扉の向こう
この海の向こうにある景色を、俺はどうやっても見る事ができない。その代わりに彼は見る事ができる。それがうらやましくないと言ったら嘘になる。
「……元は父さんのポケモンなんだ。大切にしてくれよ?」
水晶の舟は柩のようだった。消えてしまうのは俺の方なのに、と可笑しくなった。丸くなって眠る彼の隣にボールを二つ。それから、髪に向日葵を乗せてやった。庭に咲いていた向日葵だった。どうせ俺と一緒に消えてしまうのだから、最後に旅をさせてやるのもいい。
空と同じ、俺よりも明るい色の髪に、少しくすんだ黄色がよく似合っていた。
「女の子みたいだな、君は」
跳ねた髪を指で弾く。彼はむずがるような声を上げ、体を更に丸くする。水面が微かに揺れた。子供っぽい仕草に頬が緩む。俺とよく似ているけれど、俺よりも子供。まだ弱い子供。それが新しい俺だった。
「俺のジム、きちんと守らなかったら承知しないからな」
彼は答えない。多分、今は何をしたって起きない。目を覚ましたら俺と出会ってしまうから。彼と俺は交わってはいけないのだ。彼の世界と俺の世界は全く別のもの。新しい世界には俺は不要。新しいキキョウの町に、新しいジムに、用意されているのは彼の居場所だけ。
だけど、例えば俺が彼を殺してしまったら、その居場所は俺のもの?
そう考えた自分にぞっとした。そんな感情とは別に、体は勝手に動く。彼の細い首に手を伸ばした。両手で首を包み込んだ。
もうとっくに諦めたつもりだったのに。新しい俺を見送って、あとは静かに消えるだけだと思っていたのに。生きる事に、今更執着する事なんてないと思っていたのに。
両手に力を込める。込めようとした。指に、冷たいものが触れさえしなければ。
触れたものに気付いた途端、両腕から力が抜けた。舟の縁に当たり、体の横にだらりと垂れる。舟の上、彼の顔のすぐ近くで二つのモンスターボールが揺れていた。新しい主人を守ろうとするかのように。
「……ごめん。もう、何もしないよ」
俺の体を動かしていた衝動はすっかり消えていた。彼らの主人はもう俺ではない。その事実が突き刺さって、心臓は冷たく凍っていく。崩れ落ちるように舟にもたれかかり、顔を伏せ、目を閉じる。このまま眠ったらもう目覚める事はないのだろう。悲しい事を忘れてしまえるのなら、それは幸せなのかもしれない。
キキョウの町の石畳が鳴る音も、ジムの中に充満する熱気も、手持ちたちの羽の感触も、まだはっきりと思い出せる。だけどもう戻れない。何もかも失ってしまって、一人きりで消えていくのだ。そう思った。
沈みかけた意識を電子音が呼び戻す。ポケギアを確認してみると、メールが来ていた。送り主の予想はつく。メールを開いてみると、予想通りの名前があった。
『自然公園で待ってるから』
それだけが書かれた可愛げも何もないメール。……一人きり、なんてどうして思っていたのだろう。失ったものはもちろん多いけれど、残ったものだってある。
眠ったままの彼の横顔を眺める。跳ねた髪をもう一度弾く。それからモンスターボールを指でなぞる。本当はボールから出して撫でてやりたいけど、もう叶わない。指を離すとまたボールが揺れた。今度は俺の方に向かって。指に触れた温度はさっきと同じのはずなのに、不思議と温かかった。
「元気でな。また、いつか」
いつか、が来ない事は知っている。
「……頼むよ、絶対に、大事にしてくれよ」
頬を撫でると、彼はまた体を丸くする。ボールを抱き込むような形になる。偶然かもしれないけれど、それを見届けたら、もう心配はいらないと思えた。
「さようなら」
呟くと同時に舟は進み始める。揺れながら、ゆっくりと。立ち上がって振り返る。一瞬の眩暈の後に見えたのは見慣れたキキョウの町並み。みんないなくなってしまって、静まり返っているけれど。
俺に残された時間はあと少し。誰と過ごすか、なんて迷うはずもない。
最後に俺はまた振り返る。もう海の景色はどこにもないけれど、それでも。
「強くなれよ、ハヤト」
