魔法使い
マツバの自宅の呼び鈴を鳴らしても、ノックをしても、彼は出てこない。ジムに様子を見に行ってみたが、どうやらジムにもいないようだ。
どこかに出掛けているのだろうか? こんなに早い時間から? ……それか、家にいるけど出られない、とか。
「体調でも悪いのだろうか……?」
もしそうならば心配だ。一人暮らしだから、看病してくれる人なんていない。
ポケギアで時間を確認する。今日は平日だからジムの仕事があるはずだ。もう起きてはいるだろう。それならば単に呼び鈴に気付いていないだけだとしても迷惑は掛からないはずだ。
アドレス帳からマツバの番号を呼び出す。珍しく彼はすぐに電話に出た。
『もしもし』
囁くような声が聞こえる。内緒話をしているみたいだ。
「私だ。今、マツバの家の前にいるんだが……」
『ああ、ごめん。ちょっと外に出てるんだ』
すーっ、という音がかすかに聞こえた。それから階段を歩く足音。
『ハヤトがさ、熱出しちゃって』
「ハヤト君が?」
どうやら体調が悪いのはマツバではなかったようだ。ハヤト君が熱。なんとなく意外だ。滅多な事では体調を崩さないように見えるから。
『だから今日はジムを休もうかと思って』
放っておけないし、心配だし、と彼は言う。
『ごめんね、ミナキ君……。ゲンガーたちが気付いてくれたら鍵を開けてくれると思うんだけど』
「いや、それはいいんだが。……マツバ、私でよければハヤト君の看病をしておくぜ」
『えっ』
スイクンにまたしても逃げられてしまった。そして見失ってしまった。だから一旦ジョウトに戻り、情報が入ってくるのを待とうと思っていたのだ。
『……いいの?』
「私でいいのなら」
『いいよ。ありがとう。ミナキ君なら大丈夫』
僕よりもうまくやれるはず、と呟く声が聞こえた。何がだろう。看病がだろうか。
『いくつか買ってきて欲しいものがあるんだけど、お願いしていいかな?』
「ああ」
『よろしくね』
頼まれた買い物を済ませ、すぐにキキョウへ向かった。
「ごめんね。助かったよ」
ハヤト君の家に到着すると、やや疲れた様子のマツバが迎えてくれた。
「気にしなくていいんだぜ。それより、ハヤト君の具合はどうだ?」
「熱が高くて……さっき一度起きたけど、今は寝てる。ミナキ君が来るとは伝えたよ。家にあるものは好きに使ってくれて構わない、だって」
「わかった。こちらは心配しなくていいから、ちゃんと仕事するんだぜ」
マツバは、うん、とうなずきはしたが、きっと今日一日そわそわと落ち着かないままでいるのだろう。
「いってらっしゃい、マツバ」
「いってきます。……ミナキ君、ハヤトの事よろしくね」
任せろ、とまだ不安げな彼の肩を叩く。マツバは、お願いね、と言い残し、私に背を向けて走っていった。
「お邪魔します」
返事をする人はいないけれど、人の家に上がる時はそれなりの礼儀が必要だ。靴を揃えて、できるだけ静かに二階へ上がる。ハヤト君は二階の寝室で寝ているらしい。
そっと襖を開く。彼の青い髪と、枕元にうずくまるポッポが見えた。
「マツバの代わりに来たミナキだ。怪しいものではないから安心してくれ」
そう言うとポッポは、そんな事はわかっている、とでもいうような様子で首を振った。
布団の横に腰を下ろし、ハヤト君の様子を見る。頬が赤くなっていて、呼吸も速い。手袋を外して額に手を当ててみる。額に触れた途端に熱が手のひらから伝わってきた。マツバの言っていた通り、熱が高い。汗をかいている様子がないあたり、しばらく熱は下がらないようだ。
買ってきた保冷シートを額に貼る。眉がぴくりと動いた。起こしてしまったかと焦ったがどうやらその心配はないらしい。
「早く熱が下がるといいんだぜ」
何かあったら教えてくれ、とポッポに声を掛け、台所へ向かう。鍋を拝借して、買ってきたインスタントラーメンにお湯を注ぐ。薬品のようなにおいがする。正直あまり好きではないのだが、一番手軽に食べられるものなのだ。お湯を注ぐだけでいい。ほんの少しだけど野菜も入っているし。
インスタントラーメンをすすりながら、マツバはジムに着いただろうかと考える。間に合うといいのだが、どうだろうか。
