かなりや
秋も終わりに近付き始めて、最近はすっかり風が冷たくなった。マフラーを巻き直しながらキキョウの街を歩いていく。この街の木々もすっかり色を変えて、見慣れた場所も知らない場所のようになる。
赤や黄色に色付いた木々から目を逸らし、足元に視線を向ける。木々の色は、今の僕にはあまり好ましい色ではなかったから。早足で通りを抜け、まっすぐに玄関を目指す。冷えた手を擦り合わせて温めてから、呼び鈴を押す。
家の中に呼び鈴の音が響くのは聞こえた。だけど返事はなかった。今日は休みだけど、いつも早起きな彼の事だ。この時間に起きていないはずはない。
扉を引いてみると音を立てて開いた。鍵は掛かっていない。一応家にはいるらしい。
「ハヤト?」
僕の声が廊下に反響して消える。返事はない。お邪魔します、と呟いて靴を脱ぎ、家へ上がる。どうして返事がないのだろう。まだ寝ている、という事はないはずだ。だとしたら、どうして。……もしかして、具合が悪くて倒れていたりして。そう思うと途端に心配になってきて、僕は歩く足を速める。
「ハヤト」
一番玄関に近い和室をまず覗く。縁側に腰掛けて空を見上げている彼の姿があっさり見つかって、安心すると同時に少し腹が立った。何度も呼んだのに、どうして返事をしてくれないの?
「ハヤト、いるならちゃんと返事してよ」
彼は振り向かない。むっとした表情を浮かべた自分に気が付いた。
「ねえ、聞いてる?」
少し乱暴に肩に手を置く。手を置いた肩が跳ね上がり、驚いた表情で彼は僕を見上げた。……僕が来たのにも気づかないぐらい、何か、考え事でもしていたのだろうか。
「ハヤト?」
名前を呼ぶ。わずかに開いた彼の口から、声とも息ともつかない細い音が漏れた。
彼は耳を塞ぎ、俯き、何かを拒むように首を横に振った。
「どうしたの?」
怯えているような仕草だった。動揺しているのは確かだった。隣に座り、頭を抱いてやる。原因はわからないけれど、落ち着かせるには多分これが一番。
耳を塞ぐ彼の手が温まる頃、彼は僕の手を取った。僕の手のひらを上に向けて、震える指で文字を書く。
きこえない、という文字の羅列の意味に気が付いた瞬間、背中が冷えていくのを感じた。
あの日からもうすぐ一週間。毎日、ジムが終わってから彼の家に通っている。少しでもよくなっているようにと祈っては裏切られる。その繰り返しだけど。
呼び鈴を鳴らすと、ヨルノズクの鳴き声がして扉が開く。扉を開けてくれたヨルノズクに、お邪魔します、と声を掛ける。そして廊下を跳ねるように移動するヨルノズクの後に続いて歩いていく。大抵和室に案内される。あの日みたいに空を見上げている彼のいる場所に。
当然かもしれないが、彼は僕以上にショックを受けているようだった。聞こえない、という事ももちろんだが、それに伴って声を出して話せなくなる事が彼に取っては辛いのだと思う。先天的なものではなくて後天的なものだから、話していた期間があるから、声の出し方は知っている。だけど発する言葉はかろうじて言葉の形を取っている程度の事。何を言っているのかを把握するのは難しい。
彼の立場が違えば、それがここまで問題にはならなかったかもしれない。僕らはジムリーダーで、バトルをするのが仕事だ。状況や相性に応じて的確な指示を出さなければ、バトルは成立しない。
声が出ない、という事は、もうバトルができないという事。ポケモンバトルと一緒に生きてきたと言っても過言ではない僕らにとって、それはあまりにも辛いものだ。
ヨルノズクの声で我に返る。いつもの和室を通り過ぎて、居間に着いていた。開けたままの扉の向こうから何かを刻む音が聞こえてくる。料理をしているらしい。もしかして、何かの拍子に治ったのかもしれない。そう思いたかった。声を掛けたら、おかえり、って言ってくれるんじゃないかって。
「……ハヤト」
返事はない。やっぱりダメか、と失望する事にも、もう慣れてしまった。
肩を叩こうと手を伸ばすと、ヨルノズクがたしなめるような声を上げた。僕が戸惑っている間に、手元の野菜を切り終わったハヤトが手を止める。それに合わせてヨルノズクは彼の背中を軽く突付いた。彼が振り返り、ヨルノズクを見て、それから僕を見る。
おかえり、と口の動きと掠れた音だけで告げられる。ただいま、と返事をする声は届かないけれど、言いたい事は伝わるはずだ。彼は手をさっと洗うと僕の手を取った。そして手のひらに書く。
『顔色悪い』
彼の手のひらが上を向く。僕はそこに返事を書く。
『寝不足』
ここ最近夢見が悪い。眠ってもすぐに目を覚ましてしまう。魘されているらしく、背中を汗でぐっしょりと濡らして。
僕の書いた文字を読み取って、彼は目を伏せる。自分のせい、と思っているのかもしれない。
『最近忙しいから』
