ワールドエンド
暮れかけた空は青かった。昼間よりも青に近いその空の色は、彼の色によく似ていた。
「寒くない?」
僕が吐き出した白い息は、薄暗い空気の中に消えていく。背中で彼が動く気配がした。
「……うん」
囁くような声で彼は答えた。吐く息は弱々しく、白に染まる間もなく消えていく。
マフラーと手袋。分厚いセーターの上には僕が持っている中で一番温かいコート。寒いはずはない。……普通の状態なら。
立ち止まり、彼を背負い直す。出会った頃から小柄で細いから、抱え上げたって重くはなかった。だけど今の軽さは明らかに異常だった。抜け殻という言葉が頭をよぎる。首を振る。抜け殻なんかじゃない。ハヤトはちゃんとここにいる。
「もうすぐ着くからね」
彼の髪が僕の耳を擦る。うなずいたのだとわかった。
「帰れるの、嬉しい」
途切れ途切れに、苦しそうに息をしながら、それでも嬉しそうに彼は言う。
家に帰りたい、と彼が訴えたのは今朝の事だった。窓の向こうに広がる灰色の空と、風に枝を揺らす裸の木々は、外気が彼のわずかな体力を削り取ってしまう事をはっきりと僕に教えていた。それでも僕は彼を連れ出した。もうわかっていた。今、帰さなければ、彼はもう二度とあの家には帰れない。
彼の身体を片手で支え、門を開け、玄関までの短い道を辿る。扉を開けると埃の臭いがした。掃除はしばらくしていない。閉じ込められていた空気はすっかり澱んでいる。背中で彼が咳を一つ。
「ハヤト、ちょっと待ってて」
彼を床に下ろす。自力で座っている事もできず、壁にもたれかかってしまう。コートの上から自分の上着を掛けてやって、僕は家の奥へと向かう。
まずは窓を開けて、空気を入れ替えて、それからストーブをつけないと。部屋を温めて、布団も敷いて、それから……。
足を止める。それから、どうすればいい? 今頃、医者や看護師たちは必死で彼を探しているのだろう。一人で動けるはずのない患者が姿を消したとなれば。危険な状態の患者が姿を消したとなれば。
薬や治療法が発見される前日には、誰もそれを知らない。だから、多分、ハヤトのために一番いいのは、一日でも長く生きられるようにしてあげる事。それぐらいはわかっている。病院に戻すのが正しい事だとわかっている。僕がしている事は間違っている。彼のためを思うのなら、今すぐに……。
鈍い音がした。慌てて振り返ると、冷え切った床の上に彼がうつぶせで倒れていた。
「ハヤト」
駆け寄り、抱え起こす。彼は困ったように眉を寄せ、笑った。
「ごめん、転んだ、だけ」
「転んだって……。じっとしてなきゃダメだよ。すぐに部屋の空気入れ替えて、暖かく」
早く、という言葉に、僕の言葉は遮られる。
「早く、帰りたいな」
背中に冷や汗が浮かぶ。ここがどこかもわからないほどに、もう。
嫌な味のする唾を飲み込んだ。正しい事が何かなんて、もう考えない。ハヤトが望んでいるから僕はこうする。僕が叶えなければ。誰も叶えてあげようとはしないのだから。
彼を抱え上げ、居間へと向かった。相変わらず軽い、軽すぎる体だった。ストーブをつけて、その前に寝かせる。彼の視線が天井のあたりを彷徨う。
「帰ってきたよ、ハヤト」
確かに聞こえるように、僕は耳元でそう言った。その言葉に彼はうなずいた。まだ僕の言葉は届いている。
「ちょっと寒いけど、我慢してね」
窓を開けて、濁った空気を逃がす。その間に僕はお茶を淹れる。いつもの癖で、戸棚を開けてお茶菓子を探そうとした。それから、ハヤトも僕も何も食べないと気付いて戸棚を閉めた。
「お待たせ。起きれる?」
「……うん」
背中に手を回して体を起こす。壁際に座らせ、机の上のマグカップを握らせてから、窓を閉めようと立ち上がる。窓際で空を見上げると、さっきまで晴れていた空を暗い色の雲が覆い隠そうとしていた。雪が積もるかもしれない、という昨日の天気予報を思い出す。
前に雪が積もった時は、ハヤトはまだ元気だったのに。どうして。いつから。もっと早く気付いていたらこんな事にはならなかったかもしれないのに。
