二人暮らし
「ハヤト君とは一緒に暮らさないのか?」
不意にそう言われて、僕はお猪口の中の日本酒をぐい、と飲み干す。
お酒を飲むのは久しぶりだ。ハヤトはあんまり飲まないから。僕だけ飲むのもなんとなく悪いし、別にお酒がなくても困る事はない。だから普段は飲まない。だけどたまにこうして飲むと、やっぱり悪くはないなあと思う。……ミナキ君が余計な事言わなければ。
さっきだってそうだ。こんなにいいお酒を熱燗にするなんてもったいないだとかなんとか。好みの問題なんだから放っといてくれればいいのに。
「朝早くからミナキ君に起こされたり、夜遅くにミナキ君に起こされたりなんて、ハヤトに申し訳ないよ」
「……そこは、まあ、気をつける」
想像していたよりも真剣な様子でミナキ君はうつむく。別にそこまで気にしなくてもいいのに。僕はもうとっくに慣れた。もちろんハヤトと同居する事になったら、もっと気を遣ってもらわないと困るけれど。
「冗談だよ。それに……ハヤトと一緒に暮らすつもりはないし」
空のお猪口を机に置く。日本酒の瓶ももう空だ。わざわざこたつから出て取りに行くのも面倒だからそのまま放っておく。
「ないのか? てっきり、いずれは同居するものだとばかり」
「ハヤトも僕もジムの事があるし。一緒に暮らすからジムを引っ越します、なんて許されないよ」
結婚を機にジムリーダーを降りる人はいる。だけど僕たちにはそういった区切りもない。余程何か起きない限り、ジムリーダーを続けるつもりだ。
「それに」
転がり出た言葉を慌てて飲み込む。お酒が入ったせいだろうか。余計な事を言ってしまいそうだった。
「それに?」
「……別に、なんでもない」
僕は逃げるようにこたつを出ると台所に向かう。棚を開けてもお酒はもう入ってなかった。仕方なく緑茶を淹れ、せんべいを数枚と、いつかお土産でもらった小さな饅頭を皿に乗せる。居間に戻ったらミナキ君が眠ってしまっていたらいいのに、と思う。さっきのやりとりを忘れてしまっていてくれたらいいのに。
それに、の後に続く言葉。知られたくないというよりも、意識したくなかった。ミナキ君に忘れてほしいというよりも、僕が忘れてしまいたかった。
「もうやり直せなくなるよ、一緒に暮らしたりなんかしたら」
呟く声は僕にだけ聞こえているはずだった。床が軋む音に振り返ると、そこにはミナキ君が立っていた。
「……どうせ、私の分の飲み物は用意してくれないだろうと思って」
咎めるような目をしていたのかもしれない。彼は僕から目を逸らすとそう言った。言い訳、と言ってやりたくなる気持ちを抑える。ミナキ君が悪くないのはわかっている。本当に飲み物を取りに来ただけなのだろう。
「……ハヤトはさ、僕よりもずっと若いんだよ」
食器棚から湯呑みを二つ取り出し、菓子の皿と一緒におぼんに乗せる。お饅頭食べる? と聞けば、ミナキ君はうなずく。饅頭をもう一つ追加。
「五歳も違う。僕の年になるまで、まだ五年あるって事」
こたつに戻る。空の瓶や缶を適当に片づけて、空いた場所におぼんを置く。
「ハヤトは、って言うけど、僕だってまだ27歳。まだ若い方だよ。……ミナキ君はもうおじさんだけど」
「マツバ、私と二つしか違わない事を忘れていないか? 第一、私はまだおじさんではないんだぜ」
反論するミナキ君は無視して、饅頭の包みを開ける。よくある白あんの饅頭だった。
「つまりね、ハヤトがこれから五年のうちに僕の事を忘れてしまえば、僕の年になる頃には真っ当な人生を送れるようになってるってわけ」
急須から緑茶を注ぐ。湯呑みからこぼれたお茶が、おぼんの上にぽたぽたと落ちる。
真っ当な人生。大人になって、結婚をして、子供ができて、そして年を取って死んでいく。異論もあるだろうけれど、基本的にはこうだろう。
僕たちは、と時々考える。僕もハヤトも男で、結婚だってできないし、もちろん子供も作れない。
「ちょっと遅くはなるかもしれないけど、まだやり直せるんだよ、ハヤトは。その時に僕が邪魔になっちゃいけないでしょ?」
彼の人生と僕のわがまま。どちらが大切かなんて、秤にかけるまでもなくわかる。
