ランデブー
腕を伸ばして親指を立ててみても、止まる車はまるでなかった。熱風だけを残して車は走り去る。目眩がするほど強い日差しが俺の頭に照り付ける。溜め息をついてしゃがみこんだ。
「なんだよ、一台ぐらい止まれよ……」
そう呟く声は疲れ果てていた。とっくにペットボトルは空だ。ひどく喉が渇いている。下手をしたらこのままここで死んでしまうかもしれない。なのに、どいつもこいつも。
膝に汗でべたつく額をつけてまた溜め息。街まで歩く気力はもうなかった。なんでこの距離を歩けると思ってしまったのだろう。最初にまずいかもしれないと思った時点で引き返していればよかったのに。それか、せめてもっと朝早くとか夕方に出発すればまだよかったのに。馬鹿だったなあと後悔してももう遅い。本格的に目眩がしてきた。せめて水だけでもどこかで買えればいいのに。
「ねえ、大丈夫?」
その声にゆるゆると顔を上げる。泥が跳ねた跡がいくつもあるトラックが止まっていて、その窓からは古びた車には似つかわしくない整った顔立ちの男が顔を出していた。
「街まで歩こうとするなんて無茶をしたねえ」
彼はハンドルを片手で握り、逆の手で水の入ったペットボトルを俺に渡す。そして受け取るなり礼を言うのも忘れて水を飲む俺を、横目で見て笑っていた。
「この暑い中を歩くのは無謀すぎるよ」
「わかった。ものすごくよくわかった」
そう呟くうんざりとした声はさっきよりは少し元気だった。喉の渇きはなんとか収まって、ほっと溜息をついて俺はシートに凭れ掛かる。
「助かったよ、本当に」
「うん。あのままだったら本当に危なかった」
「びっくりするぐらい誰も止まってくれないし……」
「いろいろと物騒だからね、この辺りは」
さっきまで遥か遠くに見えていた街はさっきよりは近づいたように見える。ぬるい風が絶えず窓から吹き込んでくるけれど、それでもさっきまでの炎天下に放り出された状態とは比べものにならないくらい快適だ。
「君、どこから来たの?」
「ジョウトから」
「え、ジョウトなんだ。僕もだよ。エンジュ出身」
「エンジュ? 隣だ。俺はキキョウ」
「おー、偶然だね」
運命的、と冗談めかして彼は微笑む。風に揺れる金色の髪が綺麗で、思わず息を飲んだ。胸のあたりが疼く。唾を飲み込んで、そうだな、と答えた。
「それにしても、なんでこんな遠くまで来たの?」
「一人前の男になるためには旅をしろ、って父さんが言ったから」
俺ぐらいの年の頃、父さんもこうして旅をしたらしい。リュック一つだけを背負って、自分一人で。俺も同じ事をすれば父さんみたいになれると思ったのだけれど、まだまだそれには程遠い。こうして誰かに頼ってしまったわけだし。
「……やっぱり俺、歩いていくよ」
「え? ダメだよ、さっき危なかったって話したでしょ?」
「でも自分でなんとかしないと。父さんはそうしてたんだ」
おんぼろの車では大したスピードは出ない。取っ手に手を掛けた俺を片手で止める。胸の辺りに差し出される大きな手。大人の手。こら、とたしなめる彼の声。大人の声。
「上手く誰かに頼るって事も覚えなさいって意味だよ、きっと。旅をしろって言ったのは」
「……そうかな」
「そうだよ。とりあえずうちにおいでよ。シャワー浴びた方がよさそう」
確かに額も背中も汗だくだ。このままだとあせもができて大変な事になりそう。うん。上手く頼る。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「どうぞ。ちょっと散らかってるけど」
ありがとう、と返事をして、フロントガラスの向こうに目をやる。街はまだまだ遠い。がたがたと揺れる車が心地よくて、疲れた体はシートの上で溶けていくようで。あくびがこぼれた記憶を最後に眠ってしまったようだった。
扉が閉まる音と、ゆさりと揺れる感覚。目を開けるとすっかり日が傾いていた。橙色の柔らかい光が街を染めている。どうやら寝ている間に街に着いたらしい。目を擦り、周りを見回す。乗っているトラックは道路の端に止まっている。隣に彼はいなかった。
窓を叩く音がした。そちらを向くと手を振る彼の姿。なんだか少し安心してしまう。バーを回して窓を開ける。
「おはよう。よく寝てたね」
「ごめん……」
「いいよ、別に。疲れるのもわかるし」