咳の音で我に返る。慌てて窓を閉め、彼の隣に座った。
「大丈夫?」
平気、と咳の合間に聞こえた。言葉とは裏腹に、咳は止まらない。
「横になる?」
背中に触れようとした手を彼が掴む。温かいカップに触れていたはずなのに、指先はまだ冷たい。
「心配、しすぎ」
ばか、と冗談めかして呟き、続ける。
「病院、いるみたいで、嫌だよ」
「……そうだね、ごめん。でも、辛くなったらちゃんと言ってね?」
彼は小さく首を縦に振る。僕は掴まれたままの手を軽く揺すり、解いた。特に抵抗もなく彼の手から離れる。そして離された手で、彼の手を握る。冷たい指先を温めるように。
ストーブの温かい光が照らす部屋の中で、静かな部屋の中で、僕たちは他愛のない話をした。たくさん。たくさん。子供の頃の話。出会った頃の話。つい最近にあった事。ハヤトの声をこんなに聞くのは久しぶりだった。病院にいる間は、ずっと口数が少なかったから。
「マツバの事、好きだって気付いた時」
「うん」
「俺、おかしいのかと思った」
「……僕も、ハヤトの事好きだって気付いた時はそう思った」
「なんというか、困ったよな。今までになかったし」
「そうそう。どうしようかなあ、って思って」
「それで、その結果、俺にそのまま伝えたんだな」
「だって、もうどうしようもなくて」
拗ねたようにそう言う僕を見て、ハヤトは笑う。今日のハヤトはよく笑う。子供みたいに、無邪気に。そしてふっと笑うのをやめ、僕の肩にもたれかかった。
「あの時、ちゃんと言ってくれて、ありがとう」
俺だったら言えなかったかもしれない、と彼は僕の手を握る。多分、今のハヤトの全力で。それでも昔よりもずっと弱い。ふと不安になって肩に触れる頭を撫でる。乾燥した髪と、それから……。
首筋に触れると、違和感は確かなものになった。
「熱、出てきた?」
「そう……?」
「うん。そろそろ寝ようか」
寝室の換気はしていない。入ってきた時と同じように、埃っぽい澱んだ空気で満たされているのだろう。帰ってきた頃よりもさらに気温は下がっている。体を冷やすのはよくない。もう、ここで寝てしまおう。
押し入れから布団を取り出し、二枚並べて敷く。毛布と掛け布団を重ねる。湯たんぽも入れた。これで寒くはないはずだ。
「布団敷いたけど、こっち来れる?」
ハヤトは僕を見て、それから両手をそろそろと伸ばす。その意図に気が付いて、僕は彼の傍まで移動する。ほんの二、三歩。抱き上げると彼は少し照れくさそうな顔をしながら僕の首に腕を回す。
「自分でこうしてほしいって言ったのに、なんで照れるの」
「だって、今まで、父さん以外の人にこんな事されなかったから」
「お父さんにはこうしてもらってたの?」
「小さい頃は」
布団を捲り、横たえる。それと同時に、彼は僕の体を引き寄せようとした。首にかかったわずかな力には逆らわない。そのまま顔を近づけ、口付ける。
「甘えん坊だねえ」
「……だって、こうすると温かいから」
「部屋、まだ寒い?」
彼は首を横に振った。そういう事じゃないよ、と夢を見るような口調で答え、そしてまた咳を繰り返す。毛布と布団を肩まで上げる。額に触れるとやっぱり熱い。
「後でおでこ冷やしてあげる。そうしたら、ちょっと楽になると思うよ」
おやすみ、と布団の上から手を握る。ハヤトはうなずくと、目を閉じた。
かたん、とポストが鳴る音で目が覚めた。灯油が切れてしまったのか、部屋は冷えていた。頬と耳が冷えきって痛い。妙に寒い朝だった。
目を開けると、部屋の中はうっすらと明るくなっていた。時計を見ると午前5時。まだ日は昇っていないはずなのに明るいなんて。そう思い、寝返りをうつ。視界に窓が映る。そういえば雨戸を閉め忘れていた、と気がついた。
窓の外には、白いものがちらちらと舞っていた。雪だ。予報通り、夜の間に積もったのだろう。それでこの明るさというわけか。
