第八章 一対
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アランと北は、怒号飛び交う食堂をひっそりとたった。ひっそりといっても、それは彼らの感覚であって、実際、身を小さくして出てきたわけではない。至って普通に、むしろ堂々と涼しげな顔をして立ち去