13日の夜の話
「こら」
俺は蛇口の水を止め、机の上に乗っていたホーホーを抱え上げる。ホーホーは俺の手の中でもぞもぞと体を動かした。
「机に乗るなって言ってるだろ」
そのまま椅子に座り、膝の上にホーホーを乗せ、羽を撫でてやる。
カレンダーを見ると、今日の日付は2月13日。明日はいわゆるバレンタインデーだ。明日は、まあ、一応マツバとの約束を入れてあるので、そのためのお菓子を作っている所だ。クッキーとブラウニー。
「お菓子食べたいのか?」
今はブラウニーを焼いている所。そのせいで、台所には甘い香りが立ち込めていた。それに誘われてきたのだろう。
「ブラウニーはチョコが入ってるから……うーん、危ないかもなあ」
そう呟くと、ホーホーは俺を見上げてふるふると首を横に振った。
「だよな。それは嫌だよな」
机には乗るなよ、と釘を刺し、床に下ろす。オーブンに向かうと、ホーホーが後ろについてくる音がした。床に爪がぶつかってこつこつと音を立てる。爪が伸びているのかもしれない。後で切ってやろう。
オーブンの上のトレイに手を伸ばすと、肩にずしりと重さがかかった。頬に羽毛が触れる感触が心地よい。何度か頬擦りをすると、くすぐったいのか肩から離れ、頭の上に移った。
トレイからさっき焼けたばかりのクッキーを1枚取り上げる。まだ熱いけれど持てなくはない。小皿を机に置き、その上でクッキーを砕いてやる。ホーホーは待ちきれないとばかりに俺の頭から飛び降り、クッキーの欠片をついばむ。さっき言った事を覚えているのか、椅子の背に止まったまま。
「まだちょっと熱いから気をつけるんだぞ」
俺の忠告などお構いなしに、一心不乱に首を動かしている。その姿はいつ見ても愛らしくて、思わず頬が緩んでしまう。
立ち上がり、クッキーをもう1枚摘み上げる。ホーホーが素早く反応して顔を上げた。
「これは俺の。つまみ食いはそれだけ」
一口齧ると、まだ柔らかいクッキーがほろほろと崩れる。バターの風味が効いていてなかなかおいしい。どうやら成功したようだ。
マツバは喜んでくれるだろうか。そう考えて、それが当たり前になっている事に気付く。おいしい、といつも言ってくれるから、不安になってしまう事だってあるのだ。たまには悲惨な出来のものでも食べさせてみようか。それで本当の事を言ってくれるか試してみようか。そんな良くない考えが頭をよぎる。
明日はバレンタイン。……マツバはたくさんチョコでも貰うのだろう。
口の端からクッキーの破片が落ちた。皿の分を食べ終わっていたらしいホーホーは床に降り、今度はそれをつつき始める。掃除はちゃんとしているから、それほど汚くはないのだろうけれど……。
残りもこぼしてしまう前に口に放り込む。口の中は乾いていて、飲み込むのが辛かった。
「なんだろうなあ」
ホーホーを抱き上げて顔の高さまで持ち上げる。まだ食べ終わっていなかったらしい。ホーホーは不満そうに一度鳴いた。
「意外とすぐに、不安になったりするものなんだな」
溜め息を一つ。ブラウニーが焼ける甘いにおいが肩の辺りにまとわりついているみたいだ。重さを感じて、俺はホーホーを椅子の背に下ろした。ホーホーは手を離した途端に、床に散らばったクッキーに飛びついていく。その姿に、やれやれ、と呆れた後、そういえば片付けが途中だったと思い出す。
小物から洗ってしまおうと泡立て器を手に取った。その時、家の中に呼び鈴の音が響く。時計を見ると今は9時過ぎ。こんな時間に誰だろう。
冷えた廊下を歩き、玄関の扉を開ける。
「……こんばんは」
玄関の明かりに照らされた、金髪に紫色のヘアバンド。それだけで誰かはわかった。マツバは白い息を吐き、寒いのか肩を竦めて立っていた。
「マツバ、なんで」
「ん……なんとなく」
くしゃみの音が聞こえた。とりあえず家に上げて、こたつに入らせる。
「いいにおい」
こたつに入るなり、マツバはそう言った。甘い香りは居間まで流れてきている。
「あ、えっと、その、……明日の」
ああ、とマツバは嬉しそうに笑った。そしてからかうような口調で続ける。
「僕への?」
わかっていてそう言うのだ。俺の事をいじめて楽しんでいる。
「……そうだけど」
唇を尖らせてそう呟く。頬杖をついてマツバは目を細めた。
「嬉しいな」
その言葉に、さっき考えた良くない事がぷかりと浮かび上がり、喉の辺りで渦を巻く。
「俺以外からも、たくさん貰うのに?」