隣で眠る彼に目をやると、僕と同じように目を覚ましていた。眠たげな目で僕を見ていた。
「雪、積もったみたいだね」
彼は答えない。ただ微笑んだだけだった。青い目は熱のせいか潤んでいて、海みたいだと思う。
やがてその目がゆっくりと閉じられた。布団を掛け直してやってから、僕も目を閉じる。
微睡みの中で、珍しいな、と思った。ハヤトを見て、海を連想するなんて。空色の髪に、空色の瞳。晴れ渡った澄んだ空の色。それがいつでもハヤトの色だったのに。水色ではなくて空色。ずっとそう思っていたのに。どうして、今は。
ひらめき、直感。言ってしまえば、ただそんなものだった。唐突にずっと前に聞いた話を思い出した。生き物はみんな、海から生まれた。
帰りたい、と彼は言った。
「……ハヤト?」
返事はない。目も開けない。頬に触れるとまだ熱かった。口元に手を翳して、呼吸がある事を確認する。僕よりもゆるやかな呼吸。……熱があるのに。
「ハヤト」
彼が息を吸う。吐き出す。5つ数える。また息を吸う。吐き出す。1、2、3、4、5。6、と数える直前に、呼吸の音がした。無意識のうちに強ばっていた体から力が抜ける。
布団の中に手を入れ、彼の手を握る。温かい布団の中にあったはずなのに冷たい指先。
消えていく、と思った。歩いて、話して、笑うハヤトがいなくなる。
「ハヤト」
1、2、3、4、5、6……7。
「息をして、ハヤト」
息を一つ吸って吐く音。だけど、彼の手は僕の手を握り返さない。動かない。
1、2、3、4、5、6、7、8。思わず彼の体を揺する。微かな呼吸音。
「ハヤト」
1、2、3、4、5、6、7、8、9。
それから、音は一つも聞こえなくなった。
手を離す。彼の手には、僕が握っていた跡がはっきりと残っていた。消えなければいい。彼が遠くに、僕が知らない所に行ってしまっても。最後に触れたものが僕であった証を残していて。
「……おやすみ、ハヤト」
またね、と呟く声は、淡い光に満ちた部屋の中に溶けて消えていく。
(END)
「寒くない?」
僕が吐き出した白い息は、薄暗い空気の中に消えていく。背中で彼が動く気配がした。
「……うん」
囁くような声で彼は答えた。吐く息は弱々しく、白に染まる間もなく消えていく。
マフラーと手袋。分厚いセーターの上には僕が持っている中で一番温かいコート。寒いはずはない。……普通の状態なら。
立ち止まり、彼を背負い直す。出会った頃から小柄で細いから、抱え上げたって重くはなかった。だけど今の軽さは明らかに異常だった。抜け殻という言葉が頭をよぎる。首を振る。抜け殻なんかじゃない。ハヤトはちゃんとここにいる。
「もうすぐ着くからね」
彼の髪が僕の耳を擦る。うなずいたのだとわかった。
「帰れるの、嬉しい」
途切れ途切れに、苦しそうに息をしながら、それでも嬉しそうに彼は言う。
家に帰りたい、と彼が訴えたのは今朝の事だった。窓の向こうに広がる灰色の空と、風に枝を揺らす裸の木々は、外気が彼のわずかな体力を削り取ってしまう事をはっきりと僕に教えていた。それでも僕は彼を連れ出した。もうわかっていた。今、帰さなければ、彼はもう二度とあの家には帰れない。
彼の身体を片手で支え、門を開け、玄関までの短い道を辿る。扉を開けると埃の臭いがした。掃除はしばらくしていない。閉じ込められていた空気はすっかり澱んでいる。背中で彼が咳を一つ。
「ハヤト、ちょっと待ってて」
彼を床に下ろす。自力で座っている事もできず、壁にもたれかかってしまう。コートの上から自分の上着を掛けてやって、僕は家の奥へと向かう。
まずは窓を開けて、空気を入れ替えて、それからストーブをつけないと。部屋を温めて、布団も敷いて、それから……。
足を止める。それから、どうすればいい? 今頃、医者や看護師たちは必死で彼を探しているのだろう。一人で動けるはずのない患者が姿を消したとなれば。危険な状態の患者が姿を消したとなれば。
