赤薔薇
食卓の上に花瓶が置かれていた。表面のざらついた、濃い茶色の花瓶。それには不似合いな赤い薔薇が一輪挿されていた。彼は料理や裁縫のような、どちらかといえば女性的な事が得意ではあるけれど、花を飾っているのは珍しい。
「あの薔薇、どうしたの?」
卵焼きを焼いていた彼が振り返り、ばつの悪そうな顔をした。
「あ……、今日、父の日だろ? だから」
父の日。僕にはどうにも馴染みのない日だった。だけど、彼には特別な日なのだろう。父さん、という言葉をもう何度聞いたかわからない。
「父さん、いつ帰ってくるかわからないから。もしかしたら今日帰ってくるかもしれないし」
軽い口調の割に表情は暗かった。自分の言葉が現実にはならないとわかっているようだった。もちろん可能性はゼロではないけれど、ゼロではないという程度の事。
持っていた皿を調理台に置き、彼の頭に両手を乗せた。その手の上に顎を乗せ、軽く体重をかける。なんだよ、と笑ってくれて少し安心した。
「料理しにくい。どいてくれ」
「やだ」
「焦げるぞ、卵焼き」
「いいよ」
「よくないだろ」
僕を頭に乗せたまま、フライ返しで卵焼きを巻いていく。鮮やかな黄色の上に浮かぶきつね色の焦げ目が食欲をそそる。ぐう、とお腹が鳴った。それを聞いた彼は一度肩をすくめ、息だけで笑った。
「ほら、腹減ってるんじゃないか……焦がしたらおかずが一つ減るぞ?」
「それは嫌だな」
「じゃあ離れて」
「それも嫌」
頭に乗せていた手を肩に回す。彼は不自由そうに卵焼きを皿に移し、それから僕の手を握る。
「どうかしたのか?」
「……別に、なんとなくだよ」
肩に回した手を強める。腕から体温が伝わってきて温かかった。温かい、なんていう時期でもないけれど、今日は雨で肌寒いから、僕よりも高めの体温が心地よい。でもそれは同時に、僕には彼を温めてあげられないという事を示していた。
「ハヤト」
「何だ?」
「ハヤトのお父さんは、温かかった?」
僕の手に触れる指が微かに震えた。寂しさを自覚していないという訳ではないようだった。
「……うん」
そう、と応えた僕の声は掠れていた。腕の中で彼が振り返ろうとする気配がしたけれど無視をする。
雨が窓を叩く。涙のように伝っていく。それをぼんやりと見つめていたら、突然強く腕を引かれた。驚いた隙に、彼は腕の中から抜け出してしまう。
「ほら、冷める前に食べるぞ。ご飯よそってくれ」
胸にしゃもじを押し付けられた。茶碗を手に取り、炊飯器の蓋を開ける。湯気が浮かびあがる。空中で曲線を描きながら消えていく。僕の心の中のもやもやとしたものも同じような形をしているのだろうと漠然と思う。だけど、きっと消えてはくれない。
僕は彼の父親にはなれない。当然だ。そもそも血が繋がっていない。……仮に血が繋がっていたとしても、僕ではダメなのだろう。無力だ、と思う。今日彼の一番近くにいるのは代わりにすらなれない僕。
「おい」
不機嫌そうな声と共に鼻をつままれた。ふが、と情けない声が漏れた。
「米が硬くなる」
「ご、ごめん」
慌てて茶碗にご飯をよそう。僕が呆けている間に、食卓には茶碗以外の全てが揃っていた。
「お待たせ」
「本当にな」
いただきます、と声を揃える。卵焼きを口に入れる。甘い。
「……焦げてた?」
箸の先を唇に乗せたまま固まった僕に気付いたのか、彼は不安そうにそう尋ねてくる。
「いや、焦げてないよ。いつもと違う味だからビックリしただけ」
「いつもは砂糖使わないからな」
「でも、これもおいしいね」
「それならよかった」
目を伏せた瞬間に、わずかに眉が下がった事。本人はきっと気付いていない。どうして甘い卵焼きなのかは、聞いたらまた落ち込むのだろうと予想ができたから聞かない事にした。
味噌汁を一口。首を傾げてご飯を一口。どちらもなんだか甘かった。こちらにも砂糖が入っているという事はないだろうに。
「……薔薇」
「え?」
「におい、きつかったな」
机の端に飾られた花の事を思い出す。言われてみればそうかもしれない。食べるもの全てに濃い薔薇の香りがまとわりついて、喉へ胸へと落ちていって、お腹の中に溜まっていく。
平気、と言いかけて、彼の視線が僕に向いていない事に気が付いた。目線は、花瓶に挿された花に向いている。甘い香りで存在を主張している花。特別な日のための花。
僕が、代わりになれないのなら。
「薔薇のジャムがあるんだってね」
「は?」
「ジャム。簡単に作れるみたいだよ」
「え、作れるのか?」
「枯れちゃう前に作ってもいいかも」
食べてみたいなあ、と甘えるように言ってみる。彼は苦笑いを浮かべた。
「明日、作ってみるか」
代わりになれないのなら、忘れさせてしまおう。帰らなかったと嘆かなくてもいいように。明日の夜には、忘れていられるように。
