ひと夏の
遠くの空に入道雲が見えた。これからやってくるであろう雷に怯えてか、ピジョットは弱々しい声を上げる。
「もう降りるか。雨が降るかもしれないしな」
声を掛けてやりながら頭を撫でると、ピジョットはいつものように力強い鳴き声を上げた。旋回し、入道雲に背を向けて、川に沿って飛んでいく。肌に当たる空気は熱と湿気を含んでいてお世辞にも爽やかとはいえないが、それでもやっぱり飛ぶのは心地がいい。頬を滑る汗を拭って目を閉じる。風の音と蝉の声が大きく聞こえるようになった。
風を切る音の中で、違う音が微かに聞こえた。目を開けて見下ろすと、川へと下りられる階段の上でマツバさんが手を振っていた。高度とスピードを落としながら、マツバさんの近くに降りる。熱風に晒される事はなくなったけれど、それで暑さが和らぐわけでもない。それも夏らしい、と思う事にした。
「おかえり」
ピジョットをボールに戻すと、マツバさんは俺の頭に何かを乗せた。頭に手を伸ばすと、ざらざらとした感触が指に伝わる。
「ヤナギさんが買ってきてくれたんだって。ほら、僕もお揃い」
マツバさんは首の後ろに回していた麦わら帽子を被る。妙に似合っていて悔しい。
「渡そうと思って探してたんだ。でも見つからないから帰ろうと思ってたら、飛んでるハヤトを見つけてね。一緒に帰ろ」
「はい」
マツバさんは屈んで、足元に置いてあった袋を持ち上げた。袋の中を覗き込むと、たくさんの野菜が入っていた。トウモロコシが袋から頭を出している。
「どうしたんですか、こんなに」
「ああ、歩き回ってたらくれたんだ。……畑の近くを通るたびに増えていくから大変だった」
「なるほど……」
次々と野菜を渡されて、困り半分の笑顔を浮かべながら受け取るマツバさんが容易に想像できた。きっとみんな放っておけないのだろう。整った顔をしているし、人当たりもいいし。俺だって、男じゃなかったらきっと気になってしまう。……男でもこうなのだから。
「はい」
「え?」
トマトを差し出され、俺は彼の顔を見る。マツバさんは笑う。
「こうやって獲れたてのトマト齧るの、一度やってみたかったんだ。ハヤトもどう?」
「あ、はい。いただきます」
トマトは手の中にすっぽり収まるほどの大きさだった。マツバさんはトマトのへたを取り、齧りつく。それから種が落ちそうになったのか、顔を上に向けて唸った。俺もマツバさんの真似をした。いつも食べているトマトより酸味が強くて、それから植物のにおいが強い。少し土の味もした。
「自然の味だね。野菜を食べた、っていう感じがする」
口の周りを拭ってマツバさんは言う。俺は口の中でトマトの皮を噛みながら頷いた。店で売っているトマトに比べて皮が厚くて堅い。甘さはもう少し欲しいけれど、皮の堅さはこれぐらいの方が好みだ。
俺が口の中のトマトを飲み込むまでマツバさんは待っていてくれた。飲み込んだのを確認すると、白っぽい土が剥き出しの道を歩き出す。俺はマツバさんの隣に並んで歩く。
「このままで食べるには少し多いし……、何にしたらおいしいかな、この野菜」
マツバさんと目を合わせるには、俺は少し上を向かなければならない。俺の背丈はマツバさんの肩の辺りまでしかなかった。
「トウモロコシとトマト以外には何があるんですか?」
「ナスとキュウリだったかな」
「うーん、ナスとトマトはカレーに入れたらおいしそうですね」
「カレーかあ。いいね」
「今日はカレーにしましょうか」
「うん、食べてみたい」
風が少し冷たく感じた。もう雨が近いのだろうかと思い、振り返って空を見上げたけれど特に変わりはなかった。相変わらず日差しは強くて、蝉も元気だ。
「どうかした?」
「風が、ちょっと冷たかったので。でも雨ではなさそうです」
「帽子のおかげかな?」
「あ、そうかもしれないですね」
振り返った時にずれてしまった帽子を直す。マツバさんが隣で微かに笑い声を上げる。
「帽子似合うね、ハヤト」
「え……、変じゃないですか? 帽子なんてほとんど被った事がないから、どうも落ちつかなくて」
「ああ、普段被らないと確かに落ち着かないよね。でも大丈夫。おかしくないよ」
