やりが終わったら少し昼寝をしよう。なんだか体が重いような気がする。

「幸せが逃げるって」

 突然背後から聞こえた声に肩を揺らし、振り返る。この暑いのに黒の長袖を着て、ストールを巻いた男が立っていた。その姿を見て思い出す。今日は8月14日。足元には昨日燃やした木の欠片が残っていた。

「……久しぶり。一年ぶりだな」

「そうだね。元気にしてた?」

「まあ、ぼちぼちって所かな」

 聞き返す事はしなかった。花に水が行き渡ったのを確認して、ホースの水を止めて片付ける。下駄を脱いで縁側から部屋に入る俺の後を彼はついてくる。部屋の隅に積み上げてあった座布団を抱え、ちゃぶ台の前に置いた。扇風機を持ってこようかとおもったが、そういえば彼には必要ないのだと思い直す。

「お茶持ってくるから待ってて」

「お構いなく」

 彼に背を向けて台所へ向かう。いつも使っているコップを取り出し、それから来客用のグラスを手に取り、さっと水で洗う。氷を二つ入れて、冷えた麦茶を注いだ。氷が鳴る音を受け止めた耳の奥がキンと音を立てた。

 彼が、マツバが俺の前に現れるのは一年に一度だけ。真夏の数日間。迎え火を焚いてから送り火を焚くまでの数日間。出会った頃はどうしてすぐにいなくなってしまうのかと泣いた事もあったけれど、理由を悟った今ではそんな事はなくなった。彼がやってくるのはいわゆるお盆の時期。亡くなった人が帰ってくる時期。

 つまり、マツバは、もうこちら側にはいない人なのだ。心臓は動いていない、息もしない、触れられない。このお茶だって飲まないのはわかっているけれど、できるだけ普通に振る舞いたかった。暑い中をやってきた人には座布団を敷いてお茶を出して。扇風機もやっぱり持っていこう。彼は汗ひとつかいていないとしても。

 お盆に乗せたコップとグラスをちゃぶ台に置く。それから扇風機を持ってきて、床に置いた。四つん這いになってコードをコンセントに差し込み電源を入れる。わずかに冷たい風が弱々しく流れ出した。

「夏バテ? 疲れた顔してる」

「うーん、夏バテってほどではないんだけど、やっぱり暑いから疲れてはいるかも」

「仕事は休み?」

「うん」

 麦茶を一口飲む。汗をかいたコップから水滴が膝の上に落ちたけれど、この暑さの中ではすぐに乾いてしまうのだろう。そのままにしておく事にした。

「夏休みかあ、いいね」

 机の上に視線を落とす。マツバは夏休みにはどうしていたの、と聞きそうになったのをこらえた。

『あまり知りたがってはいけないよ』

 そう言って俺の頭を撫でた父さんの声を思い出す。マツバと初めて会った夏。突然現れた友達の話をする俺を見て、父さんは珍しく戸惑った顔をした。それでも最後まで俺の話を聞いて、それから俺と目線を合わせるようにしゃがみこんだ。もう戸惑った顔はしていなかった。いつものように明るく笑って言ったのだ。知りたがってはいけないよ。その意味はまだ五歳か六歳ぐらいの、子供だった俺にはよくわからなかったけれど、父さんが言うならそうなのだろうと思った。だから俺は知ろうとするのをやめた。年も、出身地も、家族の事も何も聞かなかった。

 父さんの言葉は優しさだったのだろうと漠然と思う。それがマツバに対する優しさなのか俺に対する優しさなのかはもうわからないけれど。知りたいという気持ちはあるけれど、やっぱり知ってはならないのだと思う。……どうしてマツバが死んだのかなんて俺は知らないから。傷つけてしまうかもしれない。苦しめてしまうかもしれない。

