ブラウンシュガーの朝
春眠暁を覚えず、とはよく言ったものだ。雨戸の隙間から部屋に差し込む光を見ながら僕は寝起きの頭でそう考える。今日もいい天気らしい。寝室は外よりも寒いけれど、布団に潜ってしまえば気にならない、どころか、快適だ。
隣で眠る彼の前髪に手を伸ばした。硬いけれど、指に引っかかる様子はない。二、三回梳いてから、起こさないよう静かに布団を出た。
着替えてから、足音を立てないように階段を下りる。もう起きていたらしいムウマージが飛びついてきた。頭を撫でてやりながら、口の前で人差し指を立ててみせる。
「まだハヤトが寝てるから、静かにね」
ムウマージはこくこくとうなずいた。いい子、とまた頭を撫でてやれば、いつもよりも小さな声で嬉しそうに鳴いた。
適当に顔を洗い、髪を整える。ヘアバンドは……まだ、いいか。外に出るわけではないし。
コンロの下の扉を開ける。透明なプラスチックの箱を引き出せば、目当てのものはすぐに見つかった。上にちょこんとバターの乗った、キツネ色の丸いケーキ。……は、残念ながらパッケージに描いてあるだけだ。食べたいならば自分で作らなければならない。
ホットプレートの温度を合わせ、銀色のボウルに卵を二つ割り入れる。ハヤトのように片手で割る事はできない。実は練習した事もあったのだが、失敗した時に殻を取るのが億劫ですぐにやめてしまった。卵に牛乳を加えて泡立て器で混ぜる。クリーム色の液体はなんだかおいしそうだけど、おいしくはない事は簡単に予想ができた。まあ、栄養はあるのだろうけど。
ホットケーキミックスを二袋ボウルに入れて、また混ぜる。粘度が上がった生地がボウルの中で出来上がった。泡立て器に絡む生地の手応えを感じながら、だまがなくなるまで混ぜる。僕一人で食べるならそれほど気にしないけれど、今日は食べさせる相手がいるのだ。
とん、とん、と階段を下りる音が聞こえてきた。
「おはよう」
「……おはよう」
珍しく寝起きがよくないようだ。目をこすりながら彼は答える。
「ハヤトのが遅いのは珍しいね」
「ん……マツバの方が早いのも珍しいな」
「同じ事だよ」
「言われてみれば……」
眠そうな声で彼は答える。ホットプレートの温度を確認しながら、僕は声を掛けた。
「着替えて、顔洗っておいで」
んん、とぼんやりとした声を上げて彼はまた二階へ向かう。僕の方が彼の世話を焼くなんて珍しい。今朝は珍しい事だらけだ。朝食まで僕が作っているし。
温まったホットプレートに生地を流し込む。生地の真ん中に流していけば、自然と丸い形になる。二つの丸を作り、席を立った。
足音が下りてくる。居間は通らずに直接洗面所に向かったようだ。水が流れる音を聞きながら、こちらも鍋に水を注ぐ。
「すっきりした」
さっきより随分はっきりとした声と表情。顔を洗った時に濡れたのだろう。前髪が一房額にくっついている。
「甘いにおいがする」
すん、と鼻を鳴らしながら彼は椅子に座り、ホットプレートを覗き込む。
「ホットケーキにしてみたんだ。たまにはいいでしょ?」
「うん。いいにおい」
泡が浮かび上がって弾ける。全体的に気泡ができるのを確認して、フライ返しでひっくり返した。パッケージの写真と同じキツネ色。
「おいしそう」
「バターと蜂蜜は冷蔵庫の中にあるよ。出してくれる?」
「わかった」
コーヒーとも迷ったが、紅茶にした。カップにティーパックを入れてお湯を注ぐ。白のカップに赤褐色がよく映える。
「紅茶?」
「飲める?」
「……試してみる」
ホットケーキを皿に乗せる。彼はその上にバターを乗せ、自分の分に蜂蜜をかける。
「マツバは、蜂蜜いるか?」
「うん」
蜂蜜を受け取り、代わりにカップを渡す。向かい側に座り顔を上げると、なにやら覚悟を決めたような顔でカップの中身に目を向ける彼がいた。
「ハヤト、砂糖入れてもいいよ」
「いや、頑張ってみる」
恐る恐る口をつけて一口飲む。軽く眉を寄せたのが見えた。