「いつかは手放すのか?」
「ハヤトが離れたいと言えば、いつだって」
「マツバはそれで」
「いいよ。だって僕のはただのわがままだから」
湯呑みを持ち上げて口に当てた瞬間、勢いよくふすまが開いた。隣の和室から姿を現した彼は、畳を蹴ると、覆い被さるような形で僕の方へと向かってくる。たいあたり、という言葉が脳裏に浮かぶ。ぶつかってきた彼の体は受け止めたものの勢いを殺す事はできず、僕は空き缶の上に倒れ込んだ。
「……だ、そうだよ。ハヤト君」
ミナキ君はのんきにそう言う。お茶を啜る音まで聞こえた。我関せず、といった様子。何が関せずだ。頼んだのはハヤトかもしれないけど、実行犯はミナキ君じゃないか。
僕の上に乗ったままの彼の肩に手を置く。出会った頃と比べて柔らかさをなくした体に、確かに大人になっているのだと感じる。背はあまり伸びなかったけれど。
彼は息を一つ吸う。手を置いた肩が動く。痩せた体。骨が手のひらに触れる。生きているんだ、と当然な事を思う。
「自分の」
息と一緒に吐き出された言葉は低く重い。彼は体を起こして僕の胸の上で拳を握ると、少しだけ上げて、下ろす。鈍い音が体内に響く。
「自分のわがままの事は考えるくせに」
俺のわがままは、と掠れた声で彼は呟いた。
「ハヤトにも、わがままがあるの?」
僕の手が肩から腕を滑り、彼の手に辿りつく。指を絡めると少し躊躇ってから握り返すのは相変わらずだ。
「……ある」
彼は僕の目を見つめた。にらみつけるような目をしているから、実は少しだけ怖かった。
「ここで暮らしたい」
はっきりとした声で、力強い目で、彼はそう告げた。
「…………」
僕はといえば、圧倒されてしまって何も言えずにいた。彼は気が弱い方ではないけれど、わがままを言う事は多くないから。それもこんなにはっきりと。
返事がないのを不安に思ったのか、彼の眉がじわじわと下がる。握った手の力も抜けていく。僕は彼の手をもう一度握り直した。
「お父さん、寂しがらない?」
「……父さんにもポケモンたちがいるから、大丈夫」
「ジムに通うの、大変になるよ?」
「飛んでいけるから平気。トレーニング代わりに走ったっていい」
「ミナキ君が迷惑な時間に帰ってくる」
「俺はマツバと違って寝起きがいいから」
彼がこう言うなら、僕の答えは決まっていた。だけど、本当に一つだけ。これだけは聞いておかなければならなかった。手を離し、彼の頬に手を当てる。
「もう、やり直せなくなるよ?」
彼は僕の手を覆う。そして目を細めて、歯を見せて、子供みたいに笑った。
「いいよ」
息が詰まった。なんとか吐き出した息は震えていた。目尻から涙が落ちて、床に触れてかすかに音を立てる。僕の代わりに呟いたようだった。嬉しい、嬉しい。
「じゃあ、一緒に住もうか」
涙混じりの、あまりにも情けない声だった。滲んだ目では見えないけれど、笑われたというのはわかった。
「うん」
彼は僕の涙を拭った。指の先まで温かいなんて、なんだかずるい。
「そんなわけでミナキ君、これからは常識的な時間に帰ってきてね」
「……善処するんだぜ」
「俺は何時でも大丈夫ですよ。マツバと違って、お茶だってちゃんと出します」
ミナキさんは恩人ですから、とハヤトは言う。意外と気が合うというのは知っていたけれど、いつからこんなに仲良くなっていたんだろう。
「それは嬉しいな。マツバは何もしてくれないから」
「まともな時間に帰ってくるんだったら考えるけど」
「普通の時間でも何もしてくれないじゃないか。さっきだってお茶を淹れてくれなかった」
口答えをするミナキ君は無視をして、僕は目を擦り、体を起こす。空き缶を下敷きにしていた背中が今更痛んだ。僕の膝の上に座ったままのハヤトの目元を撫でる。指先を濡らす感触。
「……よかったな、ハヤト君」
ミナキ君の言葉に、彼は顔を伏せたまま何度も何度もうなずいた。
「ごめんね、待たせちゃって」
抱きついてきた彼を受け止める。背中を撫でながら、もう手放せないなあと思う。彼も僕も、もう逃げられない。離れられない。
(END)