「ハヤト?」

 その声にはっと顔を上げる。マツバは心配そうに俺を見ていた。

「大丈夫? 日射病とかじゃない?」

「大丈夫。ちょっと暑いだけ」

 扇風機の風量を上げる。前髪が揺れて邪魔だけれど、頭の中は少しはっきりとした。

「暑いのは苦手?」

「苦手ってほどではないけど、すごく好きってわけでもないかな。あ、でもスイカを食べたりとかそういうのは好きだ」

「おいしいよね、スイカ。かき氷とかもいいな」

「そういえば祭りの時期だな。明日花火もあるらしいし」

「ハヤトは見に行くの?」

「いや、人も多いだろうしやめておこうと思って」

 祭りは嫌いではないけれど人混みは動きづらくて好きではない。もっとも、好きな人なんてそうはいないと思うけれど。だけど行かない理由はそれだけではない。

 マツバは俺にしか見えない。霊感がある人なんかがいれば別かもしれないけれど、普通の人には見えないようだ。父さんには見えていなかった。ちょっと目が悪くなってきたからなあという言葉をあっさり信じていたけれど、嘘だったのだともうわかっている。マツバとこうやって普通に話すには二人きりでいるしかないのだ。たった三日しかないのだから無駄にするわけにはいかない。と、自然に考えてしまうようになったのはいつからだったのだろう。

 首を横に振る。滅多に会えない友達とできる限り一緒にいようと思うのは普通だろう、と自分に言い聞かせる。

「でも一緒に見れたらいいね、花火」

「……そうだな。どこか穴場とかあればいいんだけど」

 そうだね、とマツバは頬杖をついて笑った。細くて長い指。手を伸ばしてもその頬にも手にも触れられないのだと思い出す。



 じわじわとした暑さとアナウンサーの声で目を覚ました。映ったのは見慣れない景色で、俺も死んだのだろうかと思ってしまった。だけど天国でも地獄でもなさそうだ。少し黄ばんだ天井と糸の垂れた四角い照明。そうか、と正常に動き始めた頭で思う。夕食のそうめんをすすって、風呂に入って、マツバとテレビを見ているうちに眠ってしまったのだろう。寝室ではなく居間でそのまま。マツバが眠るのかどうかすら俺はきちんとは知らない。けれどどうやら眠っていないらしい。できる限り一緒に起きている事にする。できる限り。昨日何時に寝たのか知らないけれど、残念ながらおそらく日付が変わるよりも早く眠ってしまったのだろう。

 体を起こして辺りを見回す。マツバは部屋にいなかった。時計を見ると午前7時前。みんなが寝静まった後、7時間も一人で起きているというのはどういう気分なのだろう。

「マツバ」

 寝起きの掠れた声だった。近くにいないマツバにはきっと聞こえない。立ち上がると視界の端に髪が映った。どうやら寝癖がついているらしい。手櫛で簡単に整えて部屋を出る。目指す先は決まっていた。毎年そうなのだ。いつの間にか眠ってしまう俺を置いて、マツバは縁側で外を見ている。月と星と変わる空の色。それから目を覚ます花たちを。

 縁側に座る黒い背中を見つけてそっと息を吐く。いつもここにいる事は知っているけれど、いつまでもここにいてくれるかはわからない。

「マツバ」

 彼は振り向いた。おはよう、と穏やかな声が届く。隣に座ると彼は右手を少し上げ、下ろした。

「寝癖、すごいよ」

 どうやら髪を整えようとしてくれたらしい。そんな些細な事もできないし、してもらえないのだと思うと胸が詰まった。マツバの手の温度はどれぐらいなのだろう。きっと少し冷たい手をしているのだろう。日に焼けていないからそう思うのかもしれない。確かめてみたくても確かめられない。

「知ってる。後で直すよ」

 もう一度跳ねた髪を指でつまんで伸ばす。手を離すとくるんと元に戻る。それを見て彼は笑った。

「今日はちゃんと布団で寝ないとダメだよ」

 そうするにはマツバを置いていかないといけないのに。そう思ったから何も答えなかった。代わりに、何を見ていたのかと問い掛けた。

「星が綺麗だったよ」

 彼の隣で膝を抱えて空を見上げる。もう星は消えて、晴れ渡った空だけがあった。

「俺も見たいな」

「よく見えるようになるのは周りの家の電気が消えた後だよ。起きていられる?」

「……無理かもしれないけど」

「ふふ、早寝早起きか。健康的でいいね」

「そうだけど……」

 腑に落ちない、とはっきりとわかる表情だったのだろう。マツバは小さな子供を見る時のように目を細めた。すみれ色の目が白いまぶたの陰になる。

「いつか、遅くまで起きていられるようになったら一緒に見ようね」

「子供扱いしてるだろ、それ」

「してないしてない。でも、初めて会った時と比べると本当に大きくなったよね」

「まあ、10年以上も前だから」

 10年という年月は随分と長いように思えたけれど、その間にマツバについて知った事はほとんどない。だからいつまでも不安なのかもしれない。俺の手は何も掴めていなくて、全てが簡単にすり抜けてしまいそうで。重ねてきた思い出があるじゃないか、なんてありふれた事を思ったけれど、1年のうち3日にも満たない時間だけしか一緒にいられない二人の間に確かな思い出なんてない。去年はどうしていたかだって、いつの間にか霞んでしまっているのに。

