雨に隠す

 今日は朝から雨が降って、どんよりとした嫌な天気だった。肌寒さを感じた僕は席を立つ。

「ミナキ君、コーヒーいる?」

「ああ、ありがとう」

 窓際に座りメールを確認するミナキ君に声をかけると、彼はパソコンの画面から顔を上げずにそう答えた。僕は食器棚を開き、マグカップを二つ取り出した。彼のすみれ色のカップと僕の濃い紫のカップ。僕のカップの隣には水色の小ぶりなカップが置かれている。このカップの持ち主は現在仕事中だ。いつもなら僕も一緒だけど今日は特別。別の所で打ち合わせがあったのだ。

 コーヒーをマグカップに注ぎ、彼の分にはミルクと砂糖を少しだけ入れた。結構な時間メールチェックをしているから、そろそろ疲れてきた頃だろう。僕の分にはミルクだけを入れた。それなりに疲れてはいるけれど、甘いものが欲しいという気分ではなかった。

「メール、そんなにたくさん来てるの?」

「ああ、前よりずっと増えた」

 コーヒーの入ったカップを渡す。彼は目を瞬かせながらそれを受け取った。目が少し赤くなっている。目にいいのは……ブルーベリーだったか。今度ジャムでも買ってきて冷蔵庫に放り込んでおこう。

「つまり、それだけ仕事のチャンスが増えてるって事だよね。軌道に乗ってきたってやつ?」

「うーん、まだまだ軌道に乗ったというほどではないかもしれないな」

 これからが重要だ、と彼は呟く。そしてコーヒーを一口飲むと微笑んだ。

「でも、右肩上がりなのは間違いない。……みんなのおかげだな」

「光栄です、社長。そう思うなら、お給料を少し上げてはくださいませんでしょうか」

「馬鹿言え。まだそんな余裕はないぜ。もっともっと仕事を取ってきてからだ」

「はいはい」

 返事は一度だ、とたしなめる声は無視して、今日届いた郵便物に目を通す。ただのダイレクトメールはゴミ箱へ。それ以外のものは丁寧に開けて中身を確認。オーディションの案内がいくつかあった。送る写真は早めに決めておかないと。意外と時間はないものだから。最近は前ほど緊張もしなくなったみたいだし、いい所まで行ければ……いや、合格、できればいいけれど。

「なあ、マツバ」

 ミナキ君の声がいつもよりも低かった。珍しい。何かトラブルだろうか? 思わず姿勢を正す。

「どうしたの?」

 問い返す僕の声も少し硬い、と自分でもわかった。

「ハヤト君の目標は、覚えているか?」

 そんな事か、と肩の力を抜く。何があったのかと焦ったのに。なんだか騙された気分だ。

「お父さんに見てもらいたい、だったね」

 旅に出ている父さんに、私の姿を見てもらいたいんです。初めてここに来たあの日、緊張しているのか時折言葉を詰まらせながら、それでも力強い目で彼女はそう言った。たとえば父さんが立ち寄った店のテレビとか、偶然流れていたラジオとか、本屋の店先とか。そういう場所で私の姿を見てほしい。声を聞いてほしい。そうしたら、私が元気だと伝えられるから。

 まず目についたのは、片方だけが不自然に長いぼさぼさの前髪。服にも髪にもあまり構ってはいない様子だった。顔はそれなりに可愛いけれど、それだけといえばそれだけ。だけどミナキ君は、彼女に来てもらおうと言った。僕も異論はなかった。決して下がる事のない眉と空の色をした目。それがどうしてか妙に気になってしまって……気になってしまって、今に至る。

「そうだ。そしてここに所属してもらうという事は、私たちが彼女の夢を叶える手伝いをするという事だ」

 どうして今更こんな事を。そう思いながらも、僕の心臓がやたらと音を立てている理由。指先がわずかに冷えた理由。……まさか、知られていた? 隠しきったはずだ。彼女本人も知らないはずだし、他のみんなだって知らないはずだ。僕だけが関わる秘密を一つ隠すぐらい、簡単な事なのだから。

 だけど、今、目の前にいるのはミナキ君だ。僕の事を一番知っている人だ。

「わかっているだろう、マツバ」

 ミナキ君の目が僕を捉える。射抜く。気の強そうな眉が彼女と一緒だ、と全く状況に合わない事を考えた。

 雨の音だけが事務所に響いている。何か言わないと。もうごまかす事ができないのなら、素直に打ち明けるしかない。そうだ、知られてしまったけれど、それはたいした事ではないのだ。そういう事にしてしまおう。

「ばれてた?」

 頬の力を抜いて笑ってみせる。ばれちゃった。秘密にしておいたつもりだったんだけど。だって、ほら、あの子、いつも一生懸命で可愛いでしょう? 一緒にいたら情が移っちゃったんだよ。それだけなんだよ。

