木漏れ日を踏みつけて

「なんだか、疲れちゃった」

 マツバがそう言って、眉を下げて笑う。俺もつられて笑う。わずかに細めた目がそのままくっついてしまいそうなくらいに瞼が重くて、俺も随分と疲れていたのだと気付いた。

「どこか遠くに行きたいねぇ」

 マツバはあの日以来、エンジュの外にほとんど出ていない。出たがる事もなかったから、連れ出す事もしなかった。

「……行くか?」
「え?」
「どこか、遠く」

 少しだけ開けた窓から、温かい風が流れ込んでくる。窓の向こうでは、もう冬は過ぎ去った。
 こちら側の冬も、終わらせる事ができたら。


「それじゃあ、留守番よろしくね」

 マツバはそう言ってゲンガーの頭を撫でた。ゲンガーは不安そうに俺を見上げた。

「大丈夫だよ、ゲンガー」

 しゃがんで目線を合わせ、任せとけ、と言えば、少しは安心できたのか彼はぎこちなく笑みを浮かべた。

「いってきます」

 俺たちの姿が見えなくなるまで、ゲンガーはずっと小さな手を振っていた。

「まずはコガネだな」

 どこか遠くへ。いろいろな場所を考えてはみたけれど、どこもなんだかしっくり来なくて。それならばいっそ、と何も決めずに出てきた。お金と、それからピジョットの入ったモンスターボール。それだけを持って。マツバに至っては手持ちを全部置いてきてしまった。
 春の風が服の裾を揺らす。昔にアカネが見立ててくれた洋服。どこに行くのかわからないのに、和服では都合が悪い事もあるかもしれないから。履き慣れないスニーカーは少し心配だけど、まあ、歩けないという事もないだろう。
 マツバは何も話さない。俺も何も言わない。鳥の声と風の音と足音と、誰かの声。人間の声だけが、何故だか遠くに聞こえるような気がした。
 ゲートを抜けるとコガネの街。ここはいつでもにぎやかだ。活気のある街の中で、俺たち二人だけが沈み込んでいるようだ。なんだか辛くなって、早足でリニアの駅を目指した。ヤマブキまでの切符を買い、ホームのベンチに座ってリニアが来るのを待つ。

「……外」

 出発してから初めて、マツバが口を開いた。

「もう、すっかり春なんだね」
「ああ。すごく温かくなった。過ごしやすくていいよな」

 話してくれた事に安心して、肩から力が抜けたのが自分でわかった。

「ハヤトは、春が好き?」
「ポッポたちが一番喜ぶ時期だし、何をするにも楽な時期だし、好きだな。マツバは?」
「僕も春は好きだよ。ゲンガーたちもみんな元気になるんだ。フワライドなんて、気がつくといつもどこかへ飛んで行ってる」

 気持ちよさそうにふわふわと飛んでいるフワライドと、またか、なんてぼやきながらフワライドを呼ぶマツバ。その様子を想像して、思わず微笑んだ。
 だけど、と思う。今のマツバがそうやって普通に過ごす所が想像できなくなってしまった。隣にいるマツバを見る。目を伏せたまま座っている。目の下はうっすらと黒ずんでいた。眠っていないのか、と思う。ああでも、俺も似たようなものか。眠るというのは、どういう感じだったか。気がついたら朝になっているからきっと寝ているのだろうけど、寝たような気がしない。疲れたままで朝を迎えて、一日をなんとかやり過ごす。
 ホームにアナウンスが響いた。1番ホームに、ヤマブキ行きがまもなく到着。