(END)
「……元は父さんのポケモンなんだ。大切にしてくれよ?」
水晶の舟は柩のようだった。消えてしまうのは俺の方なのに、と可笑しくなった。丸くなって眠る彼の隣にボールを二つ。それから、髪に向日葵を乗せてやった。庭に咲いていた向日葵だった。どうせ俺と一緒に消えてしまうのだから、最後に旅をさせてやるのもいい。
空と同じ、俺よりも明るい色の髪に、少しくすんだ黄色がよく似合っていた。
「女の子みたいだな、君は」
跳ねた髪を指で弾く。彼はむずがるような声を上げ、体を更に丸くする。水面が微かに揺れた。子供っぽい仕草に頬が緩む。俺とよく似ているけれど、俺よりも子供。まだ弱い子供。それが新しい俺だった。
「俺のジム、きちんと守らなかったら承知しないからな」
彼は答えない。多分、今は何をしたって起きない。目を覚ましたら俺と出会ってしまうから。彼と俺は交わってはいけないのだ。彼の世界と俺の世界は全く別のもの。新しい世界には俺は不要。新しいキキョウの町に、新しいジムに、用意されているのは彼の居場所だけ。
だけど、例えば俺が彼を殺してしまったら、その居場所は俺のもの?
そう考えた自分にぞっとした。そんな感情とは別に、体は勝手に動く。彼の細い首に手を伸ばした。両手で首を包み込んだ。
もうとっくに諦めたつもりだったのに。新しい俺を見送って、あとは静かに消えるだけだと思っていたのに。生きる事に、今更執着する事なんてないと思っていたのに。
両手に力を込める。込めようとした。指に、冷たいものが触れさえしなければ。
触れたものに気付いた途端、両腕から力が抜けた。舟の縁に当たり、体の横にだらりと垂れる。舟の上、彼の顔のすぐ近くで二つのモンスターボールが揺れていた。新しい主人を守ろうとするかのように。
「……ごめん。もう、何もしないよ」
俺の体を動かしていた衝動はすっかり消えていた。彼らの主人はもう俺ではない。その事実が突き刺さって、心臓は冷たく凍っていく。崩れ落ちるように舟にもたれかかり、顔を伏せ、目を閉じる。このまま眠ったらもう目覚める事はないのだろう。悲しい事を忘れてしまえるのなら、それは幸せなのかもしれない。
キキョウの町の石畳が鳴る音も、ジムの中に充満する熱気も、手持ちたちの羽の感触も、まだはっきりと思い出せる。だけどもう戻れない。何もかも失ってしまって、一人きりで消えていくのだ。そう思った。
沈みかけた意識を電子音が呼び戻す。ポケギアを確認してみると、メールが来ていた。送り主の予想はつく。メールを開いてみると、予想通りの名前があった。
『自然公園で待ってるから』
それだけが書かれた可愛げも何もないメール。……一人きり、なんてどうして思っていたのだろう。失ったものはもちろん多いけれど、残ったものだってある。
眠ったままの彼の横顔を眺める。跳ねた髪をもう一度弾く。それからモンスターボールを指でなぞる。本当はボールから出して撫でてやりたいけど、もう叶わない。指を離すとまたボールが揺れた。今度は俺の方に向かって。指に触れた温度はさっきと同じのはずなのに、不思議と温かかった。
「元気でな。また、いつか」
いつか、が来ない事は知っている。
「……頼むよ、絶対に、大事にしてくれよ」
頬を撫でると、彼はまた体を丸くする。ボールを抱き込むような形になる。偶然かもしれないけれど、それを見届けたら、もう心配はいらないと思えた。
「さようなら」
呟くと同時に舟は進み始める。揺れながら、ゆっくりと。立ち上がって振り返る。一瞬の眩暈の後に見えたのは見慣れたキキョウの町並み。みんないなくなってしまって、静まり返っているけれど。
俺に残された時間はあと少し。誰と過ごすか、なんて迷うはずもない。
最後に俺はまた振り返る。もう海の景色はどこにもないけれど、それでも。
「強くなれよ、ハヤト」
(END)
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