日が沈んだら、夜明け前
ゆずを一つ掴んで、湯船に向かって放り投げた。どぷん、と音を立てて、透明な水の中に沈み、浮かぶ。
洗面器で掬ったお湯を体にかける。一番風呂の浴室は寒い。温かな湯で、強張った体が解れていくようだった。
「ふう……」
寒い、と呟きながら、ゆずの浮かぶ湯の中に沈む。頭まで潜って、苦しくなって顔を水面から出した。ちょうど顔を出した先にあったゆずが、ころん、と頭の上から落ち、また沈み、浮かぶ。
顔にへばりついた前髪を適当に掻き分け、手を伸ばす。床の上にはゆずがもう二つ。シャワーで水をかけて洗い、その二つも浴槽へ入れる。最初の一つと同じような動きをするから、なんだか可笑しかった。
水面に漂う三つのゆず。一つを手に取ると、ちょうど掌に収まった。幼い頃に遊んだお手玉を思い出して、天井に向かって軽く投げてみる。天井には届かずに落ちてきた。それを受け止め、投げる。その繰り返し。
残りの二つも手に取る。右手に二つ、左手に一つ。右手の一つを投げて、それが左手に届く前に、左手のゆずを投げて、それが右手に届く前に……。
「あ」
うまく受け止められなかったゆずは手から転げ落ちて、湯船の中に落ちる。
昔から苦手だったのだ。母さんみたいにうまくはできない。だけど別にそれでいいと思っていた。だって、父さんも俺と同じように苦手だったから。
父さんは、元気にしているだろうか。
鼻の下まで湯に浸かる。そのままじっとしている。浴室の外から伝わってくるのは静寂だけ。
父さん、と零した声は、ごぽごぽと泡が鳴る音に変わる。
近くに浮いていたゆずを沈め、浮かせる。それを繰り返す。そうしていれば音は途切れないから。
浴槽の壁に凭れて目を閉じた。今日は一年で一番夜が長い日。そう思い出すとたまらなく憂鬱だった。ポッポたちはもう眠りに就いている。ヨルノズクやドンカラスは夜の方が元気だが、ボールから出して遊ばせるには家の中は狭すぎる。長い夜を一人で過ごす。いつもの事なのに、もうとっくに慣れたのに、今日はなんだか妙に寂しい。
気がつけばゆずを弄ぶ手は止まっていて、浴室の中にはまた静寂が広がっていた。泣いてしまいそうだ、と思った。父さんがいなくなってから、泣く事が増えた。ジムリーダーになって何かと苦労したり、寂しかったり、原因はいろいろだろうけど、何よりも一番大きいのは。
電子音が耳に届いた。慌てて湯船の中で立ち上がれば、ざば、とにぎやかな水の音。
浴室の扉を開けて、タオルに手を伸ばす。タオルで手を拭いながら、洗濯機の蓋に載ったポケギアを覗き込むと、見慣れた名前が表示されていた。
俺が泣くようになった最大の原因。涙を止めてくれる、穏やかな声を持った、彼の名前。
手はまだ少し濡れているし、髪から滴り落ちる水滴もそのままだ。だけど、一刻でも早く声が聞きたくて、俺は通話ボタンを押し、ポケギアを耳に当てた。
『もしもし、マツバだけど』
今からそっちに行ってもいいかなぁ、なんて言うから、言ってくれるから。もちろん、と精一杯明るい声で答えた。
頬を何かが伝っていたけれど、それでもいいのだ、と思った。
(END)
洗面器で掬ったお湯を体にかける。一番風呂の浴室は寒い。温かな湯で、強張った体が解れていくようだった。
「ふう……」
寒い、と呟きながら、ゆずの浮かぶ湯の中に沈む。頭まで潜って、苦しくなって顔を水面から出した。ちょうど顔を出した先にあったゆずが、ころん、と頭の上から落ち、また沈み、浮かぶ。
顔にへばりついた前髪を適当に掻き分け、手を伸ばす。床の上にはゆずがもう二つ。シャワーで水をかけて洗い、その二つも浴槽へ入れる。最初の一つと同じような動きをするから、なんだか可笑しかった。
水面に漂う三つのゆず。一つを手に取ると、ちょうど掌に収まった。幼い頃に遊んだお手玉を思い出して、天井に向かって軽く投げてみる。天井には届かずに落ちてきた。それを受け止め、投げる。その繰り返し。
残りの二つも手に取る。右手に二つ、左手に一つ。右手の一つを投げて、それが左手に届く前に、左手のゆずを投げて、それが右手に届く前に……。
「あ」
うまく受け止められなかったゆずは手から転げ落ちて、湯船の中に落ちる。
昔から苦手だったのだ。母さんみたいにうまくはできない。だけど別にそれでいいと思っていた。だって、父さんも俺と同じように苦手だったから。
父さんは、元気にしているだろうか。
鼻の下まで湯に浸かる。そのままじっとしている。浴室の外から伝わってくるのは静寂だけ。
父さん、と零した声は、ごぽごぽと泡が鳴る音に変わる。
近くに浮いていたゆずを沈め、浮かせる。それを繰り返す。そうしていれば音は途切れないから。
浴槽の壁に凭れて目を閉じた。今日は一年で一番夜が長い日。そう思い出すとたまらなく憂鬱だった。ポッポたちはもう眠りに就いている。ヨルノズクやドンカラスは夜の方が元気だが、ボールから出して遊ばせるには家の中は狭すぎる。長い夜を一人で過ごす。いつもの事なのに、もうとっくに慣れたのに、今日はなんだか妙に寂しい。
気がつけばゆずを弄ぶ手は止まっていて、浴室の中にはまた静寂が広がっていた。泣いてしまいそうだ、と思った。父さんがいなくなってから、泣く事が増えた。ジムリーダーになって何かと苦労したり、寂しかったり、原因はいろいろだろうけど、何よりも一番大きいのは。
電子音が耳に届いた。慌てて湯船の中で立ち上がれば、ざば、とにぎやかな水の音。
浴室の扉を開けて、タオルに手を伸ばす。タオルで手を拭いながら、洗濯機の蓋に載ったポケギアを覗き込むと、見慣れた名前が表示されていた。
俺が泣くようになった最大の原因。涙を止めてくれる、穏やかな声を持った、彼の名前。
手はまだ少し濡れているし、髪から滴り落ちる水滴もそのままだ。だけど、一刻でも早く声が聞きたくて、俺は通話ボタンを押し、ポケギアを耳に当てた。
『もしもし、マツバだけど』
今からそっちに行ってもいいかなぁ、なんて言うから、言ってくれるから。もちろん、と精一杯明るい声で答えた。
頬を何かが伝っていたけれど、それでもいいのだ、と思った。
(END)
1/1ページ