葉月のある日

「あ、ハヤトの日だ」

 カレンダーの前を通り過ぎる直前に足を止めて、マツバはそう言った。

「ハヤトの日?」

 俺はスプーンでカルピスを混ぜながら問い返す。俺の日とは一体何だろう。別に誕生日でもなんでもないのに。

「今日、8月の10日でしょ。『8』が『は』でさ、『10』が『とお』。だからハヤト」

「……言われてみればそうだけど」

 コップから取り出したスプーンを口に含む。甘さと酸味が広がってすぐに消える。作る人だけが味わえるこの瞬間が好きだ、と、父さんが言っていた。俺も同じくだ。

「夏ってなんだかハヤトに似合う気がする」

「うーん、まあ、確かに夏は好きだけど」

 氷を二つずつ入れる。氷同士がぶつかって涼しげな音を立てる。毎日嫌になるぐらい暑いし、日焼けすると痛いし、汗もかくから気持ち悪いし。でもこうやってちょっとした事で、夏だなあ、と感じる瞬間は嫌いじゃない。それに、空を飛んでいて一番気持ちいいのは夏なのだ。

 両手にコップを持ち、先に縁側に腰掛けていたマツバの隣に座る。はい、と短く声をかけると、ありがと、と同じように短い言葉が返ってくる。水面が揺れてまた氷が鳴る。

「暑いね。……でもそういう時に飲むからおいしいんだよね、これ」

 マツバが差し出したコップに自分のコップを軽くぶつける。乾杯。何にかはよくわからないけれど。

 太陽は高い位置にある。屋根が日射しを遮って、ここは幸いな事になんとか日陰になっている。お世辞にも涼しいとは言えないけれど、日射しの中にいるよりは遥かに快適だ。喉に流し込んだカルピスの冷たさも相俟って、だんだん体が冷えていく。

「そうか、ハヤトは夏好きなんだね」

 足をぶらぶらとさせながらマツバは呟いた。気の抜けた仕草にごまかされてしまいそうになった。でも、ハヤトは、とマツバは言った。それだけといえばそれだけ。だけど、聞き逃してしまってはいけない言葉のような気がした。

「マツバ、夏弱かったっけ?」

「弱くはないよ。暑いのは苦手だけどね」

「じゃあ、嫌い?」

「嫌いって事もないかな」

 もう一杯飲みたい、とマツバは空のコップをのぞきこんだ。俺はそのコップを受け取り、台所へ向かう。冷房は入れていない。湿気を吸い込んだ床と足の裏が触れてぺたぺたと音を立てる。

 夏とはどんな季節だっただろう。別に弱くも嫌いでもないのに、マツバが好きになれない理由。何かあっただろうか。もしかしたら単にそれほど好きではないというだけなのかもしれないけれど、それだけならわざわざあんな風に口に出しはしないはずだ。……でも、そう思う一方で、やっぱり取り立てて気にする必要のない事なのではないかとも思う。なんとなく引っかかるというだけの話で。

「どっちだろう」

 その呟きは流しの中に微かに響いて消えた。

 さっきと同じようにスプーンを回す。水面がぐるぐると回る。ほんの少し動いただけなのに汗がにじみ出てきた。コップに氷を放り込み、顔を洗おうと洗面所へと向かう。壁に貼られたカレンダーが視界に映った。その中に見慣れない色を見つけて顔を近づける。10日に赤ペンで丸がつけられていた。その横には小さく『ハヤトの日』と書いてあった。自分で書いた覚えはない。ポッポ達には文字は書けない。つまり、犯人は一人しかいないのだ。

 溜め息をつき、日付を囲む丸を指先でなぞる。10日。8月ももう半分を迎えようとしている。もうすぐお盆が来て、慌ただしく去っていって、いつの間にか次の月へ。そうして夏は終わっていく。そう考えて、はっと気が付いた。……確かに彼は憂鬱になるかもしれない。俺にはわからないけれど。わかってあげられないけれど。

 カレンダーから手を離し、予定通り洗面所に向かう。冷たい水で顔を洗って、掛けてあったタオルで雑に拭いた。そして階段を駆け上がる。前にマツバが忘れていった麦わら帽子を手に取る。それから自分の分も。揃いの形だけど、俺のものの方が少しだけ小さい。その小さい方の麦わら帽子をかぶって階段を駆け下りる。玄関で草履とサンダルを拾い、廊下を走り、マツバのいる場所を目指す。

 マツバのいる縁側へと繋がる部屋の扉を開ける。俺の足音と突然開いた扉に驚いたのだろう。何故か手を中途半端な高さまで上げて、ぽかんと口を開けていた。

「ひまわり」

「は?」

「ひまわり見に行くぞ」

 麦わら帽子をマツバの頭に乗せ、上から片手で押さえつける。

「今が見頃だって聞いたから、自然公園」

「それは知ってるけど……なんでいきなり」

「見に行きたかったんだ。付き合ってくれ。俺の日だろ?」

 カレンダーに落書きした罰だ。そう言うとマツバは麦わら帽子を少し持ち上げ、気付かれたか、と零す。

 夏は太陽が強くて眩しくて、生き生きとした季節に見えるけれど、それだけではない。それは俺だってなんとなくわかっている。夕焼けの色が、蝉の声だけが響く街角が、どこか寂しく感じる季節。その寂しげな印象に関わってきているのかは知らないけれど、もういない人が帰ってくる季節でもある。悪いものばかりが帰ってきているとは思わないけれど、いいものばかりが帰ってきているとも限らない。

 そのよくないものがマツバにどんな影響を与えるか詳しくは知らないけれど、いい影響ではないのだろうと予想はつく。でもそれでどうしてひまわりを見に行こうと思ったのかはよくわからない。ただの思いつきと勢いかもしれない。太陽の下のが元気が出るだろうって。よくないものも逃げていくだろうって。そんな事でどうにかなる問題だとは思えないけれど、これが正解だと思った。

 俺は縁側から降りて、放り投げた草履を履く。ん、と手を伸ばすとマツバは困ったような顔をしたまま俺の手を取る。手を引いた。マツバの軽い体はあっさりと持ち上がり、勢い余って転びそうになる。

「わ」

 なんとか踏みとどまり、彼は溜め息をついた。

「……本当にハヤトは」

 そう呟いて帽子の上から俺の頭を撫でる。叩くみたいな雑な仕草。さっきの俺みたいに。視界には太陽の光をはね返して眩しい地面とマツバの青白い足が映る。白い土の中にそのまま溶けていってしまいそうな気がして、繋いだ手をぎゅっと握る。苦笑いの声が聞こえて、彼はぱっと手を離す。顔を上げると、足元に視線を落としてサンダルに足を引っかけるマツバの姿。

「ばかな子だね」

「バカってなんだよ、失礼だなあ」

「褒めてるんだよ」

 ちっとも褒め言葉には聞こえない。文句をもう一つ言ってやろうかと思ったけれど、マツバがあまりにも優しい表情をしているから、何も言えなくなってしまった。今度はマツバが俺の手を引いた。日射しの中にもう一歩。太陽の光をいっぱいに吸い込んだ空気は熱くて息が苦しい。

「いい事あるかな」

 ハヤトの日だし、と彼は呟いた。

「いい天気だし、ひまわり綺麗だよ、きっと」

 俺の日だし。マツバを見上げてそう言うと、彼は微かに笑い声を立てて、そして大きくうなずいた。

(END)
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