第八章 一対
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嵐の前の静けさ、とはよく言ったものだ。昼間の一報より、綾鷹の心は人知れず荒波が飛沫を上げ、ゴリゴリと内側の壁を抉っていく。
いつもより幾分か早い北の帰宅。それから直ぐ、遣いに出していた角名が戻り、頼んでいた品物を受け取る。この時初めて目にする、北と角名の会話。頼んでいた神薬に気付いているものの、何も言わない夫。心なしか早い入浴に、夕食。何もかもが、いつもと僅かにズレている。噛み合わないその微妙な誤差に、胸のざわめきは騒がしさを増していった。お互いに、これから何が起こるのか理解している。だから、この不安もきっと一抹のものだろう。そう無意識に言い聞かせていた。
「……ちょっと部屋戻るわ。」
食後の一服。彼が喫煙者であることは、この屋敷へと移ってすぐ知ったことだった。時たま食事の〆のように一本口にする。白い煙草へ火をつけるために、懐を漁ったがマッチが無い。短い記憶を巡らせ、上着の胸ポケットにその存在を思い出した。
「火とってくる。」
食べ終わった2人分の善を片している綾鷹に、そう一言、声をかけて立ち上がった。畳がミシリと鳴ると、北は彼女の返事を待たず廊下へと出る。その仕草は、どの夫婦にもあり得そうな光景で、彼にはあり得ないほど、珍しく冷めた様子だった。
己でもよくわかっている。浮き足立っているのだ。今夜、とうとう動き出すと、アランへそう告げて以来。自分は久しく大地に足をつけていないのである。近頃ようやく見慣れた廊下を行き、襖を開けて暗い部屋に入る。綾鷹が綺麗にシワを払い、洋服かけへ収めてくれた上着を取ると、内ポケットから小さな箱を取り出した。外箱についている側薬(マッチを擦る茶色い部分)に親指をかけると、そこを無意識に数回擦る。まるで自身を宥めるような仕草に、我ながら子供騙しも良いところだと鼻で笑った。
マッチ箱の柄は猿の親子である。小猿が母猿の腹にぴたりとしがみ付き、じっとこちらへ視線をよこしていた。同じ喫煙仲間がくれたものだ。確か、上野の動物園へ行った時にもらったと言っていたか。丸く黒く塗られたつぶらな瞳が、この時ばかりは不気味に見える。暗い部屋のせいか、それともこれから起こること故か。北には分からなかった。
「北様……。」
箱の両目に引き込まれてしまいそうな時であった。閉じ忘れた襖から、綾鷹が音もなく近づく。戻りの遅い夫を、ここまで追いかけてきたのだろうか。少しの期待を抱きつつ、北は彼女へ振り返ろうとうした。
とんっ
腰に温かいものが絡みつく。程なくして背中にかかった僅かな重みに、ハッと息を呑んだ。後ろから腹にまわる白い両腕を見て、今の体勢を知る。
「……なんや、どないした。」
持ちうる限りの優しさで、声をかけた。後ろの女は何も言わない。しかし、細い柔腕にはますます力が入った。心地の良い圧迫感に、先ほどとは異なる笑みが漏れる。スリスリと音を立てる布越しに、あの愛らしい額が己の背に何かを求めている。ごく緩やかな動作で、北は体を回した。
「……そない可愛い顔せんとくれ。」
堪らなくなる。最後の言葉はなんとか抑え込む。向かい合った先にあったのは、今にも不安そうな顔だった。無理もない。とうとう言い訳すらも通らない、そんな領域へと進もうとしているのだ。華奢な肩に置いていた手をそっと持ち上げ、陶器のような頬を両側から包み込む。滑らかな指触りを己の記憶に刻み込むように手のひらで楽しむと、北は顔を近づけた。
拒絶はない。
女はそれをすんなり受け入れる。ひたり。と湿った粘膜が吸い付くように離れ、また引き寄せられた。小鳥の啄み程度のそれは、徐々に深さを増していく。角度を変え、逃げるものを追い、捕らえると、カクリと膝が落ちる。男の腕は自然の摂理の如く、その瞬間を待っていた。
2人揃って畳へと膝をつく。唇同士の触れ合いは止み、やがて猫の如く互いに眉間を擦り付けあうと、どちらともなくしっかりと抱き合った。すっぽりと己の懐に収まってしまう女。その頸へ躊躇なく顔を埋める。白檀の崇高な香りが、北の肺を瞬く間に支配すると、静かにその名を呼んだ。
うんともすんとも言わない。だが、花紺の浴衣にシワが寄るほど力強くしがみつく。それだけで、彼女が人知れず恐怖を抱いているのだと、十分に伝わった。
「怖いか。」
「……はい。」
「……そうか。」
北は無言で口角を上げる。ようやく聞けた胸の内に、不謹慎にも男は歓喜した。
震えもしない。泣きもしない。強い女の、初めての告白。
揺るがない女が初めて見せる弱い姿。
その相手が自分であることへの喜びと優越感。
それすなわち、ようやく一対(一つ)となったのだと。
彼女と再会を果たして以来、飢えていたものが満を辞して満たされてゆく。そんな満足感を、北は場違いにも感じていた。
「何も心配する事はあれへん。」
「はい。」
「全部うまくいく。」
「はい。」
「せやさかいに、ここまでやってきたんや。」
「……はい。」
「そうやろう。」
いっそう力を込めて彼女を抱きこむ。狂気にも似た己の情を誤魔化すが如く、豊かな黒髪を一つ撫でると、両者は見つめあった。
「絶対に死なせへん。お前も、大使も、あいつらも。全員、死なせへん。」
生きて、戻るんや。それが絶対条件である。
失敗は許されない。何がなんでも、彼女だけは守り抜く。それをここで誓おう。神にでも仏にでも。誓えるものには何にでも。捧げられるもの全てを差し出してやる。
だから、どうかーー
この相応わしくない感情を素直に享受することを許して欲しい。
ひっそりと、卑しい己にそう言い聞かせた。