不意にそう言われて、僕はお猪口の中の日本酒をぐい、と飲み干す。
お酒を飲むのは久しぶりだ。ハヤトはあんまり飲まないから。僕だけ飲むのもなんとなく悪いし、別にお酒がなくても困る事はない。だから普段は飲まない。だけどたまにこうして飲むと、やっぱり悪くはないなあと思う。……ミナキ君が余計な事言わなければ。
さっきだってそうだ。こんなにいいお酒を熱燗にするなんてもったいないだとかなんとか。好みの問題なんだから放っといてくれればいいのに。
「朝早くからミナキ君に起こされたり、夜遅くにミナキ君に起こされたりなんて、ハヤトに申し訳ないよ」
「……そこは、まあ、気をつける」
想像していたよりも真剣な様子でミナキ君はうつむく。別にそこまで気にしなくてもいいのに。僕はもうとっくに慣れた。もちろんハヤトと同居する事になったら、もっと気を遣ってもらわないと困るけれど。
「冗談だよ。それに……ハヤトと一緒に暮らすつもりはないし」
空のお猪口を机に置く。日本酒の瓶ももう空だ。わざわざこたつから出て取りに行くのも面倒だからそのまま放っておく。
「ないのか? てっきり、いずれは同居するものだとばかり」
「ハヤトも僕もジムの事があるし。一緒に暮らすからジムを引っ越します、なんて許されないよ」
結婚を機にジムリーダーを降りる人はいる。だけど僕たちにはそういった区切りもない。余程何か起きない限り、ジムリーダーを続けるつもりだ。
「それに」
転がり出た言葉を慌てて飲み込む。お酒が入ったせいだろうか。余計な事を言ってしまいそうだった。
「それに?」
「……別に、なんでもない」
僕は逃げるようにこたつを出ると台所に向かう。棚を開けてもお酒はもう入ってなかった。仕方なく緑茶を淹れ、せんべいを数枚と、いつかお土産でもらった小さな饅頭を皿に乗せる。居間に戻ったらミナキ君が眠ってしまっていたらいいのに、と思う。さっきのやりとりを忘れてしまっていてくれたらいいのに。
それに、の後に続く言葉。知られたくないというよりも、意識したくなかった。ミナキ君に忘れてほしいというよりも、僕が忘れてしまいたかった。
「もうやり直せなくなるよ、一緒に暮らしたりなんかしたら」
呟く声は僕にだけ聞こえているはずだった。床が軋む音に振り返ると、そこにはミナキ君が立っていた。
「……どうせ、私の分の飲み物は用意してくれないだろうと思って」
咎めるような目をしていたのかもしれない。彼は僕から目を逸らすとそう言った。言い訳、と言ってやりたくなる気持ちを抑える。ミナキ君が悪くないのはわかっている。本当に飲み物を取りに来ただけなのだろう。
「……ハヤトはさ、僕よりもずっと若いんだよ」
食器棚から湯呑みを二つ取り出し、菓子の皿と一緒におぼんに乗せる。お饅頭食べる? と聞けば、ミナキ君はうなずく。饅頭をもう一つ追加。
「五歳も違う。僕の年になるまで、まだ五年あるって事」
こたつに戻る。空の瓶や缶を適当に片づけて、空いた場所におぼんを置く。
「ハヤトは、って言うけど、僕だってまだ27歳。まだ若い方だよ。……ミナキ君はもうおじさんだけど」
「マツバ、私と二つしか違わない事を忘れていないか? 第一、私はまだおじさんではないんだぜ」
反論するミナキ君は無視して、饅頭の包みを開ける。よくある白あんの饅頭だった。
「つまりね、ハヤトがこれから五年のうちに僕の事を忘れてしまえば、僕の年になる頃には真っ当な人生を送れるようになってるってわけ」
急須から緑茶を注ぐ。湯呑みからこぼれたお茶が、おぼんの上にぽたぽたと落ちる。
真っ当な人生。大人になって、結婚をして、子供ができて、そして年を取って死んでいく。異論もあるだろうけれど、基本的にはこうだろう。
僕たちは、と時々考える。僕もハヤトも男で、結婚だってできないし、もちろん子供も作れない。
「ちょっと遅くはなるかもしれないけど、まだやり直せるんだよ、ハヤトは。その時に僕が邪魔になっちゃいけないでしょ?」
彼の人生と僕のわがまま。どちらが大切かなんて、秤にかけるまでもなくわかる。
「いつかは手放すのか?」
「ハヤトが離れたいと言えば、いつだって」