「ねえ」

 呼びかけると、彼は首を傾げた。

「マツバは俺と会った時の事は覚えてるの?」

 覚えていてほしいけれど、覚えていてほしくない。薄情な事に、まだまだ子供だった俺はあまり覚えていなかった。

「覚えてるよ」

 俺と同じように膝を抱えてマツバは微笑んだ。答える声があまりにも澄んでいて、こんなにも暑いのに寒気を覚えた。

「どうして」

 自分の体を抱くようにしながら問い掛けた声は、絞り出したようにざらついていた。

「忘れないよ」

「どうして」

「何度も何度も思い出してるんだから、忘れないよ」

 真夏の太陽はもうすっかり目を覚ましていて、どうしようもないほど暑い日になるのは間違いないのに、腕を掴む指先は冷えて震えていた。どうして俺は忘れてしまうのだろう。マツバはこんなにも大事に覚えていてくれるのに。どうして。何度も問い掛けた言葉を繰り返す。どうして、マツバは覚えていてくれるの。

「ほら、寝癖直して顔洗って。朝ご飯にしないとね」

 波のように柔らかい声が耳に触れ、体を縮めて震える俺を落ち着かせる。首を動かして振り返る。居間へと向かうあの黒い背中を追いかけて、捕まえられたらよかったのに。俺だって忘れたくないのに。マツバとの事を何度も何度も思い出して、そして、それから、幸せだって笑いたいのに。

 湧き出した感情を頭の中で分解して理解する。幸せ。こうやってマツバと二人でいる時間が。言葉を交わす事が。

 その意味に気付いた瞬間に襲ってきたのは恐怖だった。背中に冷たい汗がじわりと滲み出る。耳を塞いで目を瞑る。マツバはもう存在していないはずの人で、いついなくなってしまうかもわからなくて、いつか見えなくなってしまうかもしれなくて。それなのにそんな相手に、恋をするだなんて。

 助けて、と零した。消え入りそうな声は誰にも届かない。気付きたくなかった。知りたくなかった。きっとこれから症状はひどくなるばかりなのだろう。全部を見ていたい、聞いていたい、触れたい、知りたい。叶わないものばかりなのにそれに焦がれてしまうのだろう。そうなったら俺はどうなってしまうのだろう。おかしくなってしまいそうだ。マツバのいない時間はあまりにも長い。

 ハヤト、と呼ぶ声が聞こえた。返事をしないといけないと思った。声は出なかった。マツバが近づいてくる気配がする。どうしたの、と問い掛ける声が背中の向こうから聞こえた。まぶたの向こう側は強い日差しでかすかに白く光っていた。目眩がする。頭の中が揺れて回る。

「ハヤト」

「……気持ち、悪い」

「大丈夫?」

 大丈夫だと答えたかったのに答えられない。笑う事もできない。倒れてしまわないように身体を制御するので精一杯だった。

「ぐらぐらする」

「風邪でも引いたかな? 今日は寝てないといけないよ」

「やだ」

「でも、寝ないともっと具合悪くなるよ」

「いい」

 よくないよ、とマツバは諭すように言った。駄々をこねているみたいだと思う。思うというか、駄々をこねているのだけれど。一人にしたくなくて、一人になりたくなくて。

「いいから」

 マツバといたい。その言葉は唇を噛んで飲み込んだ。今日の夜を過ぎて明日の朝がやってきて、明日の夜、別れるための火を焚いたその後もずっと。けれどそれを願ったら、もうマツバは二度と現れないような気がしていた。大事な約束を破ってしまうような気がしていた。

 目を開けた。マツバは黙り込む俺の隣に座り直して、俺の頭に手を伸ばした。幻でも何か感じられればよかったのに、存在しないマツバの手は忠実に俺の体をくぐり抜けているようだった。残酷な恋だ。泣けてきて仕方がないのに涙は出ない。ただ吐く息だけが震えていた。

(END)
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