第三次成長期

 彼は机に頬をぺたりとつけて、大きなあくびを一つした。

「夕飯作るのめんどくさいなあ」

 僕は新聞をめくる手を止めた。

「珍しいね」

 彼は料理が得意だ。得意だし、どうやら嫌いではないようだから、僕は毎晩のように彼の手料理にありつける。それでも、なんで俺ばっかり、なんて不平を漏らす事はなかった。手伝え、とはたまに言われるけれど。

「最近ずっと眠いんだよ……気温もちょうどいいし」

 夏はとっくに過ぎ去って、金木犀のいい香りがする時期になった。布団が恋しくなる季節だ。僕もなんだか眠たい毎日を過ごしている。

「今日は早くご飯食べて寝ちゃおうか」

「そうする。……ああ、でも何にしようって話だな、夕飯」

「何作るつもりだったの?」

「さんま焼くつもりだったんだけど、今日はそれも面倒だ」

 突っ伏した格好のまま、彼は目を閉じる。はー、と深い溜め息付きだ。本当に珍しい。こんなに気だるげな彼を見る事なんて滅多にない。もしかしたら初めてかもしれない。

「じゃあ、出前でも取る?」

 片手を伸ばして彼の髪をわしゃわしゃとかき回しながらそう言うと、彼はぱっと体を起こす。

「あ、それいいな、たまには。マツバは何が食べたい?」

「出前だよね……、実はほとんど取った事ないんだよね、僕」

「俺も。親戚が集まる時の寿司ぐらい。それももう何年前だろう」

 うーん、と額をつきあわせるようにしながら考える。残念ながら思いついたのは僕もお寿司ぐらいで、他には全く浮かんでこなかった。どうしようか、と思いながら新聞をめくる。経済面。中高年をターゲットにしたサービスが好調、と見出しが載っている。ジムリーダーには関係ないもんなあと頭の中で呟き次のページへ。可愛らしい女の子が嬉しそうに笑っている全面広告。彼女の頬には赤い印。なんだろう、と思い、よく見るとそれはどうやら。

「あー」

 ひらめく、とはまさにこの事。僕が漏らした間抜けな声に彼が反応して、僕と同じように新聞に目をやる。どうやら彼も気付いたようだ。おー、と彼の口からも感心したような声が漏れる。

「どうかな、ピザ」

「いいんじゃないか? 俺は賛成」

 女の子の頬についていたのはトマトソースだった。手にしているのはチーズがたっぷり乗った薄いピザ。電話一本ですぐにお届け、らしい。頼んだ事はないけれど、街中でバイクをよく見かけるからなんとなく想像はできる。

 彼は顎の辺りに手をやって首を傾げる。そして立ち上がり、玄関の方へ歩いて行った。彼の背はあまり高くない。そして痩せ型だ。それに伴って体重も軽い。床の上を歩いていく足音も軽く頼りない。

 新聞の投書欄を読みながら待っていると、ハヤトはチラシを手に帰ってきた。一面にピザの写真が載ったチラシ。

「ちょっと前に新聞に入ってたんだ。これから選べばいいんだよな」

「そうだと思う。でも、こんなに種類あるものなんだね。どれがいいんだろう」

 マルゲリータ、コーンマヨ、シーフード、ポテト。横文字ばかりで頭がくらくらしそうだ。

「せっかくだから半分ずつになってるやつにしよう。俺、エビマヨ食べたいな。マツバ、あと一つ」

「うーん、どれがおいしいかな。……えっこれパイナップルなんて乗ってるの?」

「ピザにパイナップル……」

 想像がつかない、と彼は恐ろしいものでも見たかのように体を震わせる。

「それはやめよう」

「そうだね」

 名前の横に書いてある詳細を見ながら考える。マヨネーズはエビマヨとかぶってしまうからやめよう。コーンとポテトは選択肢から外す。それからシーフードも今回はなし。となると、ソーセージ系か野菜を中心にしたものか。……照り焼きチキンは論外。

「よし、マルゲリータにしよう。シンプルなやつ」

「マルゲリータとエビマヨな。あと飲み物はどうしよう」

「せっかくだしコーラでも飲んじゃおうか。付け合わせのは何か欲しい? ポテトとか」

「ピザだけでも結構量ありそうだし、まあいらないんじゃないか」

「じゃあなしで。ピザとコーラだね」

 頼んでくる、とハヤトはチラシを持って部屋を出た。この家の玄関には今時珍しい黒電話が置かれている。ダイヤルを回す音が聞こえて、それからたどたどしく注文をする彼の声。あの、エビマヨとマルゲリータを、えっと、ハーフアンドハーフで。えっ、サイズですか?

「マツバー! サイズMかLかどっちだって」

「二人だしMでいいと思うよ!」

 わかった、と返事があった後会話の続きが聞こえた。はい、はい、あっそれからコーラも二つ。慣れない事に少し緊張しているのがわかって、つい新聞で顔を隠して笑ってしまった。

「30分ぐらいで来るって」

 彼は一仕事終えて安心したのか、機嫌がよさそうに戻ってきた。時計に目をやって、あと30分、ともう一度呟く。




 ちょうど30分経った頃、玄関のチャイムが鳴った。彼はぱっと立ち上がり、準備してあったお金を持って玄関へ向かう。多分本人は気づいていないのだろうけど、普段にはない出来事が楽しいらしい。待っている間もずっとそわそわしていた。

 新聞を片付け、台拭きで机の上をさっと拭く。コップを持ってこようとしたけれど、今日は必要ないかと思い直す。

「来たぞー」

 両手で大きな箱を支え、腕にコーラの缶が入った袋を抱えながらハヤトが部屋に入ってくる。ピザの箱を受け取ると、当然だが、大きさの割に重さは感じなかった。机の上に置き、彼からコーラの缶を受け取る。

