ひつじの夢

 枕に耳を付けると一階から人の歩く音が聞こえてくる。俺が二階で寝ている間に誰かが一階で動いているというのは随分と久しぶりの事だった。父さんは何年も前からいないし、俺はいつもマツバよりも早起きだし。

 水を流す音が聞こえてくるから、食器を洗ってくれているのだろう。昨日の夕食から丸一日食器を洗っていなかったと思い出す。ただもう頭が痛くて、目眩もして、でも何か食べないといけないと思ってなんとかうどんを茹でて、味もよくわからないままに食べて……そこからの事はあまり覚えてないけれど、どうやら着替えて布団に入ったらしい。熱を持った手のひらに、寝間着の生地の感覚が微かに残っている、気がする。

 溜め息をついて息を吸うと、空気が喉をざらりと撫でていく。目を瞑って咳を繰り返す。涙が滑り落ちていくのがわかったけれど、別に寂しいわけでも悲しいわけでもなかった。喉は痛いけれど別に泣くほどではない。単に熱のせいだった。こんな風に簡単に涙が落ちるほどの熱なんていつ以来だろう。今、どれぐらい熱があるんだろう。体温計は枕元に置いてあるはずだ。体温計を取ろうと布団から手を出した瞬間に冷たい空気が入り込んできて思わず手を引っ込めた。布団の中で体を丸める。背骨のあたりから寒気がどっと押し寄せてきて、体が震える。吐き出す息が震える。涼しくなってきたとはいえ、寒い時期ではないのに。思っている以上に熱は高いのかもしれない。

 そのまま体を丸めていると、寒気はゆっくりと去っていった。少しずつ体を伸ばして、いつもの格好に収まる。その頃にはずっと枕に押し付けていた耳が痛くなっていた。布団を捲ってしまわないように気を付けながら体を反転させる。肘と膝が痛んだ。

 反対の耳を枕につけると、いつの間にか水道の音は止まっていた。代わりに包丁がまな板に触れる音がする。何か作ってくれているのか、自分のために作っているのか。申し訳ない、とぼんやりとした頭で考える。別に俺が作ると決まっているわけではないけれど、マツバが家に来る時は俺が食事を作る事が多いから。カレーが食べたいと言っていたから、今度来る時はカレーを作ろうと思っていたのに。

 元気になったらカレーを作ろう、と頭の片隅にメモをする。ニンジンと肉を買ってこないと。そんな事を考えているうちに眠気がやってきて、俺は目を閉じた。今は眠るに限る。早く治さないと。ジムの仕事もあるのだから。そんな事を考えながらうとうととしていた。夢を見たような、見ていないような。微睡みは額に触れた冷たさで散らばって消えた。思わず体を震わせる。わ、と慌てた声がした。

「起きてた?」

「……うん」

「寝れない? 大丈夫?」

 大丈夫、と答える声は掠れていた。マツバが眉を寄せたのが暗さに慣れた目には見えた。はぐらかすように俺は尋ねた。

「今、何時?」

「さっき10時になった所。ポッポたちは大人しく寝てるよ」

 マツバの手のひらは俺の額にずっと触れている。冷たいはずのマツバの手はすっかり温まって、溶けてくっついたみたいに境目がわからなくなっている。

「熱」

「ん?」

「下がるかな」

 そう言った途端にマツバが噴き出したのがわかった。馬鹿な事を言った自覚はある。けれど、だって。

「笑うな」

 元気だったら頭を叩いてやるぐらいはするけれど、そこまでの気力はなかった。

「ごめん。だってやけに弱気だから……まあ、弱気にもなるかな。これは」

「どれぐらいある……?」

 マツバが枕元の体温計を取り上げる。かちゃりと音が鳴る。差し出された体温計を指先だけ布団から出して受け取り、脇に挟む。それだけの動きが辛い。走った後のように息が上がっている。

「ひどい、としか。僕、こんな熱出した事ないよ」

 全く、とぼやきながら、マツバは濡らしたタオルで額を拭ってくれた。

「昨日の時点で休むなり早めにジムを閉めるなりするべきだったんだよ。ツバサ君もショウタ君も心配してたし、落ち込んでたよ。もっと強く言うべきだったって」

 体調がよくない事を自覚したのは一昨日の昼頃。体調が悪いと自覚したのは昨日の朝。それから体調は悪くなる一方だったけれど、なんとかこらえた。まだなんとか耐えられる、頑張れる。そう思って乗り切った。何度かツバサやショウタに心配されたし、今日はもうジムを閉めようとも言われたけれど、聞き入れる気はなかった。そしてその結果がこれだ。馬鹿だなあと思うけれど、同じ状況になっても俺はまた同じ事をするのだろう。

「……ちゃんと謝っておく」

「当然です」

 先生のような口調に思わず笑ってしまう。声は出なくて、息の音しか聞こえなかった。代わりにぴぴ、と電子音が聞こえた。体温計を取り出してマツバに渡す。彼は体温計の画面を何度か傾けて、それから息を飲み、そして溜め息をついた。

「こんな時間にやってる病院なんてないよなあ……」

「そんなに?」

「そんなに」

 マツバは俺の腹のあたりを布団の上からそっと撫でる。その手つきがやけに優しくて、心配されているんだな、と思った。本当はよくない事だけれど、それでなんだか満たされてしまう。

「何か食べるか聞きに来たんだけど、無理そうだね」

 うなずく。確かに食欲は全くない。丸一日何も食べていないわけだから、体にはよくない状況だとわかってはいるけれど。体を起こす気力もないのに何かを食べるだなんて無理な話だ。

「明日起きたら病院連れて行くよ」

「マツバは……?」

「大丈夫。今日はこっちに泊まっていくよ」

 だから安心していいからね、と彼は頭を撫でてくれた。大人の顔だ。少し悔しい。だけど俺が言いたいのはそういう事ではないのだ。

「ジムは」

 そう言いかけた所で咳き込んだ。しゃべったせいだろうか。咳はなかなか止まらない。喉が裂かれるように痛かった。熱のせいもあってまたぽろぽろと涙がこぼれた。マツバは慌てたように言う。

「心配しなくていいから、もう寝てないとダメだよ」

 休むつもりだったのか、遅刻するつもりだったのか。俺は首を横に振ったけれど、マツバも同じように首を横に振って無言で俺を叱る。それでもまだ眠ろうとしないせいだろうか。彼は諦めたようだった。

「病院連れて行ったら、すぐにジムに戻るから」

 だから、と言う彼の眉は困ったように下がっていた。なんだか可哀想になってしまって、わかった、と呟いた。途端にほっとした顔をするから笑ってしまう。落ち着いているように見えて、意外と表情がよく変わる事を俺は知っている。

「いい子だね」

 ここまで子供扱いされるほど、年は離れていないのに。文句を言ってやろうとしたけれど、頭を撫で続けている手の心地よさに、忘れていた眠気が一気に戻ってきた。瞼が勝手に落ちてきて、彼の姿を隠してしまう。それがなんだか寂しくて、ぼんやりと薄れていく意識の中で彼の名前を呼んだ。そうしたら、何かが俺の瞼に触れた。冷たいものだった。マツバの手の温度だ、ともうすぐにわかる。瞼の向こうには変わらず彼がいてくれる。随分と久しぶりにここまで安心したような気がした。本当は寂しかったのだ。眠っている間も、ずっと。

 おやすみ、と囁く声を聞いたのを最後に俺は眠ってしまった。ふわふわと温かい夢を見た。

(END)
1/1ページ