「マツバはそれで」
「いいよ。だって僕のはただのわがままだから」
湯呑みを持ち上げて口に当てた瞬間、勢いよくふすまが開いた。隣の和室から姿を現した彼は、畳を蹴ると、覆い被さるような形で僕の方へと向かってくる。たいあたり、という言葉が脳裏に浮かぶ。ぶつかってきた彼の体は受け止めたものの勢いを殺す事はできず、僕は空き缶の上に倒れ込んだ。
「……だ、そうだよ。ハヤト君」
ミナキ君はのんきにそう言う。お茶を啜る音まで聞こえた。我関せず、といった様子。何が関せずだ。頼んだのはハヤトかもしれないけど、実行犯はミナキ君じゃないか。
僕の上に乗ったままの彼の肩に手を置く。出会った頃と比べて柔らかさをなくした体に、確かに大人になっているのだと感じる。背はあまり伸びなかったけれど。
彼は息を一つ吸う。手を置いた肩が動く。痩せた体。骨が手のひらに触れる。生きているんだ、と当然な事を思う。
「自分の」
息と一緒に吐き出された言葉は低く重い。彼は体を起こして僕の胸の上で拳を握ると、少しだけ上げて、下ろす。鈍い音が体内に響く。
「自分のわがままの事は考えるくせに」
俺のわがままは、と掠れた声で彼は呟いた。
「ハヤトにも、わがままがあるの?」
僕の手が肩から腕を滑り、彼の手に辿りつく。指を絡めると少し躊躇ってから握り返すのは相変わらずだ。
「……ある」
彼は僕の目を見つめた。にらみつけるような目をしているから、実は少しだけ怖かった。
「ここで暮らしたい」
はっきりとした声で、力強い目で、彼はそう告げた。
「…………」
僕はといえば、圧倒されてしまって何も言えずにいた。彼は気が弱い方ではないけれど、わがままを言う事は多くないから。それもこんなにはっきりと。
返事がないのを不安に思ったのか、彼の眉がじわじわと下がる。握った手の力も抜けていく。僕は彼の手をもう一度握り直した。
「お父さん、寂しがらない?」
「……父さんにもポケモンたちがいるから、大丈夫」
「ジムに通うの、大変になるよ?」
「飛んでいけるから平気。トレーニング代わりに走ったっていい」
「ミナキ君が迷惑な時間に帰ってくる」
「俺はマツバと違って寝起きがいいから」
彼がこう言うなら、僕の答えは決まっていた。だけど、本当に一つだけ。これだけは聞いておかなければならなかった。手を離し、彼の頬に手を当てる。
「もう、やり直せなくなるよ?」
彼は僕の手を覆う。そして目を細めて、歯を見せて、子供みたいに笑った。
「いいよ」
息が詰まった。なんとか吐き出した息は震えていた。目尻から涙が落ちて、床に触れてかすかに音を立てる。僕の代わりに呟いたようだった。嬉しい、嬉しい。
「じゃあ、一緒に住もうか」
涙混じりの、あまりにも情けない声だった。滲んだ目では見えないけれど、笑われたというのはわかった。
「うん」
彼は僕の涙を拭った。指の先まで温かいなんて、なんだかずるい。
「そんなわけでミナキ君、これからは常識的な時間に帰ってきてね」
「……善処するんだぜ」
「俺は何時でも大丈夫ですよ。マツバと違って、お茶だってちゃんと出します」
ミナキさんは恩人ですから、とハヤトは言う。意外と気が合うというのは知っていたけれど、いつからこんなに仲良くなっていたんだろう。
「それは嬉しいな。マツバは何もしてくれないから」
「まともな時間に帰ってくるんだったら考えるけど」
「普通の時間でも何もしてくれないじゃないか。さっきだってお茶を淹れてくれなかった」
口答えをするミナキ君は無視をして、僕は目を擦り、体を起こす。空き缶を下敷きにしていた背中が今更痛んだ。僕の膝の上に座ったままのハヤトの目元を撫でる。指先を濡らす感触。
「……よかったな、ハヤト君」
ミナキ君の言葉に、彼は顔を伏せたまま何度も何度もうなずいた。
「ごめんね、待たせちゃって」
抱きついてきた彼を受け止める。背中を撫でながら、もう手放せないなあと思う。彼も僕も、もう逃げられない。離れられない。
(END)
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