「よし、開けるぞ」

 紙の蓋を開けると、ほのかにすっぱい香りが漂う。こんがりと焼けた生地を覆うトマトソースとチーズ。それからハヤトのリクエストした、マヨネーズのかかったエビがいくつか。

「皿いるか?」

「うーん、いらないや。今日はお行儀悪く行こう」

 コーラの缶を開けると空気の抜ける音がした。コップは使わず直接口をつける。慣れない炭酸にむせてしまわないように少しだけ口に含む。ほんのひと時暴れた液体は喉の奥へと吸い込まれる。甘い。

「いただきます」

 彼はピザを一切れ手に取った。口を開けて齧りつく。そしてはっとした顔をすると、噛み千切ったピザをもぐもぐと咀嚼し飲み込んだ。そして手に持ったピザを眺める。無防備な表情のせいでいつもよりも更に幼く見える。

「ハヤト、マヨネーズついてるよ」

「……あ、ああ」

 唇の端についたマヨネーズを指さすと、彼はびくりと肩を揺らして返事をし、指で口元を拭う。我に返った、という様子。

「そんなにおいしかった?」

 まさかと思いながら尋ねてみると、彼は大きくうなずいた。そして手に持っていた一切れ目のピザをあっという間に食べきると、二枚目のピザに手を伸ばす。さすが食べ盛り。二切れ目のピザもたちまち吸い込まれていく。そこでコーラを一口。思っていたよりも炭酸がきつかったのか、眉を寄せてしかめっ面。

 おもしろいなあ、と一切れ目のピザを齧りながら考える。輪切りのトマトとチーズの塊を落とさないように口に入れる。トマトの酸味とまろやかなチーズが混ざりあう。バジルの香りに馴染めるかどうか心配ではあったけれど問題はない。たまにはこういうのもいいな、と思っている間に、ハヤトの三切れ目のピザは半分に。

「ハヤト」

「んー」

「僕、三切れぐらいでいいから。後は食べていいよ」

「えっ、いいのか?」

「いいよ。食べ盛りなんだからたくさん食べて大きくなりなさい」

 そう言うと途端にハヤトは顔を上げて、むっとした顔をする。頬にトマトソースをつけて。

「それ、俺が小さいって事?」

「そうじゃないよ。あー、健康に育ってねって事」

 ティッシュでトマトソースを拭ってやりながらそう答える。やっぱり子供扱いしてる、とぼやきながらも三切れ目のピザを食べ終わったハヤトは四切れ目に手をつける。素直なのはいい事だ。

「たまにはいいね、こういう食事もさ」

「うん。おいしいし、楽だし」

「でも明日は肉じゃがが食べたいな」

「……来る時糸こんにゃく買ってきてくれるならいいよ」

「わかった。忘れないようにするよ」

 ピザは確かにおいしいし、コーラもたまにはいいなあと思うけれど、やっぱり食べ慣れた和食が恋しくなってしまう。

「おでんも食べたいな……」

 そう呟いたけれど、最後の一切れをくわえているハヤトはうなずいただけだった。本当によく食べる。成長期というやつだろうか。その割にあまり身長は伸びていないような気もするけれど。……ハヤトの方が僕よりも大きくなったらどうしよう。それでも変わらずにこうして一緒に食事をしたり、話したり、並んで歩きもするのだろう。だけど視線が合わせやすくなるだとか、近くで顔が見られるとか、少しずつ違いがでてきそうだ。うまく想像できないけれど。

「ごちそうさま」

 ピザを完食したのを見届けて、二人揃って手を合わせる。紙箱はつぶしてゴミ箱へ。コーラの缶は洗って流しに置いておく。台拭きで机の上をさっと拭いて片付けは終わり。机を挟んで向かい合って、溜め息をつく。片付けもこれだけでいいなんて本当に楽だ。楽だけど。

「……マツバ」

 名前を呼ばれてハヤトの方を見ると、彼は机の上で組んだ指をもぞもぞと動かしながら、俯いたまま呟いた。

「おでん食べたいって言ってたよな」

「うん。また今度食べたいな」

「いや、その……」

 組んだ指が解かれる。そして両手の人差し指同士を軽くぶつける。何か言いたい事があるようだけど躊躇っているらしい。顔を覗き込もうとすると、思い切ったように彼は顔を上げた。

「ポテトも食べたくなってきた」

「えっ?」

「いや、いらないだろうって話したのは覚えてるんだけど……そう話した事思い出したら食べたくなってきて……」

 どうやらまだまだ食べたいらしい。若いってすごいなと考えて、同時に自分はもう若くないのかと思ってしまい少し落ち込む。

「マツバもおでん食べたいなら、ちょうどいいかと思って」

 今は別にいらないし、食べたいのはハヤトの作ったおでんなのだけど。そう思ったけれど、彼が期待に満ちた目でこちらを見ているからそんな事は言えない。僕は机に手をつき立ち上がる。

「そうだね、コンビニ行こう」

 その言葉に彼はぱっと嬉しそうな顔をした。上着取ってくる、と言い残すと部屋を飛び出していく。その足音は相変わらず軽い。少し心配にもなるけれど、なんだか可愛らしくて微笑ましい。小さな手も、僕を見上げる仕草も。

 上着を羽織り、玄関へ向かう。僕よりも先に靴を履いていた彼の頭をぐりぐりと撫で回す。嫌そうな声を上げるけれど、聞こえないふりをした。

「あんまり大きくならないでね、ハヤト」

「え、嫌だよ。なんでだよ」

 お腹のあたりを肘で小突かれる。不満そうな彼に、内緒だよ、と微笑んで見せた。

(END)
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