「リニア来たな」
「うん」

 入り口から一番近い席に二人並んで座る。俺たちの他にも乗客はたくさんいた。家族連れや友達同士、あとは恋人同士だろうか。気候がいい時期だから、みんなどこかへ出掛けるのだろう。
 ベルが鳴り、扉が閉まる。リニア独特の加速。それにふらついた女の子達が、声を上げて笑った。
 声を上げて笑ったのなんて、いつの事だろう。
 窓の外を景色が流れていく。遠くにスズの塔が見えて、胸が苦しくなった。マツバが何の反応も見せなくて、安心した、ような、そうでないような。
 感情を見せて欲しい、と思う。ホウオウを失った後、派手に荒れる事もなかった。泣く事もなかった。その代わりに、心から笑う事もなくなってしまった。笑顔は浮かべても、空っぽ。……そう、空っぽなのだ。例えば俺がマツバの心の中に入っていけたとして。心の中にあるものを見る事ができたとして。それでも、何も見えないのだろう、と容易に想像ができてしまう。
 俺への愛情とかそういうものも、残っていないんじゃないか、なんて。でも俺がここにいても迷惑だと思わないから……思うだけの機能を無くしてしまっているから、何も言わないだけなのではないだろうか。
 無意識のうちに首を振っていたようだ。視界が揺れる。向かい側の乗客が、不思議そうに俺を見た。
 視線を自分の膝に落とす。信じたくない、と心の中で呟いた。袖を掴んだ手が震えた。目を閉じて、ただひたすら自分に言い聞かせた。考えるな。考えるな。もう何も考えるな。
 軽快な音楽が流れた。もうすぐヤマブキに着くようだ。顔を上げれば、窓の向こうは見慣れない景色。
 リニアはじわじわと速度を落とし、やがて止まった。周りの乗客がばらばらと降りていく。一番最後に車両を降りた。
 改札を抜けるとヤマブキの街。家やビルが、道に沿って整然と並んでいた。見上げると、建物の間にはよく晴れた青空。
 どこに行こうか、と聞いたけれど、答えは返ってこなかった。
 駅にあったタウンマップで周りの町を確認する。北がハナダ。東はシオン。南はクチバ。西はタマムシ。
 都会の喧騒が、疲れた頭に響く。人がいない所に行きたかった。静かな所に行きたかった。東、と呟いて、俺はマツバの手を引いて歩き出した。
 同じ駅から、シオンを通る電車が出ているようだった。シオンまでの切符を買って、ちょうど来た電車に乗った。リニアとは違って、空席が目立つ。

「とりあえず、シオンに行こうかと思ってるんだけど」
「……うん」
「何があったかな、シオン。カントーにはほとんど来た事がないから」
「静かな町だよ」
「マツバは行った事があるのか?」
「昔にね。まだポケモンタワーがラジオ塔になる前に」
「そうか、カントーのラジオ塔はシオンにあるんだったな」
「うん」

 弱々しく笑った彼を見て、無理をしていると気付いた。浮き立った気持ちが沈んでいく。
 それでも彼にとって俺は、会話を続けようと努力してくれる程度には価値があるのかもしれない。
 ……笑ってしまうぐらいに不安定だ。悲観と楽観を繰り返して、そうしているうちに何が本当かわからなくなってしまった。
 電車はヤマブキを離れていく。ビルが減って、緑が増える。山の間を通り抜けると、高い塔のある小さな町が見えた。あれがシオンタウンで、あの高い塔がラジオ塔なのだろう。
 シオンの駅に着くと、乗客が一気に降りた。同じ車両にはもう人がいない。
 降りよう、と座席から立ち上がろうとした。だが何かに引っ張られて、また座席に腰を下ろしてしまう。

「マツバ?」

 マツバは俺の服の裾を掴んでいた。

「シオン、着いたぞ」

 彼は答えなかった。ただじっと窓の向こうを見ていた。どうやら降りる気はないらしい。
 発車のベルが鳴った。シオンの街がゆっくりと遠ざかっていく。
 カタン、カタン、と一定のリズムで揺れながら電車が走る。もうすっかり建物は見えない。草木の緑。そればかり。
 背後の窓から差し込む光が、くすんだ色の床に俺達の影を映していた。二つ、仲が良さそうに並んだ影。仲良く、と心の中で繰り返す。それが現実だったなら、どれほどよかったか。……いや、現実だったのだ。ほんの数ヶ月前までは。
 頭を彼の肩に乗せた。キスで魔法が解けるように、これで何かが変わればいいのに。


 寄り添ったまま、1時間近く電車に揺られていた。
 シオンからも離れた山奥の駅に止まった。ここが終点だと告げられた。電車を降りると、コガネやヤマブキよりも少しだけ寒く感じた。

「あ、君たち」

 運転席から顔を出して、運転手さんが俺たちを呼び止めた。

「次にヤマブキ方面に向かう電車はちょうど2時間後で、その次が更に2時間後。それを逃したら帰れなくなるから、気をつけるようにね」
「はい、ありがとうございます」
「どこに行くの? こんな秘境駅の周りに、見るものなんてないよ」