慌てて僕はそう書き足す。ハヤトの事が全く関係ないわけではないのだろう。以前よりも悪い夢を見る事が多くなっていた。ほとんど毎日と言っても差し支えがないほどに。だけど直接の原因は彼ではないし、それにこれ以上の重荷、罪悪感まで抱え込ませたくはなかった。
『泊まっていく?』
その問い掛けにうなずくと、彼は微笑んだ。笑顔を見るのは随分と久しぶりだった。
『わかった 夕飯はもう少し待ってて』
彼は僕に背を向けて、鍋を温め直す。メインディッシュのシチューはもう出来上がっていて、さっき切っていた野菜はサラダ用らしい。
シチューなんて珍しいね、と声を掛けようとしてやめた。何気ない会話が簡単にできるというのがどれほど幸せな事であるかなんて、僕は、それからきっと彼も、今まで気付かなかった。
食器棚から皿を取り出し、台所の空いた場所に置く。彼の口が動く。多分、ありがとう、だ。
シチューをよそってサラダを分けて、夕飯は完成。いただきます、と手を合わせる。
『シチューなんて珍しいね』
机の上に置かれたメモ用紙に、さっき言おうとした事を書く。普段……今までなら行儀が悪い、と叱られてしまいそうな行動だ。
『たまには。牛乳使いたかったから』
『間違って買ったりしたの?』
『違う』
ハヤトはその文字の斜め下の辺りに書き足す。
『乳製品を食べると、よく眠れるんだって』
睡眠不足だと言った僕に気を遣ってくれたのだろうか。自分だって大変な状態なのに、と思うと、鼻がつんと痛くなった。潤んだ目を誤魔化そうとシチューを掬って口へ運ぶ。そして鼻を一度啜る。
「おいしい」
そう言って頭をぐしゃぐしゃと撫でてやる。彼は僕の手に手を重ね、溜め息をついて笑う。下がった眉毛のせいか、どこか泣き出しそうにも見えるけれど。
彼の作ってくれたホットミルクを飲んでから布団に入った。いつもよりも温まった体に、今日はよく眠れそうだ、と感じる。ぐっすり眠って、朝起きたら顔色もよくなっていればいい。ハヤトにもう余計な心配をかけなくて済むように。そう思いながら目を閉じた。
目の前に広がる色彩に、僕の願いが打ち砕かれた事を知らされる。
赤、黄、橙。秋の色。紅葉の色。あの場所の色。あの鳥の色。鮮やかな色彩が目に刺さるようだった。僕は目を閉じる。目を閉じても、頭の中に流れ込んでくる。絵の具を垂らしてかき回したような無秩序な映像。それがだんだんとホウオウの形を作る。僕は目を開けて手を伸ばす。指先がホウオウに近づいて、触れる。その直前にホウオウの体は溶けて消える。
届かない。どうやっても。想像していたほど落ち込む事はなかったけれど、ふとした瞬間に恐ろしくなる。明るい未来なんてもう描けないという事。希望を持ってもそれは叶わないという事。ホウオウはあの子の手に渡った。もう僕の所には来てくれない。ホウオウと一緒にいる未来を描く事すら許されなくなった。それならもう、忘れてしまいたいのに。毎晩僕を苦しめるのはもうやめて。眠らせて。せめて眠っている間だけでも忘れていたい。
助けて、と呟いた。本当はそう叫びたかった。叫ぼうとした。口を開けて、息を吸って、あとは思い切り吐き出すだけ。なのに、喉からは弱々しい声しか出てこない。毒々しい色の奔流の中に掠れた声が広がる。
……僕の、声ではない。掠れた、でも優しげな音だった。不安定に揺れる音のかけらが時折組み合わさって、音の繋がりを作り出す。その音階には聞き覚えがあった。歌だ。子守唄が響いて、周りの色が徐々に薄れていく。目を刺す色は薄れて、やわらかな暖色に変わり、僕を包み込む。その温かさに触れて安心した僕は目を閉じた。猛烈な眠気が襲ってきて、抵抗もなく意識を手放す。
眠りに就くその直前。唇に何かが触れて、離れた。音が聞こえた。僕の名前を呼んでいた。
(END)
赤や黄色に色付いた木々から目を逸らし、足元に視線を向ける。木々の色は、今の僕にはあまり好ましい色ではなかったから。早足で通りを抜け、まっすぐに玄関を目指す。冷えた手を擦り合わせて温めてから、呼び鈴を押す。
家の中に呼び鈴の音が響くのは聞こえた。だけど返事はなかった。今日は休みだけど、いつも早起きな彼の事だ。この時間に起きていないはずはない。
扉を引いてみると音を立てて開いた。鍵は掛かっていない。一応家にはいるらしい。
「ハヤト?」
僕の声が廊下に反響して消える。返事はない。お邪魔します、と呟いて靴を脱ぎ、家へ上がる。どうして返事がないのだろう。まだ寝ている、という事はないはずだ。だとしたら、どうして。……もしかして、具合が悪くて倒れていたりして。そう思うと途端に心配になってきて、僕は歩く足を速める。
「ハヤト」
一番玄関に近い和室をまず覗く。縁側に腰掛けて空を見上げている彼の姿があっさり見つかって、安心すると同時に少し腹が立った。何度も呼んだのに、どうして返事をしてくれないの?