 そう思ったのに、僕の口はどの言葉も形にしてはくれなかった。

「何年の付き合いだと思ってるんだ。そりゃあ、私にはわかるんだぜ」

 ミナキ君は椅子に座ったまま両手を組み、伸ばす。そして眼鏡を外して机に置くと、また僕の方を見た。

「ハヤト君の邪魔だけはしないでやってくれ」

 アイドルにとってゴシップは命取り。しかも相手がマネージャーなんて事になったら、ハヤト本人だけではなく、この事務所のみんなへの信用が失われてしまう。絶対に避けるべき事だというぐらい。

「……わかってるよ。僕だって、仕事なくすのは困るしさ」

 それに、そんなに本気ってわけでもないんだしさ。さっき僕の口は、思い描いた言葉の一つだって形にしてくれなかったけれど、今回は僕を裏切らなかった。

 本気じゃないよ。本気なんかじゃない。ただ、そう、気にいった。その程度の事。僕のものにしたいだとか、好きになってほしいだとか、そんな事を考えてなんかいない。考えてなんか、いない。

 ぐるぐると思考を続ける僕とは対照的に、ミナキ君は笑った。

「嘘をつくのが下手になったな。……いや、それはこの件に関してだけか」

 見逃してくれればいいのに。そうしたら、僕はこのまま誰にも言わないまま、今まで通りに彼女の隣にいられるのに。こんな風に突きつけられてしまったら、僕は僕をごまかす事ができなくなってしまう。気にいっただけ、気になるだけ。それだけだという事にしておかないと、止まらなくなってしまう。誰のためにもならない恋なのだから、いつでも後戻りができるようにしておかないといけない。

 ねえ、ミナキ君。もうやめてよ。邪魔なんてしないから。だから、これ以上は何も言わないで。

 ミナキ君の口が開くのが見えた。耳を塞ぎたいと思った。痙攣を起こしたかのように腕が一度震える。持っていた封筒が床に散らばった。

「マツバさん?」

 澄んだ声。幻聴なのかと思ったけれど、違う。すぐに我に返って振り向く。入り口の扉のすぐ前に彼女が立っていた。

「あ、ああ、おかえり。お疲れ様」

「お疲れ様です」

 傘を入り口の傘立てに入れ、彼女はこちらに歩いてきた。床に散らばった封筒に目を遣り、首を傾げる。

「……何かあったんですか?」

「いや、何もないさ。居眠りでもしてたんじゃないか、マツバ」

 いつも通りの明るい口調でミナキ君は言った。隠そうとしている。当然だ。一番知られてはならない相手は彼女なのだから。

「嫌だなあ、居眠りなんかしないよ。ちょっと落としちゃっただけ」

 失礼だね、と笑いながら続ける。平然を装う。床の封筒を拾い集めて、そのうちのいくつかを彼女に渡した。

「いろいろ案内が来てたから。目を通しておいてね」

「わかりました」

「今日はどうだった?」

「最初は表情が硬いって言われちゃったんですけど、最後の方はよかったよって褒めてもらえました」

 そう言うと、照れくさそうに彼女は笑う。片方だけが長い前髪は相変わらずだし、化粧も服装もまだまだ磨かないといけないけれど。それでも、日に日に可愛くなっていく。だから困ってしまうのだ。

「おお、それは偉いんだぜ! 次も頑張って」

 ハヤトにそう声をかけると、ミナキ君はまた眼鏡をかけて、パソコンと向かい合っていた。さっきの話題はとりあえず終了という事だろう。……助かった、と思うと同時に、逃げ切れたわけではないと知る。

「はい。頑張ります。……じゃあ、お先に失礼します」

「ああ、お疲れ様」

「ハヤト、送っていくよ。もう電車少なくなってるし、雨もまだ降ってるでしょう?」

 ついでに僕も帰るね、と言うと、ミナキ君はパソコンから顔を上げて僕を見た。咄嗟に目を逸らし、玄関へと向かう。

「え、いいんですか?」

「うん。もう遅いから」

「ありがとうございます」

 車に乗せて、このままどこかへ行ってしまえたら。そんな考えが頭をよぎる。そんな事をしたって誰も幸せにならない、と自分に言い聞かせた。

 二人で事務所を出る。扉を閉めると、少しだけ気が楽になった。

「疲れた?」

 あくびをしていた彼女にそう問いかけると、慌てたように首を横に振る。その姿が可愛らしくて笑ってしまう。

「ふふ、わかったよ。……最近忙しいけど、頑張ろうね」

 はい、と彼女は首を縦に振る。

「マツバさんが一緒なら大丈夫です」

 歯を見せて、子供みたいに笑う。そして軽い足取りで階段を降りていく。……その一言が、どれだけ僕を困らせるか。喜ばせるか。彼女は全く知らないのだ。

 わずかに雨に濡れた髪に手を伸ばす。触れたくても、触れてはならない。触れてはならない。

(END)
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