 運転手さんは心配そうに俺たちを見ていた。彼が何を心配しているのかはなんとなくわかる。
 さて、何と答えたものか。適当に、何か言い訳を、と考えていた時だった。

「たまには自然に触れるのもいいかと思って」

 マツバの声が聞こえた。思わず顔を上げる。昔のような人当たりのいい表情で、淀みなく彼は話す。

「珍しい植物とかないかな、って探しに来たんです」

 ね、と言いながら俺を見た。俺は何度も首を縦に振った。運転手さんに向き直る瞬間に、目の下の隈がはっきりと見えた。もしかしたら元気になったのかもしれない、と期待を持ってしまった俺を嘲笑うかのようだった。

「なんだ、そういう事か。触るとかぶれたり、棘が刺さったりする植物もあるから気をつけてね」

 お昼は食べた? と聞かれた。食べていない、と答えると、おにぎりを二つ分けてくれた。
 走り去る電車を見送って、駅のベンチに腰掛けた。もらったおにぎりをちびちびと食べる。味付けは塩だけだったけれど、十分おいしかった。おいしかった、はずだ。
 どこに行こう、と今日何度目かわからない問いかけをした。周りは木ばかりで、家すら見当たらなかった。
 修理されずに穴が開いたままの屋根から光が射し込む。そのおかげでここはとても暖かかった。息を深く吸うと、春の匂いがした。春が来た、と実感できて嬉しいのに、どうしてか胸の奥が苦しくもなる、そんな匂いだ。
 目を閉じた。鳥の鳴き声が風に乗って聞こえてきた。それと。

「海」

 波の音がかすかに聞こえた。

「海があるのかもしれない」
「海なんて、どこに?」
「わからないけど、音がする」

 音、と繰り返して、彼はきょろきょろと首を動かす。

「……向こうかな」

 マツバが指差したのは線路の先。行き止まりの標識の向こうに、生い茂った草でほとんど隠れてしまった線路が見えた。周りに生えた木がトンネルを作っている。どうやらそのトンネルを抜けて、風はやってきているようだった。

「探しに行くの?」

 探してどうなるの、という問いが含まれているような気がした。それは俺にだってわかっていたけれど。

「……マツバと一緒に、海が見たい」

 それは嘘ではなかった。いつか海に行こう、と話した事があったのを、俺はちゃんと覚えていた。
 電車はもう当分来ない。ホームから線路の上に降りた。枕木を踏みながら歩く。後ろで砂利の擦れる音がして、マツバがついてきてくれた事を悟る。
 標識を避けてその先へ進む。線路は、もうしばらくの間使われていないようだった。レールはすっかり錆び付いて、枕木もすっかり朽ちていた。踏めばあっさりと砕ける。
 木漏れ日が、朽ち果てた線路をぽつりぽつりと照らしていた。風が吹く度に消え入りそうに揺れる木漏れ日の中を俺たちは歩いていく。

「ねえ、ハヤト」
「どうした?」
「どうして僕の傍にいてくれるの?」

 草を踏む音が止んだ。マツバも俺も足を止めていた。

「僕はもうずっとこのままかもしれないんだよ」

 ずっとこのまま。感情が抜け落ちたまま。

「……俺はそれでもいい。マツバが元気になるまで待っているし、ずっとこのままだったとしても、傍にいるつもりだ」
「その理由を僕は聞きたいんだ」

 今までに聞いた事がないほど厳しい声だった。

「……離れる事を考えると」

 喉が詰まった。言葉がうまく出てこなかった。こんなのは初めて。あの日から初めて。鼻の奥が痛くなって、それで気付いた。
 感情がなくなっていたのは、マツバだけではなかったのだ。

「辛いんだ。それじゃあダメか?」

 砂利がかすかに音を立て、マツバが身じろぎをしたのがわかった。

「……自覚はないかもしれないけど、ハヤト、もうぼろぼろだよ」
「知ってる」
「自覚があるならなおさらだよ。どうして」
「さっき言っただろ」
「あれは本当のハヤトの気持ちなの? 本当は仕方なく付き合っているだけなんじゃないの?」