「苦い?」
「……苦い」
「だから言ったのに」
蜂蜜をかけたホットケーキを一切れ、フォークに刺して差し出す。
彼は躊躇った様子でフォークの先と僕の顔を交互に見る。なんでもない事のように首を傾げて見せると、おずおずと口を開く。
「おいしい?」
「……甘い」
あまい、ともう一度呟いた。その唇が、赤くて、うっすら光っていて。
「甘そう」
思わずそう呟いていた。てっきり顔を真っ赤にして大慌てするのだろうと思っていたが、そうでもなかった。頬は少し色付いているが、それ以上の変化は見られない。
「そりゃあ、蜂蜜かかってるしな。でもおいしい」
どうやら僕の言葉の意味に気付いていないようだ。
「……鈍感」
「何が?」
「ううん、別に」
「そうか」
ナイフとフォークを思いのほか器用に操って、ホットケーキを口に運んでいく。たまに紅茶を飲んで、渋い顔をしてはまたホットケーキを食べる。その繰り返しだ。
自分の分の紅茶に口をつける。少し冷めて、苦味が増していた。だけど蜂蜜がけのホットケーキと一緒なら気にならない。やっぱりまだ子供なんだなあ、と考えると、なんだかいつも以上に可愛らしい。
「何?」
僕の視線に気付いたのだろう。やや怒ったような表情で僕を見る。
「なんでもないよ」
そう笑ってみせる。彼はナイフとフォークを皿の端に置いた。
「あのさ、マツバ」
「どうしたの?」
「俺は、鈍感だから」
俯く彼を見て、頭の後ろの方が冷えるのを感じた。本格的に怒らせてしまったか、そうでなくても悲しませてしまったかもしれない。
「ハヤト」
ごめん、という謝罪の言葉は彼の言葉で掻き消えた。
「……ちゃんと言ってくれないと、わからないよ」
先程の僕の言葉の意味。しっかり気付いていたようだ。
「やられたなぁ……」
片手で頭を抱えて背もたれに凭れかかる。子供だなんて思ってごめん。君の方が、僕よりも一枚上手だった。
座り直し、身を乗り出す。そっと顔を上げた彼の目を覗き込んで僕は言う。
「キスしてもいい?」
(END)
隣で眠る彼の前髪に手を伸ばした。硬いけれど、指に引っかかる様子はない。二、三回梳いてから、起こさないよう静かに布団を出た。
着替えてから、足音を立てないように階段を下りる。もう起きていたらしいムウマージが飛びついてきた。頭を撫でてやりながら、口の前で人差し指を立ててみせる。
「まだハヤトが寝てるから、静かにね」
ムウマージはこくこくとうなずいた。いい子、とまた頭を撫でてやれば、いつもよりも小さな声で嬉しそうに鳴いた。
適当に顔を洗い、髪を整える。ヘアバンドは……まだ、いいか。外に出るわけではないし。
コンロの下の扉を開ける。透明なプラスチックの箱を引き出せば、目当てのものはすぐに見つかった。上にちょこんとバターの乗った、キツネ色の丸いケーキ。……は、残念ながらパッケージに描いてあるだけだ。食べたいならば自分で作らなければならない。
ホットプレートの温度を合わせ、銀色のボウルに卵を二つ割り入れる。ハヤトのように片手で割る事はできない。実は練習した事もあったのだが、失敗した時に殻を取るのが億劫ですぐにやめてしまった。卵に牛乳を加えて泡立て器で混ぜる。クリーム色の液体はなんだかおいしそうだけど、おいしくはない事は簡単に予想ができた。まあ、栄養はあるのだろうけど。
ホットケーキミックスを二袋ボウルに入れて、また混ぜる。粘度が上がった生地がボウルの中で出来上がった。泡立て器に絡む生地の手応えを感じながら、だまがなくなるまで混ぜる。僕一人で食べるならそれほど気にしないけれど、今日は食べさせる相手がいるのだ。
とん、とん、と階段を下りる音が聞こえてきた。
「おはよう」
「……おはよう」
珍しく寝起きがよくないようだ。目をこすりながら彼は答える。
「ハヤトのが遅いのは珍しいね」
「ん……マツバの方が早いのも珍しいな」
「同じ事だよ」
「言われてみれば……」