そういえば、あんなに余裕のないマツバは久し振りに見たような気がする。だけどそれだけハヤト君が大切なのだろう、と思うとなんだか嬉しくなった。親しい人ができたというのはいい事だ。それも、特別親しい人が。
「ごちそうさまなんだぜ」
手を合わせ、ラーメンの器を片づける。
また二階に上がり、ハヤト君の様子を確認する。まだ時間が経っていないから当然だが、先程と変わった様子はないようだ。良くも悪くも。
壁にもたれて座る。枕元でまどろんでいるポッポの様子を見ていたら、こちらも眠くなってきてしまった。目を閉じたら負けだ、と思いつつも目を閉じてしまう。
前髪を引っ張られる痛みで、一気に目が覚めた。
「いっ! 痛いんだぜ……」
思わず悲鳴を上げかけたが、近くでハヤト君が寝ているという事を思い出して声のボリュームを下げた。
目を開けると、羽ばたきながら私の前髪を引っ張っているポッポの姿が見えた。
「もう起きたから、やめるんだぜ」
前髪をくちばしの間から救出する。納得したのか、ポッポは大人しく畳の上に降りた。
「何かあったのか?」
問いかけるとポッポはハヤト君の所に歩いていき、彼の頬に頭をすりつけた。
「……ハヤト君」
ぼんやりと私を見ているハヤト君と目が合った。
「起きたのか。具合はどうだ?」
彼はゆっくりとまばたきをする。熱のせいか少し目が潤んでいる。
「……大丈夫です」
「とてもそうは見えないんだぜ」
ぬるくなった保冷シートを剥がし、額に手を当てる。うっすら汗をかいているような気がする。そろそろ熱が下がり始める頃だろうか。だけどまだ熱い。
「やっぱり熱が高い。しばらく大人しくしているんだぜ」
脱水症状になってはいけない、とスポーツドリンクの入ったペットボトルを差し出す。布団に手をついて、なんとか体を起こそうとしてはいるものの、腕が震えていて頼りない。背中に手を添えて体を支え、起き上がらせる。相当弱っているようだ。
俯いたまま辛そうにぐったりとしている彼の代わりに、ペットボトルの蓋を開けて渡す。ゆっくりと時間をかけてスポーツドリンクを飲んで、息をつく。
「すみません……」
起きているのが辛いのか、すぐに布団に横になってしまった。
「気にしなくていいんだぜ。他に何か欲しいものはないか?」
ハヤト君は天井を見上げた。
「……父さんに」
「お父さんに?」
「会いたい」
彼は目を閉じる。布団を掛けてやりながら私は問いかけた。
「お父さんに会いたいんだぜ?」
「違う」
今、父さんに会いたいと聞こえたのは聞き間違いだったのだろうか?
「違う、会いたく、ない」
情けない所を、見られたくない。苦しげな呼吸の間にそう聞こえた。
「君のお父さんだって風邪ぐらい引くさ」
ハヤト君は首を横に振った。違う、と彼は繰り返す。
熱に浮かされる、というのはこういう事だろうか。大丈夫か、なんて間抜けな言葉が零れた。大丈夫ではないだろう。体も、だけど、どちらかといえば心が。こんなに弱気になっている彼は初めて見る。
マツバならどうするのだろう。マツバなら、きっと傍にいるだけでいい。だけど私はマツバではない。
「何があったかは知らないが」
彼の目を覆って光を遮る。眠れるなら眠ってしまった方が楽だろう。
「君は頑張っているとマツバから聞いている。全然、情けなくなんてないんだぜ」
さすがにまだ眠ってはいないようで、彼はこちらを向く。
「そんなに慌てなくても、君が君のお父さんの年になる頃には、今よりももっとしっかりした人になっているはずだ。きっと十分すぎるぐらいに頼れる男になるんだぜ」
だから心配いらないんだぜ! と言いながら、まぶたの辺りをぺちぺちと叩く。ハヤト君はしばらく黙り込んでいたが、やがてその口元がわずかに綻んだ。ありがとうございます、と掠れた声が聞こえた。
呼吸が寝息に変わる。次に目を覚ます時には少しでもよくなっていれば、と思う。
ポッポは心配そうにハヤト君に寄り添う。そこでポケギアが鳴った。慌てて部屋を出て、通話ボタンを押す。
『もしもし、ミナキ君?』
「マツバ」
『ハヤト、大丈夫?』
第一声がそれなのか、と思わなくもないが、まあ仕方がない。
「そろそろ熱は下がり始めるだろう、といった所だな。まだ下がってはいないが」
『そう……』
溜め息混じりの声がする。
「てっきりマツバはこちらに来ると思ったんだぜ」