しまった、と口を押さえてももう遅い。どうしていいかわからなくなって、俺はただ俯いた。
どうしよう。言ってしまった事はもうどうにもならないけれど。言わなければよかった。言わなければよかった。……嫉妬だなんて、向けられる側には迷惑なものでしかないのに。わかっていたのに。
「そうだね。まあ、多分今年もそれなりにくれる人はいるんだろうけどね」
頭に手を置かれたのがわかった。さっきまで外にいたマツバの手は冷えていた。
「ハヤトがくれるのは、やっぱり特別だから」
その言葉に顔を上げる。マツバは照れくさそうに頬を赤くしていて、それを見た俺もつい動揺してしまった。
「真っ赤」
「……マツバもだろ」
「ふふ。早く食べたいな、ハヤトの作ったお菓子」
「明日になるまではダメ。まだブラウニー焼けてないし」
「でも……他にはクッキーがあるのかな?」
なんで知ってるんだよ、と素っ頓狂な声が漏れた。マツバは両腕に抱えたものを持ち上げる。くちばしの周りにクッキーの食べかすをつけたホーホーがきょとんとした顔をしていた。
「ホーホー! いつの間に……」
「僕が座った時からここにいたよ?」
その言葉に答えるようにホーホーは羽をばたつかせる。満足したのだろうか。機嫌が良さそうだ。俺はマツバからホーホーを受け取るとティッシュでくちばしの周りを拭ってやる。
「ホーホーには食べさせたのに、僕はまだ食べちゃいけないの?」
「14日になるまではダメだ」
「じゃあ、今日泊まっていっていい? バレンタインには、一番にハヤトの作ってくれたものが食べたい」
さらりとそんな事を言うマツバの顔を見て、俺はまた溜め息をついた。こういう優しい言葉を誰にでも言っているのかもしれないとはまだ少しだけ思うけれど、もういいやと思ってしまった。俺の事を特別だと言ってくれたあの表情。嘘なんかついていないって、ちゃんとわかっているから。
俺って単純、とホーホーの羽に顔を埋めながら呟く。マツバは首を傾げ、ホーホーは首を縦に振る。こつんとホーホーの頭を叩いた所で、オーブンが音を立てた。バレンタインが始まるまではもう少し。
(END)
俺は蛇口の水を止め、机の上に乗っていたホーホーを抱え上げる。ホーホーは俺の手の中でもぞもぞと体を動かした。
「机に乗るなって言ってるだろ」
そのまま椅子に座り、膝の上にホーホーを乗せ、羽を撫でてやる。
カレンダーを見ると、今日の日付は2月13日。明日はいわゆるバレンタインデーだ。明日は、まあ、一応マツバとの約束を入れてあるので、そのためのお菓子を作っている所だ。クッキーとブラウニー。
「お菓子食べたいのか?」
今はブラウニーを焼いている所。そのせいで、台所には甘い香りが立ち込めていた。それに誘われてきたのだろう。
「ブラウニーはチョコが入ってるから……うーん、危ないかもなあ」
そう呟くと、ホーホーは俺を見上げてふるふると首を横に振った。
「だよな。それは嫌だよな」
机には乗るなよ、と釘を刺し、床に下ろす。オーブンに向かうと、ホーホーが後ろについてくる音がした。床に爪がぶつかってこつこつと音を立てる。爪が伸びているのかもしれない。後で切ってやろう。
オーブンの上のトレイに手を伸ばすと、肩にずしりと重さがかかった。頬に羽毛が触れる感触が心地よい。何度か頬擦りをすると、くすぐったいのか肩から離れ、頭の上に移った。
トレイからさっき焼けたばかりのクッキーを1枚取り上げる。まだ熱いけれど持てなくはない。小皿を机に置き、その上でクッキーを砕いてやる。ホーホーは待ちきれないとばかりに俺の頭から飛び降り、クッキーの欠片をついばむ。さっき言った事を覚えているのか、椅子の背に止まったまま。
「まだちょっと熱いから気をつけるんだぞ」
俺の忠告などお構いなしに、一心不乱に首を動かしている。その姿はいつ見ても愛らしくて、思わず頬が緩んでしまう。
立ち上がり、クッキーをもう1枚摘み上げる。ホーホーが素早く反応して顔を上げた。
「これは俺の。つまみ食いはそれだけ」
一口齧ると、まだ柔らかいクッキーがほろほろと崩れる。バターの風味が効いていてなかなかおいしい。どうやら成功したようだ。
マツバは喜んでくれるだろうか。そう考えて、それが当たり前になっている事に気付く。おいしい、といつも言ってくれるから、不安になってしまう事だってあるのだ。たまには悲惨な出来のものでも食べさせてみようか。それで本当の事を言ってくれるか試してみようか。そんな良くない考えが頭をよぎる。