着いたよ、と言われて車から降りた。古びているけれど背の高い建物の前に俺たちはいた。
「僕の家、ここの4階なんだ。エレベーターなんてないから階段だけど」
そう言って彼は大きな段ボール箱を荷台から取り出し、抱える。
「こっちの荷物も?」
荷台の上にはもう一つ段ボール箱が載っていた。そっと持ち上げてみる。ずっしりと重たい。
「そうだよ。でも重いしそのままでいいよ」
「いい、手伝う」
抱えてもやっぱり重い。空いたふたの隙間から中身が見えた。こちらの言葉で書かれた本のようだ。読み取れた単語を繋ぎ合わせてみる。どうやら歴史の勉強か研究でもしているらしい。
階段を一段一段登っていくと、金属を叩く甲高い音が響く。手すりの塗装は剥げて、赤黒く錆びた金属の色が見えている。まだ日は落ちていないのに薄暗いし、なんだか不気味だ。階段を登る速度を上げて彼の背中から離れないように歩いていく。
4階に着くと、彼は一度荷物を下ろして鍵を取り出し、ずいぶんと傷んでいるように見える扉を開ける。ぎい、と高いのか低いのかよくわからない音が鳴る。
「どうぞ。足元気を付けてね」
「うん」
彼に続いて部屋に入る。熱気が籠ってむっとした部屋の中は確かに散らかっていた。散らかっているというよりも、物が多い。物というか本が多い。彼の持っている段ボール箱の中も本のようだ。
箱と箱の間に本を置くと埃が舞い上がった。夕方の金色の光の中でくるくると踊る埃に見とれていると、彼に声をかけられる。
「手伝ってくれてありがとう。夕飯の準備しておくから、お風呂行っておいで」
「え、夕飯って」
「お風呂だけ貸して放り出すっていうのもなんだし、よかったら一緒にどうかな? というか、もうすぐ夜だし泊まっていきなよ」
ちょっと狭いけどね、と彼は笑う。ありがたいのは確かなのだけれど、果たしてここまで甘えていいものか。そう思ったけれど、タオルを手渡され背中を押され、仕方なくうなずく。
いってらっしゃいと言う声は穏やかで、なんだか落ち着かない気持ちになる。この感覚の意味はもうわかっていた。嫌だ、と思う。嫌だ。俺が何を思っても、どうせ叶えられる事なんてない。言葉にだってしてはいけない。
シャワーを浴びて戻ってくる頃にはすっかり夕飯が出来上がっていた。焼いた肉とフライドポテトの隣には平たい皿に盛られた白いご飯。そして漬物が添えられている。
「……久しぶりに見た気がする」
「この前友達が送ってくれたんだ。味噌を送ってもらうの忘れちゃったからお味噌汁はできないんだけど」
彼と向かい合って座る。本当にいいのだろうか、と思うけれど、彼が嬉しそうにしているからいいのかもしれない。知らない所で一人暮らし。寂しい事もあるだろうし。
「いただきます」
「いただきます」
箸は持っていなかったらしい。ナイフとフォークで食事をする。久しぶりに食べる白米の甘さが体に染み渡るようだった。
「はあ、やっぱり落ち着くなあ」
もうほとんど日が落ちている。窓の外に広がる空はくっきりとした青色。他の住人はまだ帰ってきていないのだろうか。やけに静かな部屋の中に広がった彼の声にうなずいた。
「こっちの食事も悪くはないけど、やっぱりまだ食べ慣れないから」
「そうだよね、なかなか。……そういえば、いつこっちに来たの?」
「二週間ぐらい前かな。やっと慣れてきたって所」
「いつまでこっちにいる予定なの?」
「俺が着いた所とは別で、西の方にまた大きい空港があるって聞いたから、そこに自力で行って帰る予定」
「ああ、なるほど。まだまだここからは遠いね……。今日はゆっくり休んでね」
「ごめん、なんというか、本当にお世話になって」
「いいよ。同じジョウト出身なんて何かの縁だし」
良い子だね。そう言って彼は俺に向かって手を伸ばす。突然頬を撫でられて困ってしまった。どうして俺にこんな事。いや、でも、こちらはこういうふうに触るのが普通みたいだし、なんでもない事なんだ、きっと。背中に走る痺れは知らないふりをする。気付かないふりをする。
「ねえ」
甘い声が耳をくすぐる。肩が揺れてしまったのは仕方がない事なんだと思う。
「君は、僕と同じかな」
「え……?」
「なんとなくそうかな、とは最初から思ってたんだけどね。赤くなってるし、合ってるのかなって」