『行きたいんだけどね。一度そっちに行ったら帰れなくなりそうだから』
ジムが終わったらすぐに行くよ、とマツバは言う。
「それなら夕飯を用意しておくよ……人の家で言う台詞ではないような気はするが」
『楽しみにしてるよ。それと、ハヤトが元気になったらお粥でも作ってあげて』
「了解だ。おじやと白粥とどちらがいいだろうか」
『うーん……栄養が多い方が早くよくなりそうだから、おじやで』
「わかった。野菜をたっぷり入れておくよ」
ちゃんと仕事するんだぞ、と最後に言って電話を切った。
ポケギアをポケットにしまった所で今度は腰で何かが揺れる。上着の裾を捲るとモンスターボールが揺れていた。そういえば、食事を忘れていた。
庭に出てゴーストたちをボールから出す。頼まれたものと一緒に買ってきたポケモンフードの袋を開けると、いっせいに飛びついてきた。相当空腹だったらしい。
「忘れていてすまなかったんだぜ」
頭を撫でながらそう言うと、まったくだ、とでも言わんばかりに鼻を鳴らす。
「仕方がないだろう。ハヤト君が大変なんだ……あ」
そういえば、ハヤト君のポッポはずっとハヤト君の傍にいる。少なくとも私が来てから何も食べていない。少し分けよう。
まだ食べたい、と寄ってくるのをなんとかかわす。部屋の扉をそっと開けてポッポを呼ぶ。ポッポはやや面倒くさそうにこちらに歩いてくる。だがポケモンフードの袋を見た瞬間に歩く速度が上がった。素直なのはいい事だ。態度には出さなかったがやっぱり空腹だったようだ。
「……君は本当にご主人思いなんだぜ」
羽を撫でると一瞬嫌そうな顔でこちらを見たが、すぐに食事に戻る。あっという間に食べきると、私の膝の上に乗る。また羽を撫でると、今度は嫌そうな顔をせず、気持ちよさそうに目を細めた。どうやら懐いてもらえたらしい。
ポッポが私の膝の上で眠り始めてから随分と経った頃。わずかに日が傾きかけた頃。咳の音が何度か聞こえた。ポッポを起こさないように床に下ろし、布団に近付く。
咳をしながら、ハヤト君は目を開けた。
「大丈夫なんだぜ?」
「……咳が出るようにはなりましたけど、だいぶ楽になりました」
暑い、と言いながらハヤト君は汗を拭う。
「熱が少し下がったみたいだ。よかったんだぜ」
声に気付いたのか、ポッポが目を覚ました。ハヤト君の胸に飛び乗って羽をばたつかせる。ハヤト君は、心配かけてごめん、とポッポの頭を撫でた。
「だいぶ元気になったな」
「はい……すみません、ご迷惑をお掛けしました」
「いや、君が元気になったならいいさ」
いつものハヤト君らしくなってきた。少なくとも熱が下がる前よりは。
安心した所で、ぐう、とお腹が鳴った。その音を聞いてハヤト君は笑った。そういえば、朝にカップラーメンを食べてから何も食べていない。
「よかったら台所使って下さい。すぐに食べられるものだと、冷凍のうどんぐらいしかないんですけど」
「ありがとう、何か作らせてもらうよ。そうだ、ハヤト君は何か食べられそうか?」
栄養は大事だぜ、と言うと、彼は微笑んだ。
「少しなら、多分」
「わかった。ちょっと待ってるんだぜ」
マツバのリクエスト、というわけでもないけれど、おじやを作ろう。ハヤト君の分と、私の分と、あとマツバの分も作っておいて、温めたらすぐに食べられるようにしておこう。
鍋にだしを入れて火にかけた所でふと不安になる。そういえば、ハヤト君は料理がうまいと聞いた事がある。私はだいたい自分が食べるためにしか料理をしない。誰かに感想をもらった事はほとんどない。つまり私の料理が私以外の人にはおいしいのかどうかはわからないという事だ。
「……ま、まあなんとかなるんだぜ」
とりあえず大事なのは栄養だ、と自分に言い聞かせて調理を進める。にんじんは小さく刻み、ちくわは程よい厚さで。お米と一緒に煮込んで、最後に卵を入れて混ぜて、ネギをちらして完成だ。
味見をしてみる。おいしくできた、と満足しかけて、そういえば自分の舌を信用していいものかと思っていた、と思い出す。
お椀によそい、おぼんに載せて運ぶ。においはおいしそうだ。
「お待たせなんだぜ」
「ありがとうございます」
今度は自力で体を起こした。起きる時に咳き込んだが、だいぶ回復したようだ。