「ハヤト、いるならちゃんと返事してよ」
彼は振り向かない。むっとした表情を浮かべた自分に気が付いた。
「ねえ、聞いてる?」
少し乱暴に肩に手を置く。手を置いた肩が跳ね上がり、驚いた表情で彼は僕を見上げた。……僕が来たのにも気づかないぐらい、何か、考え事でもしていたのだろうか。
「ハヤト?」
名前を呼ぶ。わずかに開いた彼の口から、声とも息ともつかない細い音が漏れた。
彼は耳を塞ぎ、俯き、何かを拒むように首を横に振った。
「どうしたの?」
怯えているような仕草だった。動揺しているのは確かだった。隣に座り、頭を抱いてやる。原因はわからないけれど、落ち着かせるには多分これが一番。
耳を塞ぐ彼の手が温まる頃、彼は僕の手を取った。僕の手のひらを上に向けて、震える指で文字を書く。
きこえない、という文字の羅列の意味に気が付いた瞬間、背中が冷えていくのを感じた。
あの日からもうすぐ一週間。毎日、ジムが終わってから彼の家に通っている。少しでもよくなっているようにと祈っては裏切られる。その繰り返しだけど。
呼び鈴を鳴らすと、ヨルノズクの鳴き声がして扉が開く。扉を開けてくれたヨルノズクに、お邪魔します、と声を掛ける。そして廊下を跳ねるように移動するヨルノズクの後に続いて歩いていく。大抵和室に案内される。あの日みたいに空を見上げている彼のいる場所に。
当然かもしれないが、彼は僕以上にショックを受けているようだった。聞こえない、という事ももちろんだが、それに伴って声を出して話せなくなる事が彼に取っては辛いのだと思う。先天的なものではなくて後天的なものだから、話していた期間があるから、声の出し方は知っている。だけど発する言葉はかろうじて言葉の形を取っている程度の事。何を言っているのかを把握するのは難しい。
彼の立場が違えば、それがここまで問題にはならなかったかもしれない。僕らはジムリーダーで、バトルをするのが仕事だ。状況や相性に応じて的確な指示を出さなければ、バトルは成立しない。
声が出ない、という事は、もうバトルができないという事。ポケモンバトルと一緒に生きてきたと言っても過言ではない僕らにとって、それはあまりにも辛いものだ。
ヨルノズクの声で我に返る。いつもの和室を通り過ぎて、居間に着いていた。開けたままの扉の向こうから何かを刻む音が聞こえてくる。料理をしているらしい。もしかして、何かの拍子に治ったのかもしれない。そう思いたかった。声を掛けたら、おかえり、って言ってくれるんじゃないかって。
「……ハヤト」
返事はない。やっぱりダメか、と失望する事にも、もう慣れてしまった。
肩を叩こうと手を伸ばすと、ヨルノズクがたしなめるような声を上げた。僕が戸惑っている間に、手元の野菜を切り終わったハヤトが手を止める。それに合わせてヨルノズクは彼の背中を軽く突付いた。彼が振り返り、ヨルノズクを見て、それから僕を見る。
おかえり、と口の動きと掠れた音だけで告げられる。ただいま、と返事をする声は届かないけれど、言いたい事は伝わるはずだ。彼は手をさっと洗うと僕の手を取った。そして手のひらに書く。
『顔色悪い』
彼の手のひらが上を向く。僕はそこに返事を書く。
『寝不足』
ここ最近夢見が悪い。眠ってもすぐに目を覚ましてしまう。魘されているらしく、背中を汗でぐっしょりと濡らして。
僕の書いた文字を読み取って、彼は目を伏せる。自分のせい、と思っているのかもしれない。
『最近忙しいから』
慌てて僕はそう書き足す。ハヤトの事が全く関係ないわけではないのだろう。以前よりも悪い夢を見る事が多くなっていた。ほとんど毎日と言っても差し支えがないほどに。だけど直接の原因は彼ではないし、それにこれ以上の重荷、罪悪感まで抱え込ませたくはなかった。
