夏の羽音
じわじわと空気中に広がる熱気が、体を蝕んでいくようだった。
「大丈夫? ハヤト」
声の方に顔を向ける。畳と頭が擦れてかすかに音を立てた。
「……明日か明後日あたりにはよくなると思う」
「つまり今はあんまり大丈夫じゃないって事か」
首を縦に振って返事をし、目を閉じた。もう目を開けているだけで疲れる。
夏は決して苦手ではない。だけど梅雨の時期は苦手だ。毎日のように降り続ける雨。たまの晴れ間には強い日差しが顔を覗かせ、それが地面の中の水分を蒸発させる。その気温と湿気にやられて、梅雨が半分ぐらいまで来たこの時期にはほぼ確実に体調を崩す。といっても、動けないほど重症というわけではない。そして同時にいつも通りに動けるほど元気でもない。
「熱はないよねぇ」
額に触れたマツバの手が冷たくて心地よかった。俺よりも温度の低い手。取り替えて欲しいな、と思った。
「風邪ではないから。夏バテみたいなものだよ」
目を閉じたまま、呟くように返事をする。いくら鍛えても、体が大人に近づいても、よくならない。昔からこの時期だけはいつもこうして畳の上に転がっている。猫みたいに丸くなって。
ゆっくりと息を吐き出す。暑い。汗が背中を濡らしていく。冷房を入れれば多少楽になるのだが、そうすると今度は部屋を出た瞬間に倒れそうになる。このぐらいなら、まだ、我慢できなくもない。おそらく今日が不調のピークだ。明日には少しはよくなるだろう。とりあえず今日さえ乗り越えればいい。だけど、今日は。
「……約束してたのに、ごめん」
目を開け、顔を上げて言った。
ジムが休みの日曜日。マツバと会う約束をしていたのだが、俺がこんな状態だからどこにも出かけられず、かといって家でのんびりくつろげるわけでもなく、今に至る。
「気にしないで。体調崩したならしょうがないよ」
「本当にごめん」
「いいよ。それにしても、ハヤトが夏バテなんて意外だな」
すごくだるそう、と言われた。実際、すごくだるい。少し頭を動かすだけで眩暈がするし、体も重い。空気中の湿気を吸っているのではないかと思う。だったらもっと空気が乾燥してくれてもよさそうなものなのに。
「この時期はいきなり暑くなるから、体がついていけなくなるみたいだ。……でも今度会う時には、もう大丈夫なはずだから」
「それならよかった」
マツバがそっと頭を撫でてくれた。それが心地よくてまた目を閉じた。本当に猫になったみたいだ。可愛らしく喉を鳴らす事なんてできないけれど。
「おやすみ」
暑くて眠る事もできないと思っていたのに。その一言で、魔法にでもかかったみたいに眠りに落ちた。
ぱたぱた、と音が聞こえた。鳥が羽ばたく音だ、と一瞬思ったが違う。風を感じて、目を開けた。
「あ、おはよ」
マツバはうちわを持った手を止める。それと同時に風が止んだ。寝起きでぼんやりとした頭でだって、どういう事かわかる。
「よく寝てたね。暑くなかった?」
うなずく。そりゃあ、だって。ずっと扇いでいてくれたんだろう? ずいぶんと眠ったようだった。なのに、この気温の中で一度も目を覚まさなかったから。夕方になって気温が下がったのと眠ったのとで、体が少し楽になっていた。
「具合はどう?」
「だいぶ楽になった」
体を起こす。まだ少し眩暈はするが起きられる。マツバの手からうちわを取り、扇ぐ。マツバの前髪がふわふわと揺れる。彼は気持ちよさそうに目を細めた。
「ありがとう、マツバ」
彼の額に汗が浮かんでいる事を見逃しはしなかった。自分だって暑かったのに、俺の事だけを気にかけて。
「お母さんみたいだな」
「……さすがにそれは初めて言われたよ」
くすくすとマツバは笑う。それは当然だろう。マツバも俺も母親にはなれないのだから。
それを残念だと思うようになったのは彼を好きになってからだ、と思い出す。
「もう大丈夫だよ。汗引いたから」
そう言うと彼は俺の手からうちわを取り上げてしまった。
「まだ無理しない事」
「扇ぐぐらいはできるぞ。過保護な母親だなぁ」
「甘やかして育てるのが僕流の子育てなんです。……さて、甘やかしついでに」
マツバは立ち上がり、ズボンについた畳を軽く手で払った。
「アイスでもおごってあげる。買ってくるよ。何がいい?」
「……ぶどう味の」
俺も一緒に行こうかと思ったが、さすがに外に出るのは辛いと思った。申し訳ないがここはマツバに甘えよう。何も食べる気はしないが、アイスぐらいならなんとか食べられるはずだ。
「わかった。行ってくるね」
マツバはサンダルをぺたぺたと鳴らしながら歩いていった。家の中が一気に静かになって心細い。
