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南国からの暗殺者

 部屋の中には爽やかな甘い香りが漂っていたけれど、彼も僕も楽しい気持ちにはもうなれなかった。

「……どうしようか、これ」

 沈黙に痺れを切らして僕が口を開くと、彼も重々しく首を縦に振った。

「やっぱり缶詰とかで少し食べるのがおいしいんだな……」

 ちゃぶ台を挟んで向かい合う彼と僕の間には、一枚の白い大皿に載ったとげとげとした果物の頭。それから銀のフォークが二本。

「舌がびりびりする」

 彼は舌を出して見せる。普段は見えない舌が覗くのには一瞬どきりとしたけれど、全く同じ痛みを味わっている身ではうまく反応できなかった。同じように舌を出すと、冷えた空気に触れて少しだけ楽になる。

「パイナップルを使った料理なんてあったかな」

「うーん……思いつかないな」

 二人揃ってがくりと頭を落とす。買い物に行ったスーパーで珍しくパイナップルが売っているのを見つけて、たまにはいいねなんて言いながら買い物かごに入れたのが昨日の夜。それから一日冷蔵庫で冷やして、試行錯誤しながらなんとか切り分けて嬉々として食べ始めたのがほんの二、三十分前。そして突然やってきた舌の痛みに二人揃って苦しみだしたのは五分ほど前だったと思う。まだまだパイナップルは冷蔵庫の中でたっぷりと眠っている。

「まさかこんな事になるとは」

 彼は溜め息をつき、パイナップルの葉を恨めし気に指でつつく。南国気分が出るようにと笑いながらこれを皿に乗せた頃の僕たちは、こんな事態を全く予想していなかった。ハヤトは食べ盛りだし、僕もそれほど少食という訳ではないからなんとかなるだろうなんてのんきに考えていた。

「僕たち馬鹿だったねえ」

「本当に」

 反省をした所で冷蔵庫のパイナップルはなくならない。さて、どうしようか。切り分けたのをちまちまと食べていくという手もあるけれど、それだと腐ってしまいそうだし、飽きてきてしまうし。料理でうまく使えれば消費も早いし味に変化もあるしでおいしく食べられるのだけれど。

 向かいに座っていたハヤトがちゃぶ台に手を付き立ち上がる。台所へと歩いていく背中を何事かと見送る。少しして彼は戻ってきた。手には分厚い料理本を持っていた。

「料理本なんてあったんだ」

「ほとんど使った事ないけどな。あんまり馴染みのない料理ばっかりだから」

 本を広げてぱらぱらとめくる。スペアリブだとかピラフだとかポトフだとか。聞いた事はある気がするけれど食べた事はないものばかりだ。朝食はご飯に味噌汁。夕食には洋風のものも作るけれどせいぜいシチューやハンバーグなど有名なもの。彼も僕も和食ばかりだから、必然的にこの本は使われなかったのだろう。ページの端が少し変色したこの本を買ったのは彼の母親だろうか。見た事のない彼の母親の姿が彼の肩越し、台所の奥に見えたような気がした。気がした、というだけだけれど。

「あ、あった」

 ハヤトの声で我に返る。本を覗き込むと「酢豚」と書いてあり、とろみのあるソースのかかった豚肉とパイナップルの写真が大きく載っていた。

「これなら作れそうだな。材料だけ買ってこないと」

「じゃあ、あとで買い物に行こう」

 今度はちゃんと考えて買わないとね。そう言うと、全くだ、と彼は目を細めて笑った。

「……あ、でも、これだけじゃあんまり使えないかな」

「そうだなあ」

 パイナップルはごろごろとした豚肉の隙間にいくつか転がっているだけ。使い切るにはまだまだ少ない。

「あとは何がいいだろう」

 料理のページをめくってみるも、あまり種類は多くない。二人揃って右へ左へ首を動かして本を覗き込む。そうこうしているうちに料理のページが終わり、飲み物のページに。

「ミックスジュース」

「ミキサーってあるの?」

「ない」

 これは却下だなと次のページへ。飲み物のページも終わってしまい、デザートのページに入っていく。

「あ、シャーベットおいしそうだな」

「凍らせるだけか。いいかもね、涼しげで」

「あとはゼリーとか、パンケーキとか……やっぱり甘いのが中心か」

「果物だもんね。せっかくだしいろいろ作ってみる?」

「そうだな。……よし、とりあえず今日は酢豚だな」

 彼は本を閉じると両腕を上げて大きく伸びをする。そしてまた舌を出す。

「また痛くなってきた」

「言われてみれば」

 舌と唇の内側と。びりびりと痺れた感覚が戻ってきた。

「どうしたら収まるんだろう」

「口直しに何か飲むか?」

 よいしょ、と呟き彼は立ち上がる。そして料理本を手に取った。お茶でも取りに行くつもりなのだろう。台所に向かい、食器棚からコップを取り出す姿が見えた。

 それにしても舌が痛いな、と先程の彼のように舌を出す。痺れている舌の先に親指で触れてみると少しだけ楽になったような気がした。離したら元に戻ってしまったけれど。お茶を飲むなりなんなりして、何かに触れていればその間は気が紛れて楽になるのだろう。……何かに、ねえ。

 からからと氷が鳴る音が近づいてくる。二つの小さなグラスの中で緑茶と氷が揺れていた。

「はい」

「ありがと」

 指先に触れる温度は低い。確かにこれを飲めばその間は楽になるのだろう。だけどそれでは一瞬だから。

「ねえハヤト」

 お茶を飲み込み、なんだよ、と彼は答える。

「いや、口直しをしようかと思って」

「今、お茶飲んでるだろ」

「そうじゃなくてね、えっと、ハヤトに口直ししてほしいなって」

 彼はもう出会ったばかりの頃の彼ではない。僕の意図を正確に汲み取って、そしてその結果グラスを手にしたまま固まっていた。

「よろしくお願いします」

 目を閉じる。じわじわと顔を赤くする彼の姿が隠れてしまうのはもったいないような気もしたけれど、この後どうするかが知りたくて……そして、なんだかんだと言っても僕を裏切らないだろう、という傲慢な確信もあって、こうする事に決めた。

 グラスを机に置く音が聞こえた。そして机が軋む音。手を置いたのだろう。衣擦れの音、彼の微かな息の音。

 それから唇に触れるものはなくて、代わりに鈍い音が骨を通して頭に響き、鼻に重い痛みが走る。思わず目を開けると、鼻を押さえて涙ぐんでいるハヤトの姿があった。

「……え、もしかして失敗?」

「う、うるさい!」

 どうやら図星のようだった。思い切って勢いをつけてひと思いに済ませようとしたのだろう。その勢いが仇となって今に至っているらしい。

 恥ずかしさと痛みとで真っ赤になって目を潤ませながら僕を睨みつけている表情に、思わず笑いがこみあげてくる。笑うな、と頭を叩かれたけれど気にしない。褒める時のように彼の頭を軽く撫でる。

「僕、やっぱりハヤトが好きだな」

 あ、とか、う、とか。怒るに怒れなくなってしまった彼は鳴き声のようにそう繰り返す。

「だから待ってるよ」

 もう一度僕は目を閉じた。彼の頭から僕の手のひらが滑り落ちる。呼吸の音が耳元で聞こえて、そして唇に息が触れる。彼が触れる。いつの間にか痺れが消えていた事に僕は全く気付かない。

(END)
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