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陽炎

 冬が終わり、春の始まりを乗り越えた。そして夏がやってきた。外からはじわじわと鳴く虫の声がひっきりなしに聞こえている。強い日差しで温められた空気が体にまとわりついて、体の中に入り込んで、息苦しい。

「これがマツバ」

 そう言って彼は僕の前に写真を差し出した。写真の中には、縁側に座り、こちらを見ながら照れくさそうに笑う『マツバ』の姿があった。

「俺はカメラなんて持たないから、ほとんど写真はないんですけど。これだけ何かの機会に撮ったみたいで」

 二人で写った写真もないんですよ、と呆れているような嘆いているような、そんな声で彼は笑った。

「だから、もしかしたら、マツバと俺が……恋人同士、だなんて、俺の妄想なんじゃないかって思う時があるんです」

 妄想なんかじゃないと思うよ。写真の中で、君の方を見て、笑っているでしょ?

「……この写真を俺が撮ったっていう保証もないんです、もう。もしかしたら誰か他の人が撮ったのかもしれない。それを俺がもらったり、盗んだりしたのかもしれない」

 だけど、君の家で撮ったものだよね。そこの縁側で。

 僕は障子の方を指差す。開かれた障子の間から、庭に差し込む眩しい日光と、それとは対照的に陰になり涼しげな縁側が見えた。写真とは違う角度だけど、僕はこの写真が間違いなくあの場所で撮られたものだと知っていた。うまく撮れてるだろ、と言いながら、嬉しそうにこの写真を取り出して眺める彼の姿も知っていた。

「そう、ですね。うん。俺の家で撮ったみたいです、これ」

 よかった、と彼は零す。そして写真の『マツバ』の顔のあたりを指でそっとなぞった。

「仲は良かったみたいですね、マツバと俺。そういえばエンジュは隣町だし、割と年も近いし、当然といえば当然かも」

 彼は片腕で膝を抱え、膝に顎を乗せた。日の暮れた後の空に似た、澄んだ青の目が写真を見つめる。見つめているように見える。どこか別の場所を、別のものを見ているのかもしれない。

 何を見ているの? そう聞いてみたくなった。だけど聞いてはいけないのだと知っていた。前にそう聞いた時、聞いてしまった時、彼がどうなったかを僕は忘れない。忘れられない。きつく耳を塞いで、目を閉じて、うずくまって震える彼の姿。声も届かない。触れても応えない。まるで僕がいなくなったみたいに。彼がいなくなってしまったみたいに。思い出すだけで目眩がした。暑さのせいではない汗がじわりと背中を濡らしていく。

「それでも、本当に特別な関係だったのかって不安になるんです。俺が勝手に思い込んでいただけなんじゃないかって、どうしても考えてしまうんです。なんだか全部ぼんやりとしていて」

 ちょっと疲れているんだよ。そう言って僕は彼の言葉を遮った。そういう事にしておかないと。思い出せないという事を思い出してしまわないようにしておかないと。でないと、また苦しむ事になってしまう。彼も、僕も。

 昼寝でもしようか。そう言って茶化すと彼は笑った。親しげな笑顔だけど、『マツバ』に見せていたのとは違う。それが僕にははっきりとわかってしまう。あの日々が続いていたとしたら幸せな事実。だけど今となっては、ただ悲しいだけの事実。

「マツバにそっくりですね」

 息を飲んだ。思い出してくれるかもしれない。咄嗟にそう思った。心の奥から期待がじわじわと湧き上がる。僕の事を忘れてしまってから初めて言ってくれた。僕が『マツバ』にそっくりだって。ねえ、思い出してよ。どうして僕が『マツバ』にそっくりなんだと思う?

