Amazing grace
「これ、ピアノ?」
ハヤトは興味深そうにそう言った。
僕の部屋の隅に置かれた黒いピアノ。演奏会なんかで使われるような立派なピアノではなく、家庭用のコンパクトなもの。
「うん、そうだよ。もともとミナキ君のなんだけど、旅に出るからってくれたんだ」
スイッチを入れ、鍵盤を覆う蓋を持ち上げる。鈍く光る黒い蓋は記憶にあるよりも少し軽く感じた。
白と黒の鍵盤が顔を覗かせる。埃を軽く払い、基本の和音を弾いてみる。ド、ミ、ソ。
「わあ」
ハヤトが感嘆の声を上げる。
「もしかして、聞くの初めて?」
「テレビなんかで見た事はあるけど、直接聞くのは初めてだ」
ねえ、何か聞いてみたい。キラキラした目でそう言われては、弾かないわけにはいかない。ずいぶん昔に教えてもらった曲。僕が唯一弾ける曲を弾く事にした。
両手を鍵盤の上に置く。深呼吸を一度する。親指が鍵盤を叩き、演奏は始まる。神様に呼びかけるのに怒鳴り声ではいけない。最初は祈るように、落ち着いた、静かな音で。少しずつ、少しずつ力強く。だけどテンポが上がってしまわないように。急いでは、見えるものも見えなくなってしまうから。
かつて道を見失ってしまった私を神様が導いてくれた。私はもう二度と道を見失う事はないだろう。こんな私を救ってくれた神様の深い愛情を、決して忘れはしないだろう。
『これは感謝の歌なんだ。だから、この曲を弾く時は、傍にいる人の事を思って、心をこめて弾かないといけない、って、じいちゃんに言われたんだぜ』
ミナキ君の、今よりもずっと幼い声がよみがえった。遠い国の言葉で書かれた歌詞。当時の僕は、訳された歌詞を読んでもよくわからなかった。言葉の意味がわからなかったのではなく、実感ができなかった。だけど今ならわかるような気がする。
最後の音が広がって、そっと消える。
「……すごい」
ハヤトの溜め息混じりの声と、拍手の音が聞こえた。
「すごく、綺麗だった」
ぼんやりとした、夢を見ているような調子の声。まさかこんなに喜んでもらえるとは思っていなかったから、なんだか照れくさい。
「ありがと。ねえ、ハヤト」
「ん、何?」
「ハヤトって、神様だったんだね」
彼はきょとん、とした表情を浮かべている。その表情が可愛らしくて思わず微笑む。
わからなくてもいい。僕だけが知っていればいい。
僕を救ってくれた愛情を、僕は忘れない。
(END)
ハヤトは興味深そうにそう言った。
僕の部屋の隅に置かれた黒いピアノ。演奏会なんかで使われるような立派なピアノではなく、家庭用のコンパクトなもの。
「うん、そうだよ。もともとミナキ君のなんだけど、旅に出るからってくれたんだ」
スイッチを入れ、鍵盤を覆う蓋を持ち上げる。鈍く光る黒い蓋は記憶にあるよりも少し軽く感じた。
白と黒の鍵盤が顔を覗かせる。埃を軽く払い、基本の和音を弾いてみる。ド、ミ、ソ。
「わあ」
ハヤトが感嘆の声を上げる。
「もしかして、聞くの初めて?」
「テレビなんかで見た事はあるけど、直接聞くのは初めてだ」
ねえ、何か聞いてみたい。キラキラした目でそう言われては、弾かないわけにはいかない。ずいぶん昔に教えてもらった曲。僕が唯一弾ける曲を弾く事にした。
両手を鍵盤の上に置く。深呼吸を一度する。親指が鍵盤を叩き、演奏は始まる。神様に呼びかけるのに怒鳴り声ではいけない。最初は祈るように、落ち着いた、静かな音で。少しずつ、少しずつ力強く。だけどテンポが上がってしまわないように。急いでは、見えるものも見えなくなってしまうから。
かつて道を見失ってしまった私を神様が導いてくれた。私はもう二度と道を見失う事はないだろう。こんな私を救ってくれた神様の深い愛情を、決して忘れはしないだろう。
『これは感謝の歌なんだ。だから、この曲を弾く時は、傍にいる人の事を思って、心をこめて弾かないといけない、って、じいちゃんに言われたんだぜ』
ミナキ君の、今よりもずっと幼い声がよみがえった。遠い国の言葉で書かれた歌詞。当時の僕は、訳された歌詞を読んでもよくわからなかった。言葉の意味がわからなかったのではなく、実感ができなかった。だけど今ならわかるような気がする。
最後の音が広がって、そっと消える。
「……すごい」
ハヤトの溜め息混じりの声と、拍手の音が聞こえた。
「すごく、綺麗だった」
ぼんやりとした、夢を見ているような調子の声。まさかこんなに喜んでもらえるとは思っていなかったから、なんだか照れくさい。
「ありがと。ねえ、ハヤト」
「ん、何?」
「ハヤトって、神様だったんだね」
彼はきょとん、とした表情を浮かべている。その表情が可愛らしくて思わず微笑む。
わからなくてもいい。僕だけが知っていればいい。
僕を救ってくれた愛情を、僕は忘れない。
(END)
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