眠そうな声で彼は答える。ホットプレートの温度を確認しながら、僕は声を掛けた。
「着替えて、顔洗っておいで」
んん、とぼんやりとした声を上げて彼はまた二階へ向かう。僕の方が彼の世話を焼くなんて珍しい。今朝は珍しい事だらけだ。朝食まで僕が作っているし。
温まったホットプレートに生地を流し込む。生地の真ん中に流していけば、自然と丸い形になる。二つの丸を作り、席を立った。
足音が下りてくる。居間は通らずに直接洗面所に向かったようだ。水が流れる音を聞きながら、こちらも鍋に水を注ぐ。
「すっきりした」
さっきより随分はっきりとした声と表情。顔を洗った時に濡れたのだろう。前髪が一房額にくっついている。
「甘いにおいがする」
すん、と鼻を鳴らしながら彼は椅子に座り、ホットプレートを覗き込む。
「ホットケーキにしてみたんだ。たまにはいいでしょ?」
「うん。いいにおい」
泡が浮かび上がって弾ける。全体的に気泡ができるのを確認して、フライ返しでひっくり返した。パッケージの写真と同じキツネ色。
「おいしそう」
「バターと蜂蜜は冷蔵庫の中にあるよ。出してくれる?」
「わかった」
コーヒーとも迷ったが、紅茶にした。カップにティーパックを入れてお湯を注ぐ。白のカップに赤褐色がよく映える。
「紅茶?」
「飲める?」
「……試してみる」
ホットケーキを皿に乗せる。彼はその上にバターを乗せ、自分の分に蜂蜜をかける。
「マツバは、蜂蜜いるか?」
「うん」
蜂蜜を受け取り、代わりにカップを渡す。向かい側に座り顔を上げると、なにやら覚悟を決めたような顔でカップの中身に目を向ける彼がいた。
「ハヤト、砂糖入れてもいいよ」
「いや、頑張ってみる」
恐る恐る口をつけて一口飲む。軽く眉を寄せたのが見えた。
「苦い?」
「……苦い」
「だから言ったのに」
蜂蜜をかけたホットケーキを一切れ、フォークに刺して差し出す。
彼は躊躇った様子でフォークの先と僕の顔を交互に見る。なんでもない事のように首を傾げて見せると、おずおずと口を開く。
「おいしい?」
「……甘い」
あまい、ともう一度呟いた。その唇が、赤くて、うっすら光っていて。
「甘そう」
思わずそう呟いていた。てっきり顔を真っ赤にして大慌てするのだろうと思っていたが、そうでもなかった。頬は少し色付いているが、それ以上の変化は見られない。
「そりゃあ、蜂蜜かかってるしな。でもおいしい」
どうやら僕の言葉の意味に気付いていないようだ。
「……鈍感」
「何が?」
「ううん、別に」
「そうか」
ナイフとフォークを思いのほか器用に操って、ホットケーキを口に運んでいく。たまに紅茶を飲んで、渋い顔をしてはまたホットケーキを食べる。その繰り返しだ。
自分の分の紅茶に口をつける。少し冷めて、苦味が増していた。だけど蜂蜜がけのホットケーキと一緒なら気にならない。やっぱりまだ子供なんだなあ、と考えると、なんだかいつも以上に可愛らしい。
「何?」
僕の視線に気付いたのだろう。やや怒ったような表情で僕を見る。
「なんでもないよ」
そう笑ってみせる。彼はナイフとフォークを皿の端に置いた。
「あのさ、マツバ」
「どうしたの?」
「俺は、鈍感だから」
俯く彼を見て、頭の後ろの方が冷えるのを感じた。本格的に怒らせてしまったか、そうでなくても悲しませてしまったかもしれない。
「ハヤト」
ごめん、という謝罪の言葉は彼の言葉で掻き消えた。
「……ちゃんと言ってくれないと、わからないよ」
先程の僕の言葉の意味。しっかり気付いていたようだ。
「やられたなぁ……」
片手で頭を抱えて背もたれに凭れかかる。子供だなんて思ってごめん。君の方が、僕よりも一枚上手だった。
座り直し、身を乗り出す。そっと顔を上げた彼の目を覗き込んで僕は言う。
「キスしてもいい?」
(END)
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