いただきます、と言ってれんげでおじやを食べるハヤト君の様子をこっそりと観察する。
「おいしいです」
笑顔を浮かべてそう言ってくれた。少し安心する。
「よかったんだぜ。あんまり人に食べてもらう事はないから不安だったんだぜ」
「そうなんですか?」
「ああ。それにハヤト君は料理がうまいと聞いていたから心配していたんだぜ」
「そんな事ないです……作れるのは、簡単なものだけです」
「それでもマツバは喜んでいるぜ。よく嬉しそうに話してくれる」
「そう、なんですか」
ハヤト君は少し恥ずかしそうに俯いた。だけどその顔は幸せそうだ。
「……マツバの気持ちもわからなくはないな」
「えっ?」
「いや、なんでもない。ああ、無理して全部食べなくてもいいんだぜ。具合が悪くならない程度にするんだぜ」
「はい。……だけど、昨日の夜から何も食べてないから、お腹空いてたみたいです。お椀一杯ぐらいなら大丈夫そうです」
「それならいいんだぜ」
そのまま黙っておじやを食べる。れんげがお椀にぶつかる音と、ハヤト君の咳の音が時々聞こえる。
当然かもしれないが私の方が早く食べ終わった。食べ終わるなり頭に乗ってきたポッポとじゃれあっていると、くすくす笑う声がする。
「ずいぶん懐いたんですね、ポッポ」
「みたいだな」
「あ、おじや、ごちそうさまでした」
気がつけば彼の膝に置かれたお椀も空だ。
「全部食べきったのか。偉いんだぜ。きっとすぐによくなるんだぜ」
「だといいんですけど」
ジムが終わったらマツバが来ると言っていた、と言うと、また嬉しそうな顔をする。
「汗をかいたのなら着替えて、もう少し休むんだぜ」
「はい、そうします」
ポッポが、任せろ、と言わんばかりにハヤト君に寄り添う。ポッポに任せて、食器の片付けを始めた。
「気持ちよさそうに寝てるね」
マツバはそう言い、ハヤト君の体温を測る。そしてほっとした顔をした。
「熱もほとんど下がったみたいだし」
「ああ。本当によかったよ」
マツバの指がハヤト君の口元に触れる。
「元気に、なったのかな」
ぽつり、とどこか寂しそうに零された言葉。体調の事を指しているのではないのだろう。
「よくわからないが、多少は落ち着いたのではないかと思う」
「……そう」
マツバは私の隣に座り、天井を見上げた。壁に頭がぶつかる音がした。
「やっぱりミナキ君はすごいや」
「私が?」
「一晩中一緒にいたのにさ、僕は何も言えなくて」
朝に電話を受けた時の、僕よりもうまくやれるはず、という言葉が蘇る。そういう意味だったのか。
「私はマツバではないから、何か言わなければならないと思ったんだぜ」
「どういう事?」
「マツバは一緒にいるだけでいいという事だ」
ハヤト君の一番近くにいて、触れて、安心させられるのはマツバだけ。どちらでもない私は、言葉を使うしかないのだ。
「しっかりするんだぜ、マツバ」
「ミナキ君には言われたくないよ」
マツバは立てた膝に額をつける。
「……まあ、でも、ありがとう」
ぼそりと呟くのが聞こえた。ああ、と短く返事をするとマツバは顔を上げた。
「安心したらお腹空いた」
「台所におじやがあるんだぜ」
「本当に作ってくれたんだ。ハヤト、ちゃんと食べてた?」
「ああ」
よかった、とマツバは笑顔を浮かべる。
「今度お礼するよ。何がいい?」
「別にいいんだぜ。たいした事はしていないんだぜ」
「僕がお礼したいんだ。スイクンの写真でいい?」
「あるのか!?」
「昔の文献を探せば一枚ぐらいは。コピーしかあげられないけど」
「コピーでも構わないぜ! ありがとうマツバ!」
手を握ってぶんぶんと振る。マツバは慌てた顔をした。
「大きな声出さないで。ハヤトが起きる」
「す、すまないんだぜ」
もう、と言い残してマツバは台所へ下りていった。
「……マツバが来てくれたから、もう安心なんだぜ」
応えないと知りながら、私はそう呟いた。
ジムが終わったらマツバが来る、と伝えた時の表情を思い出す。私がいくら言葉を積み重ねても、あんな表情をさせる事はできない。なのにマツバは自信がないようだ。全く、手のかかる。
「よくなったら、キスの一つでもしてやるんだぜ」
階段を上る足音がする。ふとそちらに気を取られた瞬間だった。
はい、と小さな声が聞こえたような気がした。
