春霞

 マツバには月がよく似合う。太陽の中にいるマツバは消えてしまいそうだとよく思うけれど、月の下ならそうは思わない。太陽よりもずっと弱々しい光は、輪郭を消してしまわないようにと気遣いながら優しく照らしてくれるから。乾いた金色の髪も、透き通るような肌も。こんなに綺麗な人に愛されているという事が目に見えるのはこの上ない幸せだった。

「どうしたの? 嬉しそうな顔してるね」

 静まり返った深夜の街を二人で歩く。何故だか眠れない夜にはいつもこうしてマツバを連れ出す。今日は満月だ。マツバと初めて会ったのも、同じように満月だった。寒さの緩んだ春の夜だった。

「どうしてだと思う?」

「どうしてかなあ」

 返事の代わりに手を握るとマツバは目を細めて笑う。その瞬間にすみれ色の瞳がふわりと光る。食べたら甘いのだろうか。好きな人の目を食べるだなんておかしな話だけれど。目を食べる。俺の右目も誰かに食べられてしまったのかもしれない。俺の事を好きな誰かに。それがマツバだったらいいのに。生まれる前から決まっていた、だなんて安っぽい言葉だと思うけれど、それが本当の事ならいい。

「暖かくなったね、本当に」

「うん」

 春の夜は海の中にいるように温い。息を吐いても泡が生まれたりはしないし、地面をつま先で蹴ってみても、固い石畳の感触が返ってくるだけで浮かぶ事などないけれど。

「桜餅が食べたいな」

「そうだね……もう、そんな時期だ」

「すっかり春だな」

 他愛のない話をしながら、満月が照らす道を歩いていく。家の電気はすっかり消えて、人の姿も見当たらない。みんないなくなってしまって二人きりになったみたいだ。それなら幸せなのに、と思う。だけど、もしマツバがいなくなってしまったら一人になってしまう。それは寂しくて耐えられないだろうからやっぱり嫌だと思うけれど、だけど、つまりはマツバがいなくならなければいいわけなのだからやっぱりこれでもいい気がする。

「朝になったら桜餅買いに行こうよ」

「…………」

「草餅も買ってこよう。それから、あられも。ポッポたちのおやつにしよう」

 そんな事を話していると手を引かれた。足を止め、手を離して振り返る。マツバの冷えた手が頬を包み、指先が撫でるように動く。

「……ハヤトはさ」

 彼は話し始める。こんなに暖かい夜なのに、彼の手は冷たかった。

「手持ちの子も可愛がってるし、ジムトレーナーの子たちとも仲がいい」

 それがどうかしたのだろうと考える。マツバの親指は俺の目の下をなぞり、目尻の辺りで止まる。今度は手のひらが髪をかきあげるように動いた。その手が髪を梳いて離れていく。

「だからね、僕がいなくても一人じゃないんだよ」

「そりゃあそうかもしれないけど、どうして?」

「ううん、ちゃんと覚えておいてほしいなって思ってね」

 彼の手が今度は頭の上に乗る。そっと撫でられるのが心地よくて、俺は思わず目を細める。

「言われなくてもわかってるよ」

「本当に?」

「本当だよ」

「それなら、わかるよね? 僕がいなくなってもハヤトは大丈夫だよ」

 その言葉に胸の奥が、体を動かすその器官が、冷えるのを感じた。いなくてもなんて言わないで。仮定の話だとしてもそんな事は認めない。考えるだけでも嫌だ。嫌だ。指先から体が冷えていく。そんな事言うなと叱ってやりたいのに、消えてしまわないように腕を掴んで引き止めたいのに、人形にでもなってしまったみたいに体が動かない。目も、口も。どうして、何が、俺の邪魔をしているの。