マツバさんは帽子の上から、頭を軽く二度叩く。褒められた事が嬉しいのか、触れてもらえたのが嬉しいのか。どちらにしたって大した事ではないけれど構わない。
「マツバさんも似合ってますよ。いつも以上に爽やかで」
「おっ、嬉しい事言ってくれるね。でも、褒めても何も出ないよ」
「本当に何も出ないんですか?」
「野菜なら出せるよ」
「ダメです。それは晩ご飯の食材です」
くだらない事を言い合いながら歩く。途中で会った人からまた野菜をもらって、二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
「キュウリ増えましたね。浅漬けも作りましょうか」
「うん、食べたい。……それにしても、なんていうかさ、みんな気前がいいよね」
「そうですね。なんだか温かいです」
重さが増した袋からトウモロコシを取り出して抱えた。この道を右に曲がって少し進むと舗装された道に変わり、そのまま道なりに歩いていけば、俺達が泊まっている宿に着く。
「あ、ハヤト。こっち、近道があるんだ」
「え、そうなんですか?」
「うん、ツクシが見つけてきた」
右に曲がるべき所をまっすぐ進む。道は舗装されていないどころか、どんどん森の中へ進んでいく事で足場は悪くなる。両手が塞がっているというだけで、歩くのが自然と慎重になってしまう。
「ハヤト、大丈夫?」
俺が足元ばかりを見ながら歩いている間に、マツバさんは随分と先に進んでいた。
「大丈夫です。ごめんなさい、遅くて」
「ゆっくりでいいよ。待ってるから」
そうは言ってくれるけれど、あまり待たせるのも申し訳ない。それにもうすぐ雨が降るかもしれない。見上げると、木漏れ日はすっかり弱くなっていた。地中から顔を出した木の根につまずかないように、ぬかるんだ地面に足を取られないように。そう気をつけながら、小走りでマツバさんの元へと向かう。
「あとはまっすぐ行くだけ。そうすると、ちょうど宿の正面に出るんだ」
息を切らしながら返事をした。普段から鍛えてはいるけれど、足場の悪い所での鍛錬はしていなかった、と少し反省。
生ぬるい空気の中で、土のにおいが強くなっている事に気が付いた。雨は近い。急いだ方がよさそうだ。
「みんな大丈夫かな。ツクシは多分外だし、アカネたちも出掛けたみたいだし」
「雨宿りができる場所にいるといいんですけど……。俺たちも危ないかもしれませんね」
「そうだね、少し急ごうか」
早足で宿を目指す。木々の間から宿が見えた辺りで、腕に雨粒が触れたのを感じた。
「うわ、降ってきちゃった」
あっという間に雨は強くなる。大粒の雨が麦わら帽子を叩き、肩を濡らしていく。
森を抜けた。示し合わせたわけでもないのに、二人揃って走り出す。水溜りの水を跳ね上げながら、雨で霞んだ景色の中を走る。平らな場所を走るならばマツバさんよりも俺の方が少しだけ早い。森の出口から宿までは100メートルといったところ。駆け抜けて、軒下に辿り着く。揃って溜め息をついた、途端に、マツバさんが手に提げた袋が破れた。野菜が地面に落ちる。最後のトマトが転がり落ちた瞬間、堪えきれずに噴き出してしまった。
「破れちゃったね」
「です、ね」
「ちゃんとここまで耐えるなんて、空気の読める袋だなあ」
ツクシもアカネたちもまだ外にいるようだった。玄関にはヤナギさんの靴とシジマさんの靴だけが残されていた。帽子を靴箱の上に乗せ、野菜を拾い集めて台所に運ぶ。流しにおいて息をつくと、突然視界が白くなった。
「タオル。夏だからいいだろうけど、拭かないと風邪引くかもしれないから」
頭に載せられたタオルで髪を拭かれる。ぎこちない手付きだった。なんだって軽くこなしてしまう人だと思っていたから、意外だ。
「ありがとうございます」
髪に触れる手の大きさに気付くと、なんだか落ち着かない気分になった。その一方でまだ触れていて欲しい、とも思う。矛盾したような複雑な気持ちは、つまり、そういう事なのだろう。もう認めるしかない。
「マツバさん」
「どうしたの?」
「また来年の夏も、こうやって」
「うん」
みんなで来られるといいね、とマツバさんは笑う。俺が言いたいのは、そういう事ではなくて。
触れていて、と呟いた言葉は窓を叩く雨音の中に消えた。
(END)