(END)
どこかに出掛けているのだろうか? こんなに早い時間から? ……それか、家にいるけど出られない、とか。
「体調でも悪いのだろうか……?」
もしそうならば心配だ。一人暮らしだから、看病してくれる人なんていない。
ポケギアで時間を確認する。今日は平日だからジムの仕事があるはずだ。もう起きてはいるだろう。それならば単に呼び鈴に気付いていないだけだとしても迷惑は掛からないはずだ。
アドレス帳からマツバの番号を呼び出す。珍しく彼はすぐに電話に出た。
『もしもし』
囁くような声が聞こえる。内緒話をしているみたいだ。
「私だ。今、マツバの家の前にいるんだが……」
『ああ、ごめん。ちょっと外に出てるんだ』
すーっ、という音がかすかに聞こえた。それから階段を歩く足音。
『ハヤトがさ、熱出しちゃって』
「ハヤト君が?」
どうやら体調が悪いのはマツバではなかったようだ。ハヤト君が熱。なんとなく意外だ。滅多な事では体調を崩さないように見えるから。
『だから今日はジムを休もうかと思って』
放っておけないし、心配だし、と彼は言う。
『ごめんね、ミナキ君……。ゲンガーたちが気付いてくれたら鍵を開けてくれると思うんだけど』
「いや、それはいいんだが。……マツバ、私でよければハヤト君の看病をしておくぜ」
『えっ』
スイクンにまたしても逃げられてしまった。そして見失ってしまった。だから一旦ジョウトに戻り、情報が入ってくるのを待とうと思っていたのだ。
『……いいの?』
「私でいいのなら」
『いいよ。ありがとう。ミナキ君なら大丈夫』
僕よりもうまくやれるはず、と呟く声が聞こえた。何がだろう。看病がだろうか。
『いくつか買ってきて欲しいものがあるんだけど、お願いしていいかな?』
「ああ」
『よろしくね』
頼まれた買い物を済ませ、すぐにキキョウへ向かった。
「ごめんね。助かったよ」
ハヤト君の家に到着すると、やや疲れた様子のマツバが迎えてくれた。
「気にしなくていいんだぜ。それより、ハヤト君の具合はどうだ?」
「熱が高くて……さっき一度起きたけど、今は寝てる。ミナキ君が来るとは伝えたよ。家にあるものは好きに使ってくれて構わない、だって」
「わかった。こちらは心配しなくていいから、ちゃんと仕事するんだぜ」
マツバは、うん、とうなずきはしたが、きっと今日一日そわそわと落ち着かないままでいるのだろう。
「いってらっしゃい、マツバ」
「いってきます。……ミナキ君、ハヤトの事よろしくね」
任せろ、とまだ不安げな彼の肩を叩く。マツバは、お願いね、と言い残し、私に背を向けて走っていった。
「お邪魔します」
返事をする人はいないけれど、人の家に上がる時はそれなりの礼儀が必要だ。靴を揃えて、できるだけ静かに二階へ上がる。ハヤト君は二階の寝室で寝ているらしい。
そっと襖を開く。彼の青い髪と、枕元にうずくまるポッポが見えた。
「マツバの代わりに来たミナキだ。怪しいものではないから安心してくれ」
そう言うとポッポは、そんな事はわかっている、とでもいうような様子で首を振った。
布団の横に腰を下ろし、ハヤト君の様子を見る。頬が赤くなっていて、呼吸も速い。手袋を外して額に手を当ててみる。額に触れた途端に熱が手のひらから伝わってきた。マツバの言っていた通り、熱が高い。汗をかいている様子がないあたり、しばらく熱は下がらないようだ。
買ってきた保冷シートを額に貼る。眉がぴくりと動いた。起こしてしまったかと焦ったがどうやらその心配はないらしい。
「早く熱が下がるといいんだぜ」
何かあったら教えてくれ、とポッポに声を掛け、台所へ向かう。鍋を拝借して、買ってきたインスタントラーメンにお湯を注ぐ。薬品のようなにおいがする。正直あまり好きではないのだが、一番手軽に食べられるものなのだ。お湯を注ぐだけでいい。ほんの少しだけど野菜も入っているし。
インスタントラーメンをすすりながら、マツバはジムに着いただろうかと考える。間に合うといいのだが、どうだろうか。
そういえば、あんなに余裕のないマツバは久し振りに見たような気がする。だけどそれだけハヤト君が大切なのだろう、と思うとなんだか嬉しくなった。親しい人ができたというのはいい事だ。それも、特別親しい人が。
