馬鹿とお酒
香ばしいにおいが鼻をくすぐったけれど、残念ながら食欲は湧かなかった。目を開ける。すっかり日は落ちていて、電気のついていない部屋は暗い。
「……マツバ」
傍にいるはずの人の名前を呼ぶ。返事はなかった。マツバ、ともう一度、精一杯お腹に力を入れて呼んでみたけれど、やっぱり返事はない。不安が一気に押し寄せる。いつもの何倍もの時間を掛けて体を起こして辺りを見回す。ちゃぶ台に突っ伏して眠っているマツバの姿が見えて、安心した。
起き上がるのですら辛い体では、立ち上がるなんてもってのほかだ。赤ん坊のように四つん這いになりながら彼に近づき、隣にぺたりと座る。ちゃぶ台の上には焼きとうもろこしと林檎飴、みたらし団子、それから缶ビールが何本か置かれていた。一つ一つ持ち上げてみる。そのうちの一つが飲みかけだっただけで、他は全て空だ。
机の上のものたちは、俺のために買ってきてくれたのだろう。ここ数日体調がよくなくて、今日も外に出られそうにはなかった。そんな俺のために。マツバが家を出てすぐに眠ってしまって、起きたのが今。俺が起きるのを待ちきれずに飲み始めて、ついつい飲み過ぎてしまった。そんな所だろう。悪い事をしてしまった。
「ごめん、マツバ」
眠る彼の頭を撫でる。髪が少し伸びたようだった。体調がよくなったら切ってやろう、と思う。
窓の外を眺めながら頭を撫で続ける。視界の端で影が動くのが見えて、今日が満月だという事に気が付いた。ここからでは見えないが、窓の側まで歩いていけば見えるのだろう。とてもそんな気力はないのだけれど。
「んん……」
寝言のようなぼんやりとした声を上げて、彼が首を動かす。癖のある髪が指をくすぐる。手を離すと、マツバは片腕を伸ばして俺の体に手を回す。弱々しいけれど、俺を傍に寄せようとしているという意図は伝わってきた。畳を擦る音を立てながら、俺はマツバに少し近付く。
「わっ」
途端にマツバが両腕で抱きついてきた。いつもの俺なら支えられるのだろうけれど、いつもよりも弱ってしまっている俺には無理だった。二人で一緒に倒れ込み、俺は壁に後頭部をぶつけた。俺の胸に顔を押し付けて、彼は言う。
「ハヤトの馬鹿」
馬鹿とはなんだ、と叱ってやろうかとも思ったけれども、彼の声があまりにも萎れていたからやめた。代わりに、また頭を撫でてやった。
「一人でお祭りなんか行っても、楽しくないよ」
呂律の回っていない話し方に、そういえばお酒を飲んでいたと思い出す。酔っているのだろう。
「冷や麦ももう飽きた。たくさんお酒も飲んだ。全部ハヤトが悪い」
ハヤトが悪い、と繰り返す。子供のような言い方だった。……怒っている理由も、多分、子供みたいな理由なのだろう。
床に手をつき、体を引きずり上げて壁にもたれる。マツバが顔を上げる。彼の顔の方が下にあるのは珍しい。さっきマツバがしたように、彼の肩に手を回して引き寄せる仕草をする。さっきの俺と同じように、マツバは顔を近づけてくる。
「……寂しい思いさせて、ごめん」
答える間を与えずに軽く口付ける。眩暈がするのは体調がよくないから、と俺の頭は正しい判断をしているけれど、それは無視をする事にした。眩暈がするのは酔っているから。マツバと一緒に酔っているから。
「ふわふわする。あと、酒臭い」
「……だから、全部ハヤトのせい」
相変わらず呂律は回らないまま。マツバは俺の肩に頭を預ける。そしてすぐに寝息を立て始めた。その表情は優しくて、どうやら安心したらしいと悟る。
「早く元気になって、おいしいもの作ってやるよ」
そう呟いて背中を叩けば、彼は眠ったまま俺の浴衣を握る。おやすみ、と囁いて、俺も目を閉じた。