横向きに寝転がった。ぼんやりと自分の手を見る。マツバみたいに冷たくない手。冬には彼の手を温めてあげられるけど、夏には全くの役立たずだ。その手をわけもなく開いたり閉じたりしているうちに、何かが屋根を叩く音がした。その音はだんだん大きく、間隔を狭めて、家中に響く。
夕立だ。
慌てて起き上がる。マツバは今外にいる。近くの店だ。だけどこの雨だ。きっとずぶ濡れになって帰ってくるだろうから、体を拭けるようにしておかないと。それと着替え。俺の浴衣じゃ小さいだろうから父さんのを借りよう。
ふらつきながら箪笥に向かい、タオルと着替えを取り出す。回らない頭では、傘を持って迎えに行くという考えは浮かばなかった。
玄関の戸が音を立てた。
「ごめん、マツバ。大丈夫?」
「……まだ降らないかと思ってたのに、油断した」
彼は息を切らしながらそう言った。タオルと着替えを渡し、台所へお茶を淹れに行く。部屋へ戻ると着替えを済ませたマツバがアイスの袋を手にしていた。
「あ、お茶淹れてくれたの?」
「寒いかと思って」
「いや、ちょうどいいぐらいだよ」
「そっか。それならいいんだけど」
はい、と袋を手渡された。湯のみをちゃぶ台に置き、マツバの隣に座り、袋を受け取る。ぶどう味の棒アイス。角が取れて丸っこくなっていた。急いで帰ってきてくれたとはいえ、やはり溶け始めてしまったようだ。齧るとぶどうの味が広がる。そして冷たさが体の中にしみこんでいく。
「おいしい」
「よかった」
マツバはソーダ味の棒アイスを食べていた。溶けかけているから、垂らさないようにと必死だ。なんだか滑稽。
二人とも黙っている。聞こえるのは激しい雨の音だけだ。この部屋だけ世界から切り離されたような不思議な気分になる。
「……夕立か。夏って感じだね」
食べ終えたマツバが呟く。俺はうなずいた。夏は嫌いじゃない。この時期は嫌いだけど。
「今日は本当にごめん。おわびに、今度会う時は何か作るよ。何がいい?」
彼はうーん、と唸った。そして突然俺の腕を引いた。
「じゃあ、ぶどう味のアイス」
「……今、食べただろ」
ごちそうさま、と言って彼は笑う。俺は頭を抱えた。不意打ちにもほどがある。ソーダ味を感じる余裕もなかった。
「いいよ。今のがおわびって事で」
そう言われてしまっては怒る事もできなかった。
ああ、もう。暑い。
(END)
「大丈夫? ハヤト」
声の方に顔を向ける。畳と頭が擦れてかすかに音を立てた。
「……明日か明後日あたりにはよくなると思う」
「つまり今はあんまり大丈夫じゃないって事か」
首を縦に振って返事をし、目を閉じた。もう目を開けているだけで疲れる。
夏は決して苦手ではない。だけど梅雨の時期は苦手だ。毎日のように降り続ける雨。たまの晴れ間には強い日差しが顔を覗かせ、それが地面の中の水分を蒸発させる。その気温と湿気にやられて、梅雨が半分ぐらいまで来たこの時期にはほぼ確実に体調を崩す。といっても、動けないほど重症というわけではない。そして同時にいつも通りに動けるほど元気でもない。
「熱はないよねぇ」
額に触れたマツバの手が冷たくて心地よかった。俺よりも温度の低い手。取り替えて欲しいな、と思った。
「風邪ではないから。夏バテみたいなものだよ」
目を閉じたまま、呟くように返事をする。いくら鍛えても、体が大人に近づいても、よくならない。昔からこの時期だけはいつもこうして畳の上に転がっている。猫みたいに丸くなって。
ゆっくりと息を吐き出す。暑い。汗が背中を濡らしていく。冷房を入れれば多少楽になるのだが、そうすると今度は部屋を出た瞬間に倒れそうになる。このぐらいなら、まだ、我慢できなくもない。おそらく今日が不調のピークだ。明日には少しはよくなるだろう。とりあえず今日さえ乗り越えればいい。だけど、今日は。
「……約束してたのに、ごめん」
目を開け、顔を上げて言った。
ジムが休みの日曜日。マツバと会う約束をしていたのだが、俺がこんな状態だからどこにも出かけられず、かといって家でのんびりくつろげるわけでもなく、今に至る。
「気にしないで。体調崩したならしょうがないよ」
「本当にごめん」
「いいよ。それにしても、ハヤトが夏バテなんて意外だな」
すごくだるそう、と言われた。実際、すごくだるい。少し頭を動かすだけで眩暈がするし、体も重い。空気中の湿気を吸っているのではないかと思う。だったらもっと空気が乾燥してくれてもよさそうなものなのに。
「この時期はいきなり暑くなるから、体がついていけなくなるみたいだ。……でも今度会う時には、もう大丈夫なはずだから」
「それならよかった」
マツバがそっと頭を撫でてくれた。それが心地よくてまた目を閉じた。本当に猫になったみたいだ。可愛らしく喉を鳴らす事なんてできないけれど。