 まくしたてるようにマツバが言う。感情的になっている、と思う。どんな感情でも、それを表に出してくれさえすればよかった。たとえそれが悲しみとか憎しみとか、暗い感情だとしても。
 今のマツバはどうなのだろう。振り返って、表情が少しも変わっていなかったとしたら、もう耐えられないような気がした。

「仕方なくなんかじゃない。俺の意思だ」

 俺は振り返らなかった。マツバの顔を見るのが怖かった。
 歩き出す。少し遅れて、後ろから足音が聞こえた。
 波の音が段々と大きくなる。潮の香りが強くなる。海は近い。
 レールがカーブを描く。それに沿って歩くと、線路の先に光が見えた。木のトンネルが途切れている。
 マツバに言った事に、少しだけ嘘があったというのは認めざるを得ないだろう。このままずっと、マツバが今のマツバのままだったら、俺はいつか壊れるのだろうと思う。だから、ずっと傍にいる、というのは嘘になるだろう。
 だけど、俺がダメになるまで。それまではずっとマツバの隣にいるつもりだった。

 トンネルを抜ける。久しぶりの日差しに眩暈がした。足元を見つめて、眩暈が治まるのを待った。マツバが俺に追いついて、隣に立った。
 息を呑む音が聞こえて、俺は顔を上げた。
 線路は、俺たちの足元から日溜まりの中へ続いている。その両側をたんぽぽの花と鮮やかな緑が彩る。
 日溜まりの中に足を踏み出した。暖かい、と当たり前な事を思った。潮の匂いに薄れた春の匂いがまた強くなる。
 春の匂いは、どうしてか胸が苦しくなる。
 泣きたい、と思った。声を上げて泣いてしまいたい、と思った。

「ハヤト」

 俺は、線路の上に膝をついて、手をついて、座り込んでいた。

「大丈夫?」

 俺の前に片膝をついてマツバは言う。彼の肩の向こうで何かが光る。

「海」

 指をさす。マツバは振り返り、水平線のあたりを眺めながら、うん、と呟く。

「こんなに綺麗な所、あったんだな」

 温かな光をいっぱいに受けた場所。花も緑も遠くに見える海も、全部が生きている、と思った。
 ここで眠ったら、俺たちも生き返る事ができるんじゃないかと思った。

「疲れた」

 ごく自然に、何の引っ掛かりもなくその言葉が零れる。疲れた。もうとっくに自覚はしていた。

「……うん」
「だから、しばらく寝よう」

 マツバの肩に手を置く。体重を掛ければ、彼の体は簡単に草の上に倒れる。その横に寝転がって、マツバの服の袖をしっかりと握って、目を閉じた。

「ちゃんとここにいてくれよ」

 自分の声がそう呟いた。返事は聞こえなかったけれど、気がついたらもう眠っていた。本当に久しぶりに、眠ったと思った。


 肩に何かが乗った。それから目元を撫でられた。
 目を開ける。また落ちてこようとする瞼を押し上げる。起きなければならないような気がした。

「……マツバ」

 肩に掛けられたストールを手繰り寄せながら名前を呼ぶ。俺の目元に指を触れさせたまま、マツバは俺を見つめていた。

「泣いていたから」
「うん」
「拭った方がいいと思ったんだ」
「うん」
「ストールも、さ」
「うん」
「もうすぐ夕方になるから、このままじゃ風邪を引くかなって」
「うん」
「全部常識の中で考えた行動で、僕の意思ではないのかもしれない」
「うん」
「君が好きだから、とかそういう特別な理由じゃないかもしれない」
「……うん」

 マツバは俺から視線を逸らし、膝を抱えるように体を丸めた。

「それでも、僕の傍にいてくれるの?」

 何を今更、と思う。

「マツバにとって俺は不要だ、と心の底から思うまでは、ここにいさせてくれ」

 ずるい言い方だった。マツバがこのままならば、心の底から何かを思う事なんてないから。
 それでもよかった。汚くても、なんでもいい。離れたくないから傍にいる、というのは、間違っていないはずだ。

「もし今、俺が不要だと思っているなら、ここに捨てていってくれ」
「……そっくりそのまま返すよ。僕が負担なら、ここに捨てていって欲しい」

 手が触れた。その手を握って、どちらからともなく俺たちは言った。

「帰ろう。二人で、一緒に」

(END)
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