ばれてしまった、という焦りもあるけれど、まず何を考えればいいのかわからない。僕と同じ。何が? いや、何がなんて疑問に思う余地はない。頬を撫でる手と、それに赤くなっていると指摘された事。つまり。
「なんで好きになるんだろうね」
彼はほんの一瞬眉を寄せて泣き笑いのような表情を浮かべた。けれどその表情はすぐに消える。ごめんねと彼は呟いて、俺の頬から手を離す。咄嗟にその手を掴んだ。
「……ダメだよ、そんな事しちゃ」
「どうして?」
「困るでしょう、君も僕も……いくら僕たちが同じでも、一目惚れなんて、ねえ」
彼は俺の手を振りほどく。優しげな仕草ではあったけれど、明確に彼の意志はわかった。それが自分でも驚くほどに突き刺さる。傷つくとはまさにこの事だ。
「ほら、ご飯冷めちゃうよ」
さっきまでのように、何事もなかったかのように彼は微笑み、箸を手に取る。
同じだと言ったのはそっちだろうに。
「俺も」
口元が歪んだ。苦々しい顔をしたのは、もう触れては欲しくなかったからか。
「俺も同じ」
あんたを好きになったのは同じ。そう告げた声が最後まで届いていたかはわからなかった。ほどかれて中途半端な位置に留まった手は情けなく震えていたし、視界も滲んでいた。誰かにこうやって好きだと言うのなんて初めてだ。
「別に、困らないだろう。あんたも俺も」
「……君はいなくなっちゃうのに?」
「今はこうして一緒にいる。今時手紙だってメールだってある」
実はメールのやり方なんて知らないのだけれど、知っているふり。これから覚えればいいだけの話。
「名前を教えてよ。それから、住所とアドレスも」
笑ってしまう。名前も知らないままここまでついてきて、こうして向かい合って食事をして、なんて。
「俺はハヤト」
「……僕は、マツバ」
箸を持つ彼の手を掴む。まずは挨拶だ。ぐっと力をこめて手を握る。ここでは握手から始まるものだと聞いたから。
「マツバ。絶対手紙書くからな」
戸惑い気味の彼の手がゆるゆると俺の手を握り返す。彼は顔を上げて俺を見た。そして息を吸って、困ったように眉を下げる。不安になったけれど、彼は力の抜けた声を上げながら笑ってくれた。
「ありがとう、楽しみにしてるよ」
ハヤト。そう呼ぶ優しげな声に心臓が高鳴っていく。
(END)
「なんだよ、一台ぐらい止まれよ……」
そう呟く声は疲れ果てていた。とっくにペットボトルは空だ。ひどく喉が渇いている。下手をしたらこのままここで死んでしまうかもしれない。なのに、どいつもこいつも。
膝に汗でべたつく額をつけてまた溜め息。街まで歩く気力はもうなかった。なんでこの距離を歩けると思ってしまったのだろう。最初にまずいかもしれないと思った時点で引き返していればよかったのに。それか、せめてもっと朝早くとか夕方に出発すればまだよかったのに。馬鹿だったなあと後悔してももう遅い。本格的に目眩がしてきた。せめて水だけでもどこかで買えればいいのに。
「ねえ、大丈夫?」
その声にゆるゆると顔を上げる。泥が跳ねた跡がいくつもあるトラックが止まっていて、その窓からは古びた車には似つかわしくない整った顔立ちの男が顔を出していた。
「街まで歩こうとするなんて無茶をしたねえ」
彼はハンドルを片手で握り、逆の手で水の入ったペットボトルを俺に渡す。そして受け取るなり礼を言うのも忘れて水を飲む俺を、横目で見て笑っていた。
「この暑い中を歩くのは無謀すぎるよ」
「わかった。ものすごくよくわかった」
そう呟くうんざりとした声はさっきよりは少し元気だった。喉の渇きはなんとか収まって、ほっと溜息をついて俺はシートに凭れ掛かる。
「助かったよ、本当に」
「うん。あのままだったら本当に危なかった」
「びっくりするぐらい誰も止まってくれないし……」
「いろいろと物騒だからね、この辺りは」
さっきまで遥か遠くに見えていた街はさっきよりは近づいたように見える。ぬるい風が絶えず窓から吹き込んでくるけれど、それでもさっきまでの炎天下に放り出された状態とは比べものにならないくらい快適だ。
「君、どこから来たの?」
「ジョウトから」
「え、ジョウトなんだ。僕もだよ。エンジュ出身」
「エンジュ? 隣だ。俺はキキョウ」
「おー、偶然だね」
運命的、と冗談めかして彼は微笑む。風に揺れる金色の髪が綺麗で、思わず息を飲んだ。胸のあたりが疼く。唾を飲み込んで、そうだな、と答えた。
