あったかベーカリー
「ハヤト」
「…………」
「ハヤトってば」
彼は膝を抱えて、僕に背を向けて座っている。僕が一歩近付けば、彼はそれを察して少し離れる。一度は壁際まで追い詰めたけれど、そこで置き時計を投げつけられそうになったからそれ以上追い詰めるのはやめた。最初の距離に戻って、それからはずっとこのままだ。
まずよくなかったのは、今朝僕が眠っている彼の足を踏んでしまった事だと思う。それで起こしてしまった時点で既に不穏な空気が流れていた。その失敗を取り戻そうと朝食の準備をしようとしたら、昨日炊飯器のスイッチを入れ忘れた事が発覚し、慌ててそれを報告しに行った所でちゃぶ台に足をぶつけ、お茶の入った湯呑みを倒し、完全に彼の機嫌を損ねてしまった。最悪な朝だ。
「お腹空いたでしょ? おいしいパン屋が近くにあるって聞いたから、そこ行ってみようよ」
「……明太子、早く食べないと腐る」
ぼそりと彼は言う。不機嫌極まりない声だけど、返事をしてくれるだけマシかもしれない。
「今日の夜食べようよ。晩ご飯の準備も僕がやるから。……茶碗蒸しもつけるよ」
最後に付け加えた一言に、彼の肩がぴくりと動くのが見えた。これはチャンス。
「特別に松茸のお吸い物も作る」
「あれは高いわりにおいしくないから、いらない」
低い声で、いつもより早口でそう吐き捨てられてしまった。彼は丸めた体を更に縮めてしまう。ようやく掴んだ鍵は簡単に手から零れ落ちてしまった。
「ハヤト、ごめんってば。今度からは気をつけるから、こっち向いてよ」
動く気配はなかった。ジムリーダーの威厳などどこへやら。これではただの意地っ張りな子供だ。だけど、こんな姿を見られるのは僕ぐらいかもしれないと思うと少しだけ幸せ。
「本当においしいんだって、そのパン屋。食パンが耳までやわらかくて、ほんのり甘くて」
子供をあやすように、できるだけ優しい声で語りかける。試しに一歩寄ってみた。彼はちらりとこちらを見たがすぐにそっぽを向いてしまう。どうやら逃げる様子はない。もう一歩寄ると今度は離れようとする仕草を見せたので、慌ててその場に留まった。
「パンの切れ端もらってきたら、ポッポたち喜ぶだろうね」
「う……」
今度は明確に反応を見せた。その隙にまた一歩近付く。
「……あんパンは」
「こしあんもつぶあんもあるよ。その日の気分で好きな方が選べる」
彼の頭の上にぐらぐらと揺れる天秤が見えるようだった。僕に対する腹立たしさが片方に。もう片方にはポッポたちの喜びと自分の食欲。あと一押し。
「ホテル食パン」
彼は勢いよくこちらを向く。
「……まるっと焼いたやつ?」
「もちろん。半分だけなんてけちくさい事は言わない」
天秤が傾いて皿が地面にめり込む音さえ聞こえるような気がした。反動で僕への怒りは飛んでいく。彼はすっと立ち上がる。
「着替えてくる」
まだ声は低く抑えられていたけれど、いつも通りになるのも時間の問題だろう。
部屋を出ようとする彼を背後から抱きしめる。一応とどめを刺しておく事にする。
「……ハヤトがこっち向いてくれないの、寂しかったなあ」
彼は溜め息をつき、微かに笑うと、僕の肩にぽすんと頭をぶつける。
(END)
「…………」
「ハヤトってば」
彼は膝を抱えて、僕に背を向けて座っている。僕が一歩近付けば、彼はそれを察して少し離れる。一度は壁際まで追い詰めたけれど、そこで置き時計を投げつけられそうになったからそれ以上追い詰めるのはやめた。最初の距離に戻って、それからはずっとこのままだ。
まずよくなかったのは、今朝僕が眠っている彼の足を踏んでしまった事だと思う。それで起こしてしまった時点で既に不穏な空気が流れていた。その失敗を取り戻そうと朝食の準備をしようとしたら、昨日炊飯器のスイッチを入れ忘れた事が発覚し、慌ててそれを報告しに行った所でちゃぶ台に足をぶつけ、お茶の入った湯呑みを倒し、完全に彼の機嫌を損ねてしまった。最悪な朝だ。
「お腹空いたでしょ? おいしいパン屋が近くにあるって聞いたから、そこ行ってみようよ」
「……明太子、早く食べないと腐る」
ぼそりと彼は言う。不機嫌極まりない声だけど、返事をしてくれるだけマシかもしれない。
「今日の夜食べようよ。晩ご飯の準備も僕がやるから。……茶碗蒸しもつけるよ」
最後に付け加えた一言に、彼の肩がぴくりと動くのが見えた。これはチャンス。
「特別に松茸のお吸い物も作る」
「あれは高いわりにおいしくないから、いらない」
低い声で、いつもより早口でそう吐き捨てられてしまった。彼は丸めた体を更に縮めてしまう。ようやく掴んだ鍵は簡単に手から零れ落ちてしまった。
「ハヤト、ごめんってば。今度からは気をつけるから、こっち向いてよ」
動く気配はなかった。ジムリーダーの威厳などどこへやら。これではただの意地っ張りな子供だ。だけど、こんな姿を見られるのは僕ぐらいかもしれないと思うと少しだけ幸せ。
「本当においしいんだって、そのパン屋。食パンが耳までやわらかくて、ほんのり甘くて」
子供をあやすように、できるだけ優しい声で語りかける。試しに一歩寄ってみた。彼はちらりとこちらを見たがすぐにそっぽを向いてしまう。どうやら逃げる様子はない。もう一歩寄ると今度は離れようとする仕草を見せたので、慌ててその場に留まった。
「パンの切れ端もらってきたら、ポッポたち喜ぶだろうね」
「う……」
今度は明確に反応を見せた。その隙にまた一歩近付く。
「……あんパンは」
「こしあんもつぶあんもあるよ。その日の気分で好きな方が選べる」
彼の頭の上にぐらぐらと揺れる天秤が見えるようだった。僕に対する腹立たしさが片方に。もう片方にはポッポたちの喜びと自分の食欲。あと一押し。
「ホテル食パン」
彼は勢いよくこちらを向く。
「……まるっと焼いたやつ?」
「もちろん。半分だけなんてけちくさい事は言わない」
天秤が傾いて皿が地面にめり込む音さえ聞こえるような気がした。反動で僕への怒りは飛んでいく。彼はすっと立ち上がる。
「着替えてくる」
まだ声は低く抑えられていたけれど、いつも通りになるのも時間の問題だろう。
部屋を出ようとする彼を背後から抱きしめる。一応とどめを刺しておく事にする。
「……ハヤトがこっち向いてくれないの、寂しかったなあ」
彼は溜め息をつき、微かに笑うと、僕の肩にぽすんと頭をぶつける。
(END)
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