「おやすみ」
暑くて眠る事もできないと思っていたのに。その一言で、魔法にでもかかったみたいに眠りに落ちた。
ぱたぱた、と音が聞こえた。鳥が羽ばたく音だ、と一瞬思ったが違う。風を感じて、目を開けた。
「あ、おはよ」
マツバはうちわを持った手を止める。それと同時に風が止んだ。寝起きでぼんやりとした頭でだって、どういう事かわかる。
「よく寝てたね。暑くなかった?」
うなずく。そりゃあ、だって。ずっと扇いでいてくれたんだろう? ずいぶんと眠ったようだった。なのに、この気温の中で一度も目を覚まさなかったから。夕方になって気温が下がったのと眠ったのとで、体が少し楽になっていた。
「具合はどう?」
「だいぶ楽になった」
体を起こす。まだ少し眩暈はするが起きられる。マツバの手からうちわを取り、扇ぐ。マツバの前髪がふわふわと揺れる。彼は気持ちよさそうに目を細めた。
「ありがとう、マツバ」
彼の額に汗が浮かんでいる事を見逃しはしなかった。自分だって暑かったのに、俺の事だけを気にかけて。
「お母さんみたいだな」
「……さすがにそれは初めて言われたよ」
くすくすとマツバは笑う。それは当然だろう。マツバも俺も母親にはなれないのだから。
それを残念だと思うようになったのは彼を好きになってからだ、と思い出す。
「もう大丈夫だよ。汗引いたから」
そう言うと彼は俺の手からうちわを取り上げてしまった。
「まだ無理しない事」
「扇ぐぐらいはできるぞ。過保護な母親だなぁ」
「甘やかして育てるのが僕流の子育てなんです。……さて、甘やかしついでに」
マツバは立ち上がり、ズボンについた畳を軽く手で払った。
「アイスでもおごってあげる。買ってくるよ。何がいい?」
「……ぶどう味の」
俺も一緒に行こうかと思ったが、さすがに外に出るのは辛いと思った。申し訳ないがここはマツバに甘えよう。何も食べる気はしないが、アイスぐらいならなんとか食べられるはずだ。
「わかった。行ってくるね」
マツバはサンダルをぺたぺたと鳴らしながら歩いていった。家の中が一気に静かになって心細い。
横向きに寝転がった。ぼんやりと自分の手を見る。マツバみたいに冷たくない手。冬には彼の手を温めてあげられるけど、夏には全くの役立たずだ。その手をわけもなく開いたり閉じたりしているうちに、何かが屋根を叩く音がした。その音はだんだん大きく、間隔を狭めて、家中に響く。
夕立だ。
慌てて起き上がる。マツバは今外にいる。近くの店だ。だけどこの雨だ。きっとずぶ濡れになって帰ってくるだろうから、体を拭けるようにしておかないと。それと着替え。俺の浴衣じゃ小さいだろうから父さんのを借りよう。
ふらつきながら箪笥に向かい、タオルと着替えを取り出す。回らない頭では、傘を持って迎えに行くという考えは浮かばなかった。
玄関の戸が音を立てた。
「ごめん、マツバ。大丈夫?」
「……まだ降らないかと思ってたのに、油断した」
彼は息を切らしながらそう言った。タオルと着替えを渡し、台所へお茶を淹れに行く。部屋へ戻ると着替えを済ませたマツバがアイスの袋を手にしていた。
「あ、お茶淹れてくれたの?」
「寒いかと思って」
「いや、ちょうどいいぐらいだよ」
「そっか。それならいいんだけど」
はい、と袋を手渡された。湯のみをちゃぶ台に置き、マツバの隣に座り、袋を受け取る。ぶどう味の棒アイス。角が取れて丸っこくなっていた。急いで帰ってきてくれたとはいえ、やはり溶け始めてしまったようだ。齧るとぶどうの味が広がる。そして冷たさが体の中にしみこんでいく。
「おいしい」
「よかった」
マツバはソーダ味の棒アイスを食べていた。溶けかけているから、垂らさないようにと必死だ。なんだか滑稽。
二人とも黙っている。聞こえるのは激しい雨の音だけだ。この部屋だけ世界から切り離されたような不思議な気分になる。
「……夕立か。夏って感じだね」
食べ終えたマツバが呟く。俺はうなずいた。夏は嫌いじゃない。この時期は嫌いだけど。
「今日は本当にごめん。おわびに、今度会う時は何か作るよ。何がいい?」
彼はうーん、と唸った。そして突然俺の腕を引いた。
「じゃあ、ぶどう味のアイス」
「……今、食べただろ」
ごちそうさま、と言って彼は笑う。俺は頭を抱えた。不意打ちにもほどがある。ソーダ味を感じる余裕もなかった。
「いいよ。今のがおわびって事で」
そう言われてしまっては怒る事もできなかった。
ああ、もう。暑い。
(END)
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