ひみつ

 上弦の月は怒っているよう。下弦の月は笑っているよう。部屋の中には三日月の光だけ。明かりは消してしまった。マツバがこの部屋で、俺以外の人と暮らしている証拠なんて見たくない。

「何を見ているの?」

 彼の姿が微かに見えた。月明かりを頼りに差し出されたカップを受け取り、ソファーに座る。カップは暗い色をしていた。彼のカップだった。

「三日月」

 カップに口を付ける。甘いミルクティー。

「笑ってるみたい」

 彼は窓から身を乗り出し、夜空を見上げた。

「ああ、本当だ」

 隣にマツバが座った。わずかに傾いたソファーに身を任せ、彼の腕に凭れかかった。窓の外ではあいかわらず月が笑っている。祝福してくれればいい。……嘲笑でなければ、それでいい。

「ハヤト」

 名前を呼ばれた。彼の方に顔を向けると、顔が随分と近くにある。ああ、と気付く。そのままそっと唇を重ねた。

「……今日、奥さんは?」
「友達と旅行だって。朝早くから出掛けて行った」
「マツバが浮気してないか、心配してるんじゃないか?」
「うーん、どうだろうね。一度も女の人の匂いなんかさせてこなかったから」

 何気ない一言で胸が痛む。彼の些細な一言は、時々俺を傷つけ、それから癒してくれる。
 女だったらよかったと何度も思った。お腹を抱えて、責任取ってよ、なんてヒステリックに叫べたらよかった。そうしたら、もしかしたら。
 臍の下に手を当てる。俺の腹の中には、何かが入るだけの隙間なんてない。

「どうかした?」
「なんでもないよ」

 カップの中身をもう一口。暗がりの中でミルクティーは不気味な灰色に見える。毒のようだ。
 生まれ変わったら、マツバと一緒になれるかもしれない。何度も何度も考えた。でもそれだけじゃあ離れ離れになってしまうかもしれないから、死ぬなら手を繋いで一緒にって。このミルクティーが毒ならば、叶うかもしれない。
 カップの中身を一気に飲み干した。甘いな、と思っただけで、体には何の変化も表れなかった。

「……ハヤト、もう一回」

 ん、と答えてまた口づける。彼がテーブルにカップを置くのが見えた。俺の手から空のカップが取り上げられた。息を吸って、もう一度。肩に手を置かれる。ソファーの革が音を立てる。肘置きにぺたりと頭をつけて、俺はマツバを見上げた。彼の肩の向こうでは、三日月が相変わらず笑っていた。今度はさすがに嘲笑かもしれない。だって、俺はマツバと、これから。

「ねえ」
「何?」
「どうしてこんな事するんだ?」

 嫌だった? なんて困った様子で聞かれてしまった。違うんだ。俺が聞きたいのはそういう事じゃなくて。

「どうして、浮気なんてするんだ?」

 彼は苦笑いを浮かべる。当然かもしれない。浮気相手にあたる俺にそんな事を聞かれるなんて思ってもみなかっただろう。俺の顔の隣に左手をついて右手で髪を撫でながら、呟くように答えてくれた。

「家庭を持つのは幸せだよ。僕の奥さんはすごく可愛い人だし。だけど、たまにはね、夫としての責任とかそういうの全部忘れてしまいたいんだ」

 わかる? と聞かれた。わからない、と答えると、彼はまた笑う。今度は愉快そうに。

「身軽に恋をしたいんだ……いつかわかるよ、ハヤトにも」

 恋をしたいんだ。その一言で嬉しくなる。マツバは俺に恋をしてくれている。

「ね、続き」
「……うん」

 首筋に唇が触れた。マツバの頭に手を回して、自分の体が熱くなっていくのをただ感じていた。首筋にかかる息も熱い。その熱でまた嬉しくなる。
 その大きな手で触って。
 あの人にしているみたいに。
 テーブルの上の写真と目が合った。息が詰まった。暗闇に慣れた目には鮮明に見える。写真立ての中で、深紅のドレスを着て微笑む姿。綺麗に化粧をして、髪を整えて。隣に立つマツバも幸せそうに笑っていた。
 この笑顔が俺は好きで。好きになって。
 視界が一気に歪む。ぼろぼろと涙が零れ落ちた。残酷な話だった。俺が好きなのは誰かが好きなマツバなのだ。マツバは決して俺を一番にしないから、俺はマツバを好きになる。

「マツ、バ」

 引き攣る声を、彼はどう捉えただろう。

「好き」

 あの人みたいにマツバの隣で微笑む写真を撮る事なんて、一生できないのだ。それはもう知っていた。不幸だと思った事もある。だけど、今が幸せでないかと聞かれたならば、それはきっと違う。こうして好きな人に抱かれている今が不幸せだなんて思わない。たとえそれが、マツバの大切な人を裏切る行為だとしても。

「好き」

(END)
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