「それにしても、なんでこんな遠くまで来たの?」
「一人前の男になるためには旅をしろ、って父さんが言ったから」
俺ぐらいの年の頃、父さんもこうして旅をしたらしい。リュック一つだけを背負って、自分一人で。俺も同じ事をすれば父さんみたいになれると思ったのだけれど、まだまだそれには程遠い。こうして誰かに頼ってしまったわけだし。
「……やっぱり俺、歩いていくよ」
「え? ダメだよ、さっき危なかったって話したでしょ?」
「でも自分でなんとかしないと。父さんはそうしてたんだ」
おんぼろの車では大したスピードは出ない。取っ手に手を掛けた俺を片手で止める。胸の辺りに差し出される大きな手。大人の手。こら、とたしなめる彼の声。大人の声。
「上手く誰かに頼るって事も覚えなさいって意味だよ、きっと。旅をしろって言ったのは」
「……そうかな」
「そうだよ。とりあえずうちにおいでよ。シャワー浴びた方がよさそう」
確かに額も背中も汗だくだ。このままだとあせもができて大変な事になりそう。うん。上手く頼る。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「どうぞ。ちょっと散らかってるけど」
ありがとう、と返事をして、フロントガラスの向こうに目をやる。街はまだまだ遠い。がたがたと揺れる車が心地よくて、疲れた体はシートの上で溶けていくようで。あくびがこぼれた記憶を最後に眠ってしまったようだった。
扉が閉まる音と、ゆさりと揺れる感覚。目を開けるとすっかり日が傾いていた。橙色の柔らかい光が街を染めている。どうやら寝ている間に街に着いたらしい。目を擦り、周りを見回す。乗っているトラックは道路の端に止まっている。隣に彼はいなかった。
窓を叩く音がした。そちらを向くと手を振る彼の姿。なんだか少し安心してしまう。バーを回して窓を開ける。
「おはよう。よく寝てたね」
「ごめん……」
「いいよ、別に。疲れるのもわかるし」
着いたよ、と言われて車から降りた。古びているけれど背の高い建物の前に俺たちはいた。
「僕の家、ここの4階なんだ。エレベーターなんてないから階段だけど」
そう言って彼は大きな段ボール箱を荷台から取り出し、抱える。
「こっちの荷物も?」
荷台の上にはもう一つ段ボール箱が載っていた。そっと持ち上げてみる。ずっしりと重たい。
「そうだよ。でも重いしそのままでいいよ」
「いい、手伝う」
抱えてもやっぱり重い。空いたふたの隙間から中身が見えた。こちらの言葉で書かれた本のようだ。読み取れた単語を繋ぎ合わせてみる。どうやら歴史の勉強か研究でもしているらしい。
階段を一段一段登っていくと、金属を叩く甲高い音が響く。手すりの塗装は剥げて、赤黒く錆びた金属の色が見えている。まだ日は落ちていないのに薄暗いし、なんだか不気味だ。階段を登る速度を上げて彼の背中から離れないように歩いていく。
4階に着くと、彼は一度荷物を下ろして鍵を取り出し、ずいぶんと傷んでいるように見える扉を開ける。ぎい、と高いのか低いのかよくわからない音が鳴る。
「どうぞ。足元気を付けてね」
「うん」
彼に続いて部屋に入る。熱気が籠ってむっとした部屋の中は確かに散らかっていた。散らかっているというよりも、物が多い。物というか本が多い。彼の持っている段ボール箱の中も本のようだ。
箱と箱の間に本を置くと埃が舞い上がった。夕方の金色の光の中でくるくると踊る埃に見とれていると、彼に声をかけられる。
「手伝ってくれてありがとう。夕飯の準備しておくから、お風呂行っておいで」
「え、夕飯って」
「お風呂だけ貸して放り出すっていうのもなんだし、よかったら一緒にどうかな? というか、もうすぐ夜だし泊まっていきなよ」
ちょっと狭いけどね、と彼は笑う。ありがたいのは確かなのだけれど、果たしてここまで甘えていいものか。そう思ったけれど、タオルを手渡され背中を押され、仕方なくうなずく。
いってらっしゃいと言う声は穏やかで、なんだか落ち着かない気持ちになる。この感覚の意味はもうわかっていた。嫌だ、と思う。嫌だ。俺が何を思っても、どうせ叶えられる事なんてない。言葉にだってしてはいけない。
シャワーを浴びて戻ってくる頃にはすっかり夕飯が出来上がっていた。焼いた肉とフライドポテトの隣には平たい皿に盛られた白いご飯。そして漬物が添えられている。