「ごめんね」

 目を伏せて彼は告げる。謝ったりなんてしなくていい。隣にいてくれればそれでいいのに。それぐらい簡単な事のはずなのに。

「一年なんて本当にあっという間だね。……楽しかったよ、本当に」

 マツバは俺の頭を抱えるようにして、前髪の上から額に口づける。さようなら。そう囁く声に心臓が凍るのを確かに感じた。

 どうして、と言葉にする事すらできない。泣く事すらできない。血が失われているかのように、目の前が塗りつぶされるように暗く霞み始める。マツバを覆い隠してしまう。隠してしまわないで、と薄れていく意識の中で思う。必死で手を伸ばそうとしたけれど、それも許されない。名前も呼べない。ただ一つだけ、最後に視界が開けてマツバの姿が見えた。月明かりの中で、噛みしめていた唇を解いて、微笑んだ。見覚えのある表情だった。そうだ、あの時もマツバはこうして笑っていた。初めて出会った春の夜。笑っていた。悲しそうに、苦しそうに。



 目を開けるとすっかり朝になっていた。白く淡い光が部屋の中を満たしていた。体を起こすと目眩がして、思わず布団に手をつく。随分と眠ったような気がするけれど、長い夢を見た気がするけれど、何故だか何も思い出せなかった。夢なんていつもそんなものだ。どんなにいい夢でも悪い夢でもすぐに消えてなくなってしまう。

 着替えて朝食をとらなくては。それから顔を洗って、ジムに行かないと。立ち上がり歩き出す。家の中は静まりかえっていた。そうか、父さんはもう帰っては来ないんだ。もうずっと前から知っていたのに、その事実が今更すっと心に入り込む。帰ってこない。泣いていたって、嘆いていたって。だからもう、泣くのも嘆くのもやめないといけない。そう思った自分に首を傾げる。おかしいな、なんだか昨日までずっと泣いていたような気がするのに。一晩でこんなに変わるものなんだろうか。……一晩で。本当に?

 立ち止まって考える。昨日の事すらぼんやりとしている。それほどになるまで、ずっと悲しんでいたのかもしれない。……きっとそんな俺を見かねて父さんが夢に出てきてくれたんだ。慰めてくれたんだ。そうやって魔法をかけて、もう悲しまないようにしてくれたに違いない。それならもう顔を上げて生きていく以外にない。俺は強いはずなのだから。父さんの息子なんだから。

 足元に擦り寄るポッポを抱え上げる。おはよう、と声をかけると、ポッポは愛らしい鳴き声を上げる。どうやら機嫌がいいようだ。

「今日も頑張らないとなあ」

 階段を下り、居間の床にポッポを下ろし、眠たそうに床に座り込んでいるペリッパーの背中を撫でて台所に立つ。味噌汁を作ろうと鍋に水を入れ、火にかける。ゆらゆらと揺れる水面を見つめていて気が付いた。もう食べるのは俺だけなのだから、この水の量は多すぎる。一人になってもう一年以上も経つはずなのに何をやっているんだろう。今更水を捨てるのももったいないからこのまま作って夜にでも食べるけれど、明日は一人分にするのを忘れないようにしよう。

 具材を切って鍋に入れる。その間に茶碗と箸を取り出し、机に置く。それから湯呑みも。食器棚を開け、人差し指と中指の間に自分の湯呑みを挟み込む。あともう一つ。そう思い動かした親指が宙を掻く。……まただ。俺と、俺以外の誰かの湯呑みを手に取ろうとしていた。もう父さんは……本当に、父さんの湯呑みを取ろうとしたのか? 父さんでもなくて俺でもない誰か。母さんはもうずっと前からいないから母さんではないのだろう。だとすると、一体誰?

 首を傾げても答えは出ない。ただ、どうしてか視界が滲むのを感じた。湯呑みから手を離し、目を擦る。どうして泣くんだろう。何をなくしたのかもわからないくせに。

「なんだろうな」

 一つ呟く。もう涙は出なかった。一人分の湯呑みを机に置き、茶碗にご飯を、そして味噌を溶き入れて完成した味噌汁をお椀によそう。冷蔵庫から取り出したお茶を注いで、椅子に座って手を合わせる。一人きりで一日が始まる。昨日までと同じように。

(END)
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