「もう降りるか。雨が降るかもしれないしな」
声を掛けてやりながら頭を撫でると、ピジョットはいつものように力強い鳴き声を上げた。旋回し、入道雲に背を向けて、川に沿って飛んでいく。肌に当たる空気は熱と湿気を含んでいてお世辞にも爽やかとはいえないが、それでもやっぱり飛ぶのは心地がいい。頬を滑る汗を拭って目を閉じる。風の音と蝉の声が大きく聞こえるようになった。
風を切る音の中で、違う音が微かに聞こえた。目を開けて見下ろすと、川へと下りられる階段の上でマツバさんが手を振っていた。高度とスピードを落としながら、マツバさんの近くに降りる。熱風に晒される事はなくなったけれど、それで暑さが和らぐわけでもない。それも夏らしい、と思う事にした。
「おかえり」
ピジョットをボールに戻すと、マツバさんは俺の頭に何かを乗せた。頭に手を伸ばすと、ざらざらとした感触が指に伝わる。
「ヤナギさんが買ってきてくれたんだって。ほら、僕もお揃い」
マツバさんは首の後ろに回していた麦わら帽子を被る。妙に似合っていて悔しい。
「渡そうと思って探してたんだ。でも見つからないから帰ろうと思ってたら、飛んでるハヤトを見つけてね。一緒に帰ろ」
「はい」
マツバさんは屈んで、足元に置いてあった袋を持ち上げた。袋の中を覗き込むと、たくさんの野菜が入っていた。トウモロコシが袋から頭を出している。
「どうしたんですか、こんなに」
「ああ、歩き回ってたらくれたんだ。……畑の近くを通るたびに増えていくから大変だった」
「なるほど……」
次々と野菜を渡されて、困り半分の笑顔を浮かべながら受け取るマツバさんが容易に想像できた。きっとみんな放っておけないのだろう。整った顔をしているし、人当たりもいいし。俺だって、男じゃなかったらきっと気になってしまう。……男でもこうなのだから。
「はい」
「え?」
トマトを差し出され、俺は彼の顔を見る。マツバさんは笑う。
「こうやって獲れたてのトマト齧るの、一度やってみたかったんだ。ハヤトもどう?」
「あ、はい。いただきます」
トマトは手の中にすっぽり収まるほどの大きさだった。マツバさんはトマトのへたを取り、齧りつく。それから種が落ちそうになったのか、顔を上に向けて唸った。俺もマツバさんの真似をした。いつも食べているトマトより酸味が強くて、それから植物のにおいが強い。少し土の味もした。
「自然の味だね。野菜を食べた、っていう感じがする」
口の周りを拭ってマツバさんは言う。俺は口の中でトマトの皮を噛みながら頷いた。店で売っているトマトに比べて皮が厚くて堅い。甘さはもう少し欲しいけれど、皮の堅さはこれぐらいの方が好みだ。
俺が口の中のトマトを飲み込むまでマツバさんは待っていてくれた。飲み込んだのを確認すると、白っぽい土が剥き出しの道を歩き出す。俺はマツバさんの隣に並んで歩く。
「このままで食べるには少し多いし……、何にしたらおいしいかな、この野菜」
マツバさんと目を合わせるには、俺は少し上を向かなければならない。俺の背丈はマツバさんの肩の辺りまでしかなかった。
「トウモロコシとトマト以外には何があるんですか?」
「ナスとキュウリだったかな」
「うーん、ナスとトマトはカレーに入れたらおいしそうですね」
「カレーかあ。いいね」
「今日はカレーにしましょうか」
「うん、食べてみたい」
風が少し冷たく感じた。もう雨が近いのだろうかと思い、振り返って空を見上げたけれど特に変わりはなかった。相変わらず日差しは強くて、蝉も元気だ。
「どうかした?」
「風が、ちょっと冷たかったので。でも雨ではなさそうです」
「帽子のおかげかな?」
「あ、そうかもしれないですね」
振り返った時にずれてしまった帽子を直す。マツバさんが隣で微かに笑い声を上げる。
「帽子似合うね、ハヤト」
「え……、変じゃないですか? 帽子なんてほとんど被った事がないから、どうも落ちつかなくて」
「ああ、普段被らないと確かに落ち着かないよね。でも大丈夫。おかしくないよ」
マツバさんは帽子の上から、頭を軽く二度叩く。褒められた事が嬉しいのか、触れてもらえたのが嬉しいのか。どちらにしたって大した事ではないけれど構わない。