「ごちそうさまなんだぜ」
手を合わせ、ラーメンの器を片づける。
また二階に上がり、ハヤト君の様子を確認する。まだ時間が経っていないから当然だが、先程と変わった様子はないようだ。良くも悪くも。
壁にもたれて座る。枕元でまどろんでいるポッポの様子を見ていたら、こちらも眠くなってきてしまった。目を閉じたら負けだ、と思いつつも目を閉じてしまう。
前髪を引っ張られる痛みで、一気に目が覚めた。
「いっ! 痛いんだぜ……」
思わず悲鳴を上げかけたが、近くでハヤト君が寝ているという事を思い出して声のボリュームを下げた。
目を開けると、羽ばたきながら私の前髪を引っ張っているポッポの姿が見えた。
「もう起きたから、やめるんだぜ」
前髪をくちばしの間から救出する。納得したのか、ポッポは大人しく畳の上に降りた。
「何かあったのか?」
問いかけるとポッポはハヤト君の所に歩いていき、彼の頬に頭をすりつけた。
「……ハヤト君」
ぼんやりと私を見ているハヤト君と目が合った。
「起きたのか。具合はどうだ?」
彼はゆっくりとまばたきをする。熱のせいか少し目が潤んでいる。
「……大丈夫です」
「とてもそうは見えないんだぜ」
ぬるくなった保冷シートを剥がし、額に手を当てる。うっすら汗をかいているような気がする。そろそろ熱が下がり始める頃だろうか。だけどまだ熱い。
「やっぱり熱が高い。しばらく大人しくしているんだぜ」
脱水症状になってはいけない、とスポーツドリンクの入ったペットボトルを差し出す。布団に手をついて、なんとか体を起こそうとしてはいるものの、腕が震えていて頼りない。背中に手を添えて体を支え、起き上がらせる。相当弱っているようだ。
俯いたまま辛そうにぐったりとしている彼の代わりに、ペットボトルの蓋を開けて渡す。ゆっくりと時間をかけてスポーツドリンクを飲んで、息をつく。
「すみません……」
起きているのが辛いのか、すぐに布団に横になってしまった。
「気にしなくていいんだぜ。他に何か欲しいものはないか?」
ハヤト君は天井を見上げた。
「……父さんに」
「お父さんに?」
「会いたい」
彼は目を閉じる。布団を掛けてやりながら私は問いかけた。
「お父さんに会いたいんだぜ?」
「違う」
今、父さんに会いたいと聞こえたのは聞き間違いだったのだろうか?
「違う、会いたく、ない」
情けない所を、見られたくない。苦しげな呼吸の間にそう聞こえた。
「君のお父さんだって風邪ぐらい引くさ」
ハヤト君は首を横に振った。違う、と彼は繰り返す。
熱に浮かされる、というのはこういう事だろうか。大丈夫か、なんて間抜けな言葉が零れた。大丈夫ではないだろう。体も、だけど、どちらかといえば心が。こんなに弱気になっている彼は初めて見る。
マツバならどうするのだろう。マツバなら、きっと傍にいるだけでいい。だけど私はマツバではない。
「何があったかは知らないが」
彼の目を覆って光を遮る。眠れるなら眠ってしまった方が楽だろう。
「君は頑張っているとマツバから聞いている。全然、情けなくなんてないんだぜ」
さすがにまだ眠ってはいないようで、彼はこちらを向く。
「そんなに慌てなくても、君が君のお父さんの年になる頃には、今よりももっとしっかりした人になっているはずだ。きっと十分すぎるぐらいに頼れる男になるんだぜ」
だから心配いらないんだぜ! と言いながら、まぶたの辺りをぺちぺちと叩く。ハヤト君はしばらく黙り込んでいたが、やがてその口元がわずかに綻んだ。ありがとうございます、と掠れた声が聞こえた。
呼吸が寝息に変わる。次に目を覚ます時には少しでもよくなっていれば、と思う。
ポッポは心配そうにハヤト君に寄り添う。そこでポケギアが鳴った。慌てて部屋を出て、通話ボタンを押す。
『もしもし、ミナキ君?』
「マツバ」
『ハヤト、大丈夫?』
第一声がそれなのか、と思わなくもないが、まあ仕方がない。
「そろそろ熱は下がり始めるだろう、といった所だな。まだ下がってはいないが」
『そう……』
溜め息混じりの声がする。
「てっきりマツバはこちらに来ると思ったんだぜ」
『行きたいんだけどね。一度そっちに行ったら帰れなくなりそうだから』
ジムが終わったらすぐに行くよ、とマツバは言う。