薬や治療法が発見される前日には、誰もそれを知らない。だから、多分、ハヤトのために一番いいのは、一日でも長く生きられるようにしてあげる事。それぐらいはわかっている。病院に戻すのが正しい事だとわかっている。僕がしている事は間違っている。彼のためを思うのなら、今すぐに……。
鈍い音がした。慌てて振り返ると、冷え切った床の上に彼がうつぶせで倒れていた。
「ハヤト」
駆け寄り、抱え起こす。彼は困ったように眉を寄せ、笑った。
「ごめん、転んだ、だけ」
「転んだって……。じっとしてなきゃダメだよ。すぐに部屋の空気入れ替えて、暖かく」
早く、という言葉に、僕の言葉は遮られる。
「早く、帰りたいな」
背中に冷や汗が浮かぶ。ここがどこかもわからないほどに、もう。
嫌な味のする唾を飲み込んだ。正しい事が何かなんて、もう考えない。ハヤトが望んでいるから僕はこうする。僕が叶えなければ。誰も叶えてあげようとはしないのだから。
彼を抱え上げ、居間へと向かった。相変わらず軽い、軽すぎる体だった。ストーブをつけて、その前に寝かせる。彼の視線が天井のあたりを彷徨う。
「帰ってきたよ、ハヤト」
確かに聞こえるように、僕は耳元でそう言った。その言葉に彼はうなずいた。まだ僕の言葉は届いている。
「ちょっと寒いけど、我慢してね」
窓を開けて、濁った空気を逃がす。その間に僕はお茶を淹れる。いつもの癖で、戸棚を開けてお茶菓子を探そうとした。それから、ハヤトも僕も何も食べないと気付いて戸棚を閉めた。
「お待たせ。起きれる?」
「……うん」
背中に手を回して体を起こす。壁際に座らせ、机の上のマグカップを握らせてから、窓を閉めようと立ち上がる。窓際で空を見上げると、さっきまで晴れていた空を暗い色の雲が覆い隠そうとしていた。雪が積もるかもしれない、という昨日の天気予報を思い出す。
前に雪が積もった時は、ハヤトはまだ元気だったのに。どうして。いつから。もっと早く気付いていたらこんな事にはならなかったかもしれないのに。
咳の音で我に返る。慌てて窓を閉め、彼の隣に座った。
「大丈夫?」
平気、と咳の合間に聞こえた。言葉とは裏腹に、咳は止まらない。
「横になる?」
背中に触れようとした手を彼が掴む。温かいカップに触れていたはずなのに、指先はまだ冷たい。
「心配、しすぎ」
ばか、と冗談めかして呟き、続ける。
「病院、いるみたいで、嫌だよ」
「……そうだね、ごめん。でも、辛くなったらちゃんと言ってね?」
彼は小さく首を縦に振る。僕は掴まれたままの手を軽く揺すり、解いた。特に抵抗もなく彼の手から離れる。そして離された手で、彼の手を握る。冷たい指先を温めるように。
ストーブの温かい光が照らす部屋の中で、静かな部屋の中で、僕たちは他愛のない話をした。たくさん。たくさん。子供の頃の話。出会った頃の話。つい最近にあった事。ハヤトの声をこんなに聞くのは久しぶりだった。病院にいる間は、ずっと口数が少なかったから。
「マツバの事、好きだって気付いた時」
「うん」
「俺、おかしいのかと思った」
「……僕も、ハヤトの事好きだって気付いた時はそう思った」
「なんというか、困ったよな。今までになかったし」
「そうそう。どうしようかなあ、って思って」
「それで、その結果、俺にそのまま伝えたんだな」
「だって、もうどうしようもなくて」
拗ねたようにそう言う僕を見て、ハヤトは笑う。今日のハヤトはよく笑う。子供みたいに、無邪気に。そしてふっと笑うのをやめ、僕の肩にもたれかかった。
「あの時、ちゃんと言ってくれて、ありがとう」
俺だったら言えなかったかもしれない、と彼は僕の手を握る。多分、今のハヤトの全力で。それでも昔よりもずっと弱い。ふと不安になって肩に触れる頭を撫でる。乾燥した髪と、それから……。
首筋に触れると、違和感は確かなものになった。
「熱、出てきた?」
「そう……?」
「うん。そろそろ寝ようか」
寝室の換気はしていない。入ってきた時と同じように、埃っぽい澱んだ空気で満たされているのだろう。帰ってきた頃よりもさらに気温は下がっている。体を冷やすのはよくない。もう、ここで寝てしまおう。