『泊まっていく?』
その問い掛けにうなずくと、彼は微笑んだ。笑顔を見るのは随分と久しぶりだった。
『わかった 夕飯はもう少し待ってて』
彼は僕に背を向けて、鍋を温め直す。メインディッシュのシチューはもう出来上がっていて、さっき切っていた野菜はサラダ用らしい。
シチューなんて珍しいね、と声を掛けようとしてやめた。何気ない会話が簡単にできるというのがどれほど幸せな事であるかなんて、僕は、それからきっと彼も、今まで気付かなかった。
食器棚から皿を取り出し、台所の空いた場所に置く。彼の口が動く。多分、ありがとう、だ。
シチューをよそってサラダを分けて、夕飯は完成。いただきます、と手を合わせる。
『シチューなんて珍しいね』
机の上に置かれたメモ用紙に、さっき言おうとした事を書く。普段……今までなら行儀が悪い、と叱られてしまいそうな行動だ。
『たまには。牛乳使いたかったから』
『間違って買ったりしたの?』
『違う』
ハヤトはその文字の斜め下の辺りに書き足す。
『乳製品を食べると、よく眠れるんだって』
睡眠不足だと言った僕に気を遣ってくれたのだろうか。自分だって大変な状態なのに、と思うと、鼻がつんと痛くなった。潤んだ目を誤魔化そうとシチューを掬って口へ運ぶ。そして鼻を一度啜る。
「おいしい」
そう言って頭をぐしゃぐしゃと撫でてやる。彼は僕の手に手を重ね、溜め息をついて笑う。下がった眉毛のせいか、どこか泣き出しそうにも見えるけれど。
彼の作ってくれたホットミルクを飲んでから布団に入った。いつもよりも温まった体に、今日はよく眠れそうだ、と感じる。ぐっすり眠って、朝起きたら顔色もよくなっていればいい。ハヤトにもう余計な心配をかけなくて済むように。そう思いながら目を閉じた。
目の前に広がる色彩に、僕の願いが打ち砕かれた事を知らされる。
赤、黄、橙。秋の色。紅葉の色。あの場所の色。あの鳥の色。鮮やかな色彩が目に刺さるようだった。僕は目を閉じる。目を閉じても、頭の中に流れ込んでくる。絵の具を垂らしてかき回したような無秩序な映像。それがだんだんとホウオウの形を作る。僕は目を開けて手を伸ばす。指先がホウオウに近づいて、触れる。その直前にホウオウの体は溶けて消える。
届かない。どうやっても。想像していたほど落ち込む事はなかったけれど、ふとした瞬間に恐ろしくなる。明るい未来なんてもう描けないという事。希望を持ってもそれは叶わないという事。ホウオウはあの子の手に渡った。もう僕の所には来てくれない。ホウオウと一緒にいる未来を描く事すら許されなくなった。それならもう、忘れてしまいたいのに。毎晩僕を苦しめるのはもうやめて。眠らせて。せめて眠っている間だけでも忘れていたい。
助けて、と呟いた。本当はそう叫びたかった。叫ぼうとした。口を開けて、息を吸って、あとは思い切り吐き出すだけ。なのに、喉からは弱々しい声しか出てこない。毒々しい色の奔流の中に掠れた声が広がる。
……僕の、声ではない。掠れた、でも優しげな音だった。不安定に揺れる音のかけらが時折組み合わさって、音の繋がりを作り出す。その音階には聞き覚えがあった。歌だ。子守唄が響いて、周りの色が徐々に薄れていく。目を刺す色は薄れて、やわらかな暖色に変わり、僕を包み込む。その温かさに触れて安心した僕は目を閉じた。猛烈な眠気が襲ってきて、抵抗もなく意識を手放す。
眠りに就くその直前。唇に何かが触れて、離れた。音が聞こえた。僕の名前を呼んでいた。
(END)
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