「それなら夕飯を用意しておくよ……人の家で言う台詞ではないような気はするが」
『楽しみにしてるよ。それと、ハヤトが元気になったらお粥でも作ってあげて』
「了解だ。おじやと白粥とどちらがいいだろうか」
『うーん……栄養が多い方が早くよくなりそうだから、おじやで』
「わかった。野菜をたっぷり入れておくよ」
ちゃんと仕事するんだぞ、と最後に言って電話を切った。
ポケギアをポケットにしまった所で今度は腰で何かが揺れる。上着の裾を捲るとモンスターボールが揺れていた。そういえば、食事を忘れていた。
庭に出てゴーストたちをボールから出す。頼まれたものと一緒に買ってきたポケモンフードの袋を開けると、いっせいに飛びついてきた。相当空腹だったらしい。
「忘れていてすまなかったんだぜ」
頭を撫でながらそう言うと、まったくだ、とでも言わんばかりに鼻を鳴らす。
「仕方がないだろう。ハヤト君が大変なんだ……あ」
そういえば、ハヤト君のポッポはずっとハヤト君の傍にいる。少なくとも私が来てから何も食べていない。少し分けよう。
まだ食べたい、と寄ってくるのをなんとかかわす。部屋の扉をそっと開けてポッポを呼ぶ。ポッポはやや面倒くさそうにこちらに歩いてくる。だがポケモンフードの袋を見た瞬間に歩く速度が上がった。素直なのはいい事だ。態度には出さなかったがやっぱり空腹だったようだ。
「……君は本当にご主人思いなんだぜ」
羽を撫でると一瞬嫌そうな顔でこちらを見たが、すぐに食事に戻る。あっという間に食べきると、私の膝の上に乗る。また羽を撫でると、今度は嫌そうな顔をせず、気持ちよさそうに目を細めた。どうやら懐いてもらえたらしい。
ポッポが私の膝の上で眠り始めてから随分と経った頃。わずかに日が傾きかけた頃。咳の音が何度か聞こえた。ポッポを起こさないように床に下ろし、布団に近付く。
咳をしながら、ハヤト君は目を開けた。
「大丈夫なんだぜ?」
「……咳が出るようにはなりましたけど、だいぶ楽になりました」
暑い、と言いながらハヤト君は汗を拭う。
「熱が少し下がったみたいだ。よかったんだぜ」
声に気付いたのか、ポッポが目を覚ました。ハヤト君の胸に飛び乗って羽をばたつかせる。ハヤト君は、心配かけてごめん、とポッポの頭を撫でた。
「だいぶ元気になったな」
「はい……すみません、ご迷惑をお掛けしました」
「いや、君が元気になったならいいさ」
いつものハヤト君らしくなってきた。少なくとも熱が下がる前よりは。
安心した所で、ぐう、とお腹が鳴った。その音を聞いてハヤト君は笑った。そういえば、朝にカップラーメンを食べてから何も食べていない。
「よかったら台所使って下さい。すぐに食べられるものだと、冷凍のうどんぐらいしかないんですけど」
「ありがとう、何か作らせてもらうよ。そうだ、ハヤト君は何か食べられそうか?」
栄養は大事だぜ、と言うと、彼は微笑んだ。
「少しなら、多分」
「わかった。ちょっと待ってるんだぜ」
マツバのリクエスト、というわけでもないけれど、おじやを作ろう。ハヤト君の分と、私の分と、あとマツバの分も作っておいて、温めたらすぐに食べられるようにしておこう。
鍋にだしを入れて火にかけた所でふと不安になる。そういえば、ハヤト君は料理がうまいと聞いた事がある。私はだいたい自分が食べるためにしか料理をしない。誰かに感想をもらった事はほとんどない。つまり私の料理が私以外の人にはおいしいのかどうかはわからないという事だ。
「……ま、まあなんとかなるんだぜ」
とりあえず大事なのは栄養だ、と自分に言い聞かせて調理を進める。にんじんは小さく刻み、ちくわは程よい厚さで。お米と一緒に煮込んで、最後に卵を入れて混ぜて、ネギをちらして完成だ。
味見をしてみる。おいしくできた、と満足しかけて、そういえば自分の舌を信用していいものかと思っていた、と思い出す。
お椀によそい、おぼんに載せて運ぶ。においはおいしそうだ。
「お待たせなんだぜ」
「ありがとうございます」
今度は自力で体を起こした。起きる時に咳き込んだが、だいぶ回復したようだ。
いただきます、と言ってれんげでおじやを食べるハヤト君の様子をこっそりと観察する。
「おいしいです」
笑顔を浮かべてそう言ってくれた。少し安心する。