押し入れから布団を取り出し、二枚並べて敷く。毛布と掛け布団を重ねる。湯たんぽも入れた。これで寒くはないはずだ。
「布団敷いたけど、こっち来れる?」
ハヤトは僕を見て、それから両手をそろそろと伸ばす。その意図に気が付いて、僕は彼の傍まで移動する。ほんの二、三歩。抱き上げると彼は少し照れくさそうな顔をしながら僕の首に腕を回す。
「自分でこうしてほしいって言ったのに、なんで照れるの」
「だって、今まで、父さん以外の人にこんな事されなかったから」
「お父さんにはこうしてもらってたの?」
「小さい頃は」
布団を捲り、横たえる。それと同時に、彼は僕の体を引き寄せようとした。首にかかったわずかな力には逆らわない。そのまま顔を近づけ、口付ける。
「甘えん坊だねえ」
「……だって、こうすると温かいから」
「部屋、まだ寒い?」
彼は首を横に振った。そういう事じゃないよ、と夢を見るような口調で答え、そしてまた咳を繰り返す。毛布と布団を肩まで上げる。額に触れるとやっぱり熱い。
「後でおでこ冷やしてあげる。そうしたら、ちょっと楽になると思うよ」
おやすみ、と布団の上から手を握る。ハヤトはうなずくと、目を閉じた。
かたん、とポストが鳴る音で目が覚めた。灯油が切れてしまったのか、部屋は冷えていた。頬と耳が冷えきって痛い。妙に寒い朝だった。
目を開けると、部屋の中はうっすらと明るくなっていた。時計を見ると午前5時。まだ日は昇っていないはずなのに明るいなんて。そう思い、寝返りをうつ。視界に窓が映る。そういえば雨戸を閉め忘れていた、と気がついた。
窓の外には、白いものがちらちらと舞っていた。雪だ。予報通り、夜の間に積もったのだろう。それでこの明るさというわけか。
隣で眠る彼に目をやると、僕と同じように目を覚ましていた。眠たげな目で僕を見ていた。
「雪、積もったみたいだね」
彼は答えない。ただ微笑んだだけだった。青い目は熱のせいか潤んでいて、海みたいだと思う。
やがてその目がゆっくりと閉じられた。布団を掛け直してやってから、僕も目を閉じる。
微睡みの中で、珍しいな、と思った。ハヤトを見て、海を連想するなんて。空色の髪に、空色の瞳。晴れ渡った澄んだ空の色。それがいつでもハヤトの色だったのに。水色ではなくて空色。ずっとそう思っていたのに。どうして、今は。
ひらめき、直感。言ってしまえば、ただそんなものだった。唐突にずっと前に聞いた話を思い出した。生き物はみんな、海から生まれた。
帰りたい、と彼は言った。
「……ハヤト?」
返事はない。目も開けない。頬に触れるとまだ熱かった。口元に手を翳して、呼吸がある事を確認する。僕よりもゆるやかな呼吸。……熱があるのに。
「ハヤト」
彼が息を吸う。吐き出す。5つ数える。また息を吸う。吐き出す。1、2、3、4、5。6、と数える直前に、呼吸の音がした。無意識のうちに強ばっていた体から力が抜ける。
布団の中に手を入れ、彼の手を握る。温かい布団の中にあったはずなのに冷たい指先。
消えていく、と思った。歩いて、話して、笑うハヤトがいなくなる。
「ハヤト」
1、2、3、4、5、6……7。
「息をして、ハヤト」
息を一つ吸って吐く音。だけど、彼の手は僕の手を握り返さない。動かない。
1、2、3、4、5、6、7、8。思わず彼の体を揺する。微かな呼吸音。
「ハヤト」
1、2、3、4、5、6、7、8、9。
それから、音は一つも聞こえなくなった。
手を離す。彼の手には、僕が握っていた跡がはっきりと残っていた。消えなければいい。彼が遠くに、僕が知らない所に行ってしまっても。最後に触れたものが僕であった証を残していて。
「……おやすみ、ハヤト」
またね、と呟く声は、淡い光に満ちた部屋の中に溶けて消えていく。
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