浮き上がる
手で地面を軽く押してやるだけで、体は前に倒れていく。座っていた石段から離れて、ふわりと宙を舞う感覚。
耳元で音が鳴る。その音が消えれば後に残るのは静寂。閉じていた目を開く。暗くて何も見えない。
体の力を抜いて漂う。地上では味わえない、重力から切り離された感覚。地上にある法則を無視するという点ではここも空も変わらないのに。
ここにいるのは、苦しい。
息を吐きだす。水面に浮かび上がった泡が弾ける音が微かに聞こえた。
このまま息を吸えば、きっと自分は死ぬのだろう。
じわりとまぶたが熱くなる。苦しいからか、それとも、怖いからだろうか。
「ダメ」
妙に鮮明に声が聞こえた。同時に腕を強く引かれる。耳元でまた音が鳴った。
「ダメだよ、ハヤト」
腕を掴む手。この手を、声を、俺は知っている。
「マツ、バ」
自分の声が聞こえて、息をしていると気付く。生きていると気付く。
脇の下に手を入れられ、引き上げられた。
「どうして」
石段の上、マツバの足の間に座らされる。どうしてマツバがここにいるのだろう。
「お昼に電話した時、なんだか元気がなかったから」
後ろから抱き締められる。冷たい水と夜風で冷えた体がわずかに温まる。
「それで来てみたら家にいなくて。まだジムかと思って見に行こうとしたら……音が聞こえて、まさかと思ったらそのまさかでさ」
ビックリしたよ、と言われる。声は笑っているけれど、腕には力が込められている。絶対に離すまいとするかのように。
「何かあったの?」
そっと右手が上げられる。人差し指が俺の目元を撫でる。指が離れた後にまた水が伝う。髪から落ちてくる水滴かと思っていたが、どうやら違うようだ。
「……空から」
「空から?」
「遠くに、行きたかったのかもしれない」
今朝、些細な事でジムトレーナーのツバサと喧嘩をしてしまった。今日一日、お互いに口を利かなかった。
父さんがジムトレーナーと喧嘩をしている所なんて見た事がない。子供みたいに意地を張っている所だって見た事がない。どうして俺はこんなにダメなんだろう。父さんの背中はあまりにも遠い。それが苦しくて、苦しくて。
「水の底なら、ここよりも遠いかと思って」
ぎゅ、とまた腕に力が込められる。
「死んだりしたら嫌だよ」
「死ぬつもりでは、なかったけど」
「馬鹿。僕が見つけなかったら、どうなってたと思うの?」
体に回される腕が震えている。そっと手に触れると、彼の体が跳ねる。そして手を強く握られた。冷え切った手が温まる。マツバの手を温かいと思うなんて、と少しだけ可笑しかった。
「ハヤトはここにいて」
掠れた声が聞こえた。
「空でも、水の底でもなくて、ここにいて」
僕のそばにいて、と彼は言う。怯えているのだとようやく気が付いた。マツバは俺を失う事に怯えている。
「……ごめん」
「本当だよ。本当に、もう」
馬鹿、と繰り返す。
「もうあんな事しないで」
「しないよ。もう絶対にしないから」
俺の手を握る彼の手に、更に手を重ねる。
「泣かないで」
もうどこにも行かないから。
(END)
耳元で音が鳴る。その音が消えれば後に残るのは静寂。閉じていた目を開く。暗くて何も見えない。
体の力を抜いて漂う。地上では味わえない、重力から切り離された感覚。地上にある法則を無視するという点ではここも空も変わらないのに。
ここにいるのは、苦しい。
息を吐きだす。水面に浮かび上がった泡が弾ける音が微かに聞こえた。
このまま息を吸えば、きっと自分は死ぬのだろう。
じわりとまぶたが熱くなる。苦しいからか、それとも、怖いからだろうか。
「ダメ」
妙に鮮明に声が聞こえた。同時に腕を強く引かれる。耳元でまた音が鳴った。
「ダメだよ、ハヤト」
腕を掴む手。この手を、声を、俺は知っている。
「マツ、バ」
自分の声が聞こえて、息をしていると気付く。生きていると気付く。
脇の下に手を入れられ、引き上げられた。
「どうして」
石段の上、マツバの足の間に座らされる。どうしてマツバがここにいるのだろう。
「お昼に電話した時、なんだか元気がなかったから」
後ろから抱き締められる。冷たい水と夜風で冷えた体がわずかに温まる。
「それで来てみたら家にいなくて。まだジムかと思って見に行こうとしたら……音が聞こえて、まさかと思ったらそのまさかでさ」
ビックリしたよ、と言われる。声は笑っているけれど、腕には力が込められている。絶対に離すまいとするかのように。
「何かあったの?」
そっと右手が上げられる。人差し指が俺の目元を撫でる。指が離れた後にまた水が伝う。髪から落ちてくる水滴かと思っていたが、どうやら違うようだ。
「……空から」
「空から?」
「遠くに、行きたかったのかもしれない」
今朝、些細な事でジムトレーナーのツバサと喧嘩をしてしまった。今日一日、お互いに口を利かなかった。
父さんがジムトレーナーと喧嘩をしている所なんて見た事がない。子供みたいに意地を張っている所だって見た事がない。どうして俺はこんなにダメなんだろう。父さんの背中はあまりにも遠い。それが苦しくて、苦しくて。
「水の底なら、ここよりも遠いかと思って」
ぎゅ、とまた腕に力が込められる。
「死んだりしたら嫌だよ」
「死ぬつもりでは、なかったけど」
「馬鹿。僕が見つけなかったら、どうなってたと思うの?」
体に回される腕が震えている。そっと手に触れると、彼の体が跳ねる。そして手を強く握られた。冷え切った手が温まる。マツバの手を温かいと思うなんて、と少しだけ可笑しかった。
「ハヤトはここにいて」
掠れた声が聞こえた。
「空でも、水の底でもなくて、ここにいて」
僕のそばにいて、と彼は言う。怯えているのだとようやく気が付いた。マツバは俺を失う事に怯えている。
「……ごめん」
「本当だよ。本当に、もう」
馬鹿、と繰り返す。
「もうあんな事しないで」
「しないよ。もう絶対にしないから」
俺の手を握る彼の手に、更に手を重ねる。
「泣かないで」
もうどこにも行かないから。
(END)
1/1ページ