(END)
「……マツバ」
傍にいるはずの人の名前を呼ぶ。返事はなかった。マツバ、ともう一度、精一杯お腹に力を入れて呼んでみたけれど、やっぱり返事はない。不安が一気に押し寄せる。いつもの何倍もの時間を掛けて体を起こして辺りを見回す。ちゃぶ台に突っ伏して眠っているマツバの姿が見えて、安心した。
起き上がるのですら辛い体では、立ち上がるなんてもってのほかだ。赤ん坊のように四つん這いになりながら彼に近づき、隣にぺたりと座る。ちゃぶ台の上には焼きとうもろこしと林檎飴、みたらし団子、それから缶ビールが何本か置かれていた。一つ一つ持ち上げてみる。そのうちの一つが飲みかけだっただけで、他は全て空だ。
机の上のものたちは、俺のために買ってきてくれたのだろう。ここ数日体調がよくなくて、今日も外に出られそうにはなかった。そんな俺のために。マツバが家を出てすぐに眠ってしまって、起きたのが今。俺が起きるのを待ちきれずに飲み始めて、ついつい飲み過ぎてしまった。そんな所だろう。悪い事をしてしまった。
「ごめん、マツバ」
眠る彼の頭を撫でる。髪が少し伸びたようだった。体調がよくなったら切ってやろう、と思う。
窓の外を眺めながら頭を撫で続ける。視界の端で影が動くのが見えて、今日が満月だという事に気が付いた。ここからでは見えないが、窓の側まで歩いていけば見えるのだろう。とてもそんな気力はないのだけれど。
「んん……」
寝言のようなぼんやりとした声を上げて、彼が首を動かす。癖のある髪が指をくすぐる。手を離すと、マツバは片腕を伸ばして俺の体に手を回す。弱々しいけれど、俺を傍に寄せようとしているという意図は伝わってきた。畳を擦る音を立てながら、俺はマツバに少し近付く。
「わっ」
途端にマツバが両腕で抱きついてきた。いつもの俺なら支えられるのだろうけれど、いつもよりも弱ってしまっている俺には無理だった。二人で一緒に倒れ込み、俺は壁に後頭部をぶつけた。俺の胸に顔を押し付けて、彼は言う。
「ハヤトの馬鹿」
馬鹿とはなんだ、と叱ってやろうかとも思ったけれども、彼の声があまりにも萎れていたからやめた。代わりに、また頭を撫でてやった。
「一人でお祭りなんか行っても、楽しくないよ」
呂律の回っていない話し方に、そういえばお酒を飲んでいたと思い出す。酔っているのだろう。
「冷や麦ももう飽きた。たくさんお酒も飲んだ。全部ハヤトが悪い」
ハヤトが悪い、と繰り返す。子供のような言い方だった。……怒っている理由も、多分、子供みたいな理由なのだろう。
床に手をつき、体を引きずり上げて壁にもたれる。マツバが顔を上げる。彼の顔の方が下にあるのは珍しい。さっきマツバがしたように、彼の肩に手を回して引き寄せる仕草をする。さっきの俺と同じように、マツバは顔を近づけてくる。
「……寂しい思いさせて、ごめん」
答える間を与えずに軽く口付ける。眩暈がするのは体調がよくないから、と俺の頭は正しい判断をしているけれど、それは無視をする事にした。眩暈がするのは酔っているから。マツバと一緒に酔っているから。
「ふわふわする。あと、酒臭い」
「……だから、全部ハヤトのせい」
相変わらず呂律は回らないまま。マツバは俺の肩に頭を預ける。そしてすぐに寝息を立て始めた。その表情は優しくて、どうやら安心したらしいと悟る。
「早く元気になって、おいしいもの作ってやるよ」
そう呟いて背中を叩けば、彼は眠ったまま俺の浴衣を握る。おやすみ、と囁いて、俺も目を閉じた。
(END)
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