「マツバさんも似合ってますよ。いつも以上に爽やかで」
「おっ、嬉しい事言ってくれるね。でも、褒めても何も出ないよ」
「本当に何も出ないんですか?」
「野菜なら出せるよ」
「ダメです。それは晩ご飯の食材です」
くだらない事を言い合いながら歩く。途中で会った人からまた野菜をもらって、二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
「キュウリ増えましたね。浅漬けも作りましょうか」
「うん、食べたい。……それにしても、なんていうかさ、みんな気前がいいよね」
「そうですね。なんだか温かいです」
重さが増した袋からトウモロコシを取り出して抱えた。この道を右に曲がって少し進むと舗装された道に変わり、そのまま道なりに歩いていけば、俺達が泊まっている宿に着く。
「あ、ハヤト。こっち、近道があるんだ」
「え、そうなんですか?」
「うん、ツクシが見つけてきた」
右に曲がるべき所をまっすぐ進む。道は舗装されていないどころか、どんどん森の中へ進んでいく事で足場は悪くなる。両手が塞がっているというだけで、歩くのが自然と慎重になってしまう。
「ハヤト、大丈夫?」
俺が足元ばかりを見ながら歩いている間に、マツバさんは随分と先に進んでいた。
「大丈夫です。ごめんなさい、遅くて」
「ゆっくりでいいよ。待ってるから」
そうは言ってくれるけれど、あまり待たせるのも申し訳ない。それにもうすぐ雨が降るかもしれない。見上げると、木漏れ日はすっかり弱くなっていた。地中から顔を出した木の根につまずかないように、ぬかるんだ地面に足を取られないように。そう気をつけながら、小走りでマツバさんの元へと向かう。
「あとはまっすぐ行くだけ。そうすると、ちょうど宿の正面に出るんだ」
息を切らしながら返事をした。普段から鍛えてはいるけれど、足場の悪い所での鍛錬はしていなかった、と少し反省。
生ぬるい空気の中で、土のにおいが強くなっている事に気が付いた。雨は近い。急いだ方がよさそうだ。
「みんな大丈夫かな。ツクシは多分外だし、アカネたちも出掛けたみたいだし」
「雨宿りができる場所にいるといいんですけど……。俺たちも危ないかもしれませんね」
「そうだね、少し急ごうか」
早足で宿を目指す。木々の間から宿が見えた辺りで、腕に雨粒が触れたのを感じた。
「うわ、降ってきちゃった」
あっという間に雨は強くなる。大粒の雨が麦わら帽子を叩き、肩を濡らしていく。
森を抜けた。示し合わせたわけでもないのに、二人揃って走り出す。水溜りの水を跳ね上げながら、雨で霞んだ景色の中を走る。平らな場所を走るならばマツバさんよりも俺の方が少しだけ早い。森の出口から宿までは100メートルといったところ。駆け抜けて、軒下に辿り着く。揃って溜め息をついた、途端に、マツバさんが手に提げた袋が破れた。野菜が地面に落ちる。最後のトマトが転がり落ちた瞬間、堪えきれずに噴き出してしまった。
「破れちゃったね」
「です、ね」
「ちゃんとここまで耐えるなんて、空気の読める袋だなあ」
ツクシもアカネたちもまだ外にいるようだった。玄関にはヤナギさんの靴とシジマさんの靴だけが残されていた。帽子を靴箱の上に乗せ、野菜を拾い集めて台所に運ぶ。流しにおいて息をつくと、突然視界が白くなった。
「タオル。夏だからいいだろうけど、拭かないと風邪引くかもしれないから」
頭に載せられたタオルで髪を拭かれる。ぎこちない手付きだった。なんだって軽くこなしてしまう人だと思っていたから、意外だ。
「ありがとうございます」
髪に触れる手の大きさに気付くと、なんだか落ち着かない気分になった。その一方でまだ触れていて欲しい、とも思う。矛盾したような複雑な気持ちは、つまり、そういう事なのだろう。もう認めるしかない。
「マツバさん」
「どうしたの?」
「また来年の夏も、こうやって」
「うん」
みんなで来られるといいね、とマツバさんは笑う。俺が言いたいのは、そういう事ではなくて。
触れていて、と呟いた言葉は窓を叩く雨音の中に消えた。
(END)
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