「……久しぶりに見た気がする」
「この前友達が送ってくれたんだ。味噌を送ってもらうの忘れちゃったからお味噌汁はできないんだけど」
彼と向かい合って座る。本当にいいのだろうか、と思うけれど、彼が嬉しそうにしているからいいのかもしれない。知らない所で一人暮らし。寂しい事もあるだろうし。
「いただきます」
「いただきます」
箸は持っていなかったらしい。ナイフとフォークで食事をする。久しぶりに食べる白米の甘さが体に染み渡るようだった。
「はあ、やっぱり落ち着くなあ」
もうほとんど日が落ちている。窓の外に広がる空はくっきりとした青色。他の住人はまだ帰ってきていないのだろうか。やけに静かな部屋の中に広がった彼の声にうなずいた。
「こっちの食事も悪くはないけど、やっぱりまだ食べ慣れないから」
「そうだよね、なかなか。……そういえば、いつこっちに来たの?」
「二週間ぐらい前かな。やっと慣れてきたって所」
「いつまでこっちにいる予定なの?」
「俺が着いた所とは別で、西の方にまた大きい空港があるって聞いたから、そこに自力で行って帰る予定」
「ああ、なるほど。まだまだここからは遠いね……。今日はゆっくり休んでね」
「ごめん、なんというか、本当にお世話になって」
「いいよ。同じジョウト出身なんて何かの縁だし」
良い子だね。そう言って彼は俺に向かって手を伸ばす。突然頬を撫でられて困ってしまった。どうして俺にこんな事。いや、でも、こちらはこういうふうに触るのが普通みたいだし、なんでもない事なんだ、きっと。背中に走る痺れは知らないふりをする。気付かないふりをする。
「ねえ」
甘い声が耳をくすぐる。肩が揺れてしまったのは仕方がない事なんだと思う。
「君は、僕と同じかな」
「え……?」
「なんとなくそうかな、とは最初から思ってたんだけどね。赤くなってるし、合ってるのかなって」
ばれてしまった、という焦りもあるけれど、まず何を考えればいいのかわからない。僕と同じ。何が? いや、何がなんて疑問に思う余地はない。頬を撫でる手と、それに赤くなっていると指摘された事。つまり。
「なんで好きになるんだろうね」
彼はほんの一瞬眉を寄せて泣き笑いのような表情を浮かべた。けれどその表情はすぐに消える。ごめんねと彼は呟いて、俺の頬から手を離す。咄嗟にその手を掴んだ。
「……ダメだよ、そんな事しちゃ」
「どうして?」
「困るでしょう、君も僕も……いくら僕たちが同じでも、一目惚れなんて、ねえ」
彼は俺の手を振りほどく。優しげな仕草ではあったけれど、明確に彼の意志はわかった。それが自分でも驚くほどに突き刺さる。傷つくとはまさにこの事だ。
「ほら、ご飯冷めちゃうよ」
さっきまでのように、何事もなかったかのように彼は微笑み、箸を手に取る。
同じだと言ったのはそっちだろうに。
「俺も」
口元が歪んだ。苦々しい顔をしたのは、もう触れては欲しくなかったからか。
「俺も同じ」
あんたを好きになったのは同じ。そう告げた声が最後まで届いていたかはわからなかった。ほどかれて中途半端な位置に留まった手は情けなく震えていたし、視界も滲んでいた。誰かにこうやって好きだと言うのなんて初めてだ。
「別に、困らないだろう。あんたも俺も」
「……君はいなくなっちゃうのに?」
「今はこうして一緒にいる。今時手紙だってメールだってある」
実はメールのやり方なんて知らないのだけれど、知っているふり。これから覚えればいいだけの話。
「名前を教えてよ。それから、住所とアドレスも」
笑ってしまう。名前も知らないままここまでついてきて、こうして向かい合って食事をして、なんて。
「俺はハヤト」
「……僕は、マツバ」
箸を持つ彼の手を掴む。まずは挨拶だ。ぐっと力をこめて手を握る。ここでは握手から始まるものだと聞いたから。
「マツバ。絶対手紙書くからな」
戸惑い気味の彼の手がゆるゆると俺の手を握り返す。彼は顔を上げて俺を見た。そして息を吸って、困ったように眉を下げる。不安になったけれど、彼は力の抜けた声を上げながら笑ってくれた。
「ありがとう、楽しみにしてるよ」
ハヤト。そう呼ぶ優しげな声に心臓が高鳴っていく。
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