明日はバレンタイン。……マツバはたくさんチョコでも貰うのだろう。
口の端からクッキーの破片が落ちた。皿の分を食べ終わっていたらしいホーホーは床に降り、今度はそれをつつき始める。掃除はちゃんとしているから、それほど汚くはないのだろうけれど……。
残りもこぼしてしまう前に口に放り込む。口の中は乾いていて、飲み込むのが辛かった。
「なんだろうなあ」
ホーホーを抱き上げて顔の高さまで持ち上げる。まだ食べ終わっていなかったらしい。ホーホーは不満そうに一度鳴いた。
「意外とすぐに、不安になったりするものなんだな」
溜め息を一つ。ブラウニーが焼ける甘いにおいが肩の辺りにまとわりついているみたいだ。重さを感じて、俺はホーホーを椅子の背に下ろした。ホーホーは手を離した途端に、床に散らばったクッキーに飛びついていく。その姿に、やれやれ、と呆れた後、そういえば片付けが途中だったと思い出す。
小物から洗ってしまおうと泡立て器を手に取った。その時、家の中に呼び鈴の音が響く。時計を見ると今は9時過ぎ。こんな時間に誰だろう。
冷えた廊下を歩き、玄関の扉を開ける。
「……こんばんは」
玄関の明かりに照らされた、金髪に紫色のヘアバンド。それだけで誰かはわかった。マツバは白い息を吐き、寒いのか肩を竦めて立っていた。
「マツバ、なんで」
「ん……なんとなく」
くしゃみの音が聞こえた。とりあえず家に上げて、こたつに入らせる。
「いいにおい」
こたつに入るなり、マツバはそう言った。甘い香りは居間まで流れてきている。
「あ、えっと、その、……明日の」
ああ、とマツバは嬉しそうに笑った。そしてからかうような口調で続ける。
「僕への?」
わかっていてそう言うのだ。俺の事をいじめて楽しんでいる。
「……そうだけど」
唇を尖らせてそう呟く。頬杖をついてマツバは目を細めた。
「嬉しいな」
その言葉に、さっき考えた良くない事がぷかりと浮かび上がり、喉の辺りで渦を巻く。
「俺以外からも、たくさん貰うのに?」
しまった、と口を押さえてももう遅い。どうしていいかわからなくなって、俺はただ俯いた。
どうしよう。言ってしまった事はもうどうにもならないけれど。言わなければよかった。言わなければよかった。……嫉妬だなんて、向けられる側には迷惑なものでしかないのに。わかっていたのに。
「そうだね。まあ、多分今年もそれなりにくれる人はいるんだろうけどね」
頭に手を置かれたのがわかった。さっきまで外にいたマツバの手は冷えていた。
「ハヤトがくれるのは、やっぱり特別だから」
その言葉に顔を上げる。マツバは照れくさそうに頬を赤くしていて、それを見た俺もつい動揺してしまった。
「真っ赤」
「……マツバもだろ」
「ふふ。早く食べたいな、ハヤトの作ったお菓子」
「明日になるまではダメ。まだブラウニー焼けてないし」
「でも……他にはクッキーがあるのかな?」
なんで知ってるんだよ、と素っ頓狂な声が漏れた。マツバは両腕に抱えたものを持ち上げる。くちばしの周りにクッキーの食べかすをつけたホーホーがきょとんとした顔をしていた。
「ホーホー! いつの間に……」
「僕が座った時からここにいたよ?」
その言葉に答えるようにホーホーは羽をばたつかせる。満足したのだろうか。機嫌が良さそうだ。俺はマツバからホーホーを受け取るとティッシュでくちばしの周りを拭ってやる。
「ホーホーには食べさせたのに、僕はまだ食べちゃいけないの?」
「14日になるまではダメだ」
「じゃあ、今日泊まっていっていい? バレンタインには、一番にハヤトの作ってくれたものが食べたい」
さらりとそんな事を言うマツバの顔を見て、俺はまた溜め息をついた。こういう優しい言葉を誰にでも言っているのかもしれないとはまだ少しだけ思うけれど、もういいやと思ってしまった。俺の事を特別だと言ってくれたあの表情。嘘なんかついていないって、ちゃんとわかっているから。
俺って単純、とホーホーの羽に顔を埋めながら呟く。マツバは首を傾げ、ホーホーは首を縦に振る。こつんとホーホーの頭を叩いた所で、オーブンが音を立てた。バレンタインが始まるまではもう少し。
(END)
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