(END)
「あの薔薇、どうしたの?」
卵焼きを焼いていた彼が振り返り、ばつの悪そうな顔をした。
「あ……、今日、父の日だろ? だから」
父の日。僕にはどうにも馴染みのない日だった。だけど、彼には特別な日なのだろう。父さん、という言葉をもう何度聞いたかわからない。
「父さん、いつ帰ってくるかわからないから。もしかしたら今日帰ってくるかもしれないし」
軽い口調の割に表情は暗かった。自分の言葉が現実にはならないとわかっているようだった。もちろん可能性はゼロではないけれど、ゼロではないという程度の事。
持っていた皿を調理台に置き、彼の頭に両手を乗せた。その手の上に顎を乗せ、軽く体重をかける。なんだよ、と笑ってくれて少し安心した。
「料理しにくい。どいてくれ」
「やだ」
「焦げるぞ、卵焼き」
「いいよ」
「よくないだろ」
僕を頭に乗せたまま、フライ返しで卵焼きを巻いていく。鮮やかな黄色の上に浮かぶきつね色の焦げ目が食欲をそそる。ぐう、とお腹が鳴った。それを聞いた彼は一度肩をすくめ、息だけで笑った。
「ほら、腹減ってるんじゃないか……焦がしたらおかずが一つ減るぞ?」
「それは嫌だな」
「じゃあ離れて」
「それも嫌」
頭に乗せていた手を肩に回す。彼は不自由そうに卵焼きを皿に移し、それから僕の手を握る。
「どうかしたのか?」
「……別に、なんとなくだよ」
肩に回した手を強める。腕から体温が伝わってきて温かかった。温かい、なんていう時期でもないけれど、今日は雨で肌寒いから、僕よりも高めの体温が心地よい。でもそれは同時に、僕には彼を温めてあげられないという事を示していた。
「ハヤト」
「何だ?」
「ハヤトのお父さんは、温かかった?」
僕の手に触れる指が微かに震えた。寂しさを自覚していないという訳ではないようだった。
「……うん」
そう、と応えた僕の声は掠れていた。腕の中で彼が振り返ろうとする気配がしたけれど無視をする。
雨が窓を叩く。涙のように伝っていく。それをぼんやりと見つめていたら、突然強く腕を引かれた。驚いた隙に、彼は腕の中から抜け出してしまう。
「ほら、冷める前に食べるぞ。ご飯よそってくれ」
胸にしゃもじを押し付けられた。茶碗を手に取り、炊飯器の蓋を開ける。湯気が浮かびあがる。空中で曲線を描きながら消えていく。僕の心の中のもやもやとしたものも同じような形をしているのだろうと漠然と思う。だけど、きっと消えてはくれない。
僕は彼の父親にはなれない。当然だ。そもそも血が繋がっていない。……仮に血が繋がっていたとしても、僕ではダメなのだろう。無力だ、と思う。今日彼の一番近くにいるのは代わりにすらなれない僕。
「おい」
不機嫌そうな声と共に鼻をつままれた。ふが、と情けない声が漏れた。
「米が硬くなる」
「ご、ごめん」
慌てて茶碗にご飯をよそう。僕が呆けている間に、食卓には茶碗以外の全てが揃っていた。
「お待たせ」
「本当にな」
いただきます、と声を揃える。卵焼きを口に入れる。甘い。
「……焦げてた?」
箸の先を唇に乗せたまま固まった僕に気付いたのか、彼は不安そうにそう尋ねてくる。
「いや、焦げてないよ。いつもと違う味だからビックリしただけ」
「いつもは砂糖使わないからな」
「でも、これもおいしいね」
「それならよかった」
目を伏せた瞬間に、わずかに眉が下がった事。本人はきっと気付いていない。どうして甘い卵焼きなのかは、聞いたらまた落ち込むのだろうと予想ができたから聞かない事にした。
味噌汁を一口。首を傾げてご飯を一口。どちらもなんだか甘かった。こちらにも砂糖が入っているという事はないだろうに。
「……薔薇」
「え?」
「におい、きつかったな」
机の端に飾られた花の事を思い出す。言われてみればそうかもしれない。食べるもの全てに濃い薔薇の香りがまとわりついて、喉へ胸へと落ちていって、お腹の中に溜まっていく。
平気、と言いかけて、彼の視線が僕に向いていない事に気が付いた。目線は、花瓶に挿された花に向いている。甘い香りで存在を主張している花。特別な日のための花。
僕が、代わりになれないのなら。
「薔薇のジャムがあるんだってね」
「は?」
「ジャム。簡単に作れるみたいだよ」
「え、作れるのか?」
「枯れちゃう前に作ってもいいかも」
食べてみたいなあ、と甘えるように言ってみる。彼は苦笑いを浮かべた。
「明日、作ってみるか」
代わりになれないのなら、忘れさせてしまおう。帰らなかったと嘆かなくてもいいように。明日の夜には、忘れていられるように。
(END)
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