「よかったんだぜ。あんまり人に食べてもらう事はないから不安だったんだぜ」
「そうなんですか?」
「ああ。それにハヤト君は料理がうまいと聞いていたから心配していたんだぜ」
「そんな事ないです……作れるのは、簡単なものだけです」
「それでもマツバは喜んでいるぜ。よく嬉しそうに話してくれる」
「そう、なんですか」
ハヤト君は少し恥ずかしそうに俯いた。だけどその顔は幸せそうだ。
「……マツバの気持ちもわからなくはないな」
「えっ?」
「いや、なんでもない。ああ、無理して全部食べなくてもいいんだぜ。具合が悪くならない程度にするんだぜ」
「はい。……だけど、昨日の夜から何も食べてないから、お腹空いてたみたいです。お椀一杯ぐらいなら大丈夫そうです」
「それならいいんだぜ」
そのまま黙っておじやを食べる。れんげがお椀にぶつかる音と、ハヤト君の咳の音が時々聞こえる。
当然かもしれないが私の方が早く食べ終わった。食べ終わるなり頭に乗ってきたポッポとじゃれあっていると、くすくす笑う声がする。
「ずいぶん懐いたんですね、ポッポ」
「みたいだな」
「あ、おじや、ごちそうさまでした」
気がつけば彼の膝に置かれたお椀も空だ。
「全部食べきったのか。偉いんだぜ。きっとすぐによくなるんだぜ」
「だといいんですけど」
ジムが終わったらマツバが来ると言っていた、と言うと、また嬉しそうな顔をする。
「汗をかいたのなら着替えて、もう少し休むんだぜ」
「はい、そうします」
ポッポが、任せろ、と言わんばかりにハヤト君に寄り添う。ポッポに任せて、食器の片付けを始めた。
「気持ちよさそうに寝てるね」
マツバはそう言い、ハヤト君の体温を測る。そしてほっとした顔をした。
「熱もほとんど下がったみたいだし」
「ああ。本当によかったよ」
マツバの指がハヤト君の口元に触れる。
「元気に、なったのかな」
ぽつり、とどこか寂しそうに零された言葉。体調の事を指しているのではないのだろう。
「よくわからないが、多少は落ち着いたのではないかと思う」
「……そう」
マツバは私の隣に座り、天井を見上げた。壁に頭がぶつかる音がした。
「やっぱりミナキ君はすごいや」
「私が?」
「一晩中一緒にいたのにさ、僕は何も言えなくて」
朝に電話を受けた時の、僕よりもうまくやれるはず、という言葉が蘇る。そういう意味だったのか。
「私はマツバではないから、何か言わなければならないと思ったんだぜ」
「どういう事?」
「マツバは一緒にいるだけでいいという事だ」
ハヤト君の一番近くにいて、触れて、安心させられるのはマツバだけ。どちらでもない私は、言葉を使うしかないのだ。
「しっかりするんだぜ、マツバ」
「ミナキ君には言われたくないよ」
マツバは立てた膝に額をつける。
「……まあ、でも、ありがとう」
ぼそりと呟くのが聞こえた。ああ、と短く返事をするとマツバは顔を上げた。
「安心したらお腹空いた」
「台所におじやがあるんだぜ」
「本当に作ってくれたんだ。ハヤト、ちゃんと食べてた?」
「ああ」
よかった、とマツバは笑顔を浮かべる。
「今度お礼するよ。何がいい?」
「別にいいんだぜ。たいした事はしていないんだぜ」
「僕がお礼したいんだ。スイクンの写真でいい?」
「あるのか!?」
「昔の文献を探せば一枚ぐらいは。コピーしかあげられないけど」
「コピーでも構わないぜ! ありがとうマツバ!」
手を握ってぶんぶんと振る。マツバは慌てた顔をした。
「大きな声出さないで。ハヤトが起きる」
「す、すまないんだぜ」
もう、と言い残してマツバは台所へ下りていった。
「……マツバが来てくれたから、もう安心なんだぜ」
応えないと知りながら、私はそう呟いた。
ジムが終わったらマツバが来る、と伝えた時の表情を思い出す。私がいくら言葉を積み重ねても、あんな表情をさせる事はできない。なのにマツバは自信がないようだ。全く、手のかかる。
「よくなったら、キスの一つでもしてやるんだぜ」
階段を上る足音がする。ふとそちらに気を取られた瞬間だった。
はい、と小さな声が聞こえたような気がした。
(END)
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