「そうは見えないくせに意外とのんびりしている所がそっくりです。それから顔も、髪型も」

 彼はそう言いながら膝を抱えたまま体を傾ける。畳の上に転がり、そして足を伸ばして横になる。

「声も似てるんです。あと、名前も一緒ですよね」

 そう。そうだよ。だから。僕が。 

「……帰ってきたみたい」

 あの写真が彼の手から離れるのが見えた。縋り付くように伸ばされた両手は、僕に届く前に床の上に落ちる。

「マツバが帰ってきたみたい」

 頭を撫でようとした。いつも僕がしていたみたいに。だけどその手は彼に届く前に止まってしまった。彼は僕を見ていた。射抜くような鋭い目で。

 触るな、と目が語っていた。『マツバ』以外、誰も触れるな。けれどもその鋭さは、瞬き一つの後には消える。伏せられた目は虚ろ。

「もう帰ってこないんです。知ってるんです」

 どうして、という言葉が零れた。どうしてそう思うの? そう尋ねてもきっと彼は答えない。答えられない。言葉にできるだけの根拠はないから。

 彼が僕を『マツバ』だと認識できなくなったのは夏の始めだった。梅雨が明けようとしている頃だった。

 夢を失ってしまった後の事。冬の間の出来事を、僕はあまり覚えていない。一応仕事はしていたけれど、生きてはいたけれど、心は完全に凍りついたままだった。ぼろぼろになりながら、それを解かしてくれたのはハヤト。春の始めの話だ。僕は少しづつだけど元気を取り戻して、梅雨が始まる頃にはなんとか今まで通りの生活をしていけるようにはなっていた。そして、僕が元気になったのだから彼ももう心配事はないだろう、なんて考えていた。これからは心配かけないようにしなくちゃ、なんて、呑気な事を。

 蒸し暑い日だった。頭上の厚い雲が、溜まっている雨粒を最後に全部絞り出そうとするかのように、ひどく雨が降っていた。いつの間にか眠っていたハヤトを残して、僕はエンジュに帰った。洗濯物を取り込んで、ついでに窓が閉まっているかを確かめて、すぐにキキョウに戻るはずだった。だけど雨はますますひどくなるばかりで、ほんの数歩先ですらまともに見えないような状態で。小降りになるまで待とう、と考えた僕は居間にいた。雨が降って薄暗い部屋の中、壁にもたれて……そうして、馬鹿な僕は眠ってしまった。目を覚ます頃には雨はすっかり止んでいた。慌てて家を飛び出してキキョウに向かった。心配かけちゃったかな、なんて、やっぱり僕は馬鹿だった。どこまでもどうしようもない馬鹿だった。

 彼の家に着いて、玄関の扉を開けた。彼は廊下に立ち尽くしていた。ただいま、ごめんね。そう僕は声を掛けた。

 どちら様ですか。表情を無くして淡々とそう呟く彼の声が今も耳から離れない。静まり返った家の中。ただ、彼の目から零れた涙が床に落ちる音だけが微かに聞こえていた。

 一時的にとはいえ、僕が黙って彼の傍を離れてしまった事。それが引き金だった。僕がまた心を閉ざしてしまう時が来るかもしれないとずっと彼が怯えていた事を、僕はこれっぽっちも知らなかった。その結果が今。だから、思い出してもらう事を望むなんて本当はおかしな話なのだ。全部全部僕のせいなのだから。

「仲がよかったかどうかもわからないぐらいなのに、俺はずっと待っているんです」

馬鹿みたい、と彼は眠たげな目で笑う。そしてゆっくり目を閉じた。寝息の音が聞こえてくるまではそうかからなかった。顔に浮かんでいるのは穏やかな表情。僕は思わず手を伸ばした。頭を撫でる。これが彼の望んでいない行動だとは知っていた。

そうか、とわかってしまった僕がいた。彼はもう、『マツバ』がいなくなる事に怯える事はなくなった。いなくなってしまった『マツバ』の存在は彼の中でどんどん曖昧になっていって、いつかは消えていく。エンジュにいたのは初めから僕。隣町で、年が近くて、ジムリーダー仲間のマツバ。何もおかしい事なんてなく、彼の世界は回っていく。

唾を飲み込む。そして口を開いた。彼の幸せのために僕が一番望まない事を望む事が必要なら、僕はそうしなければならない。

彼の耳に口を近づける。言わなければならない事があった。彼に。僕に。

「……僕の事は忘れてね。それから、もう僕の事、好きになっちゃダメだよ」

さよなら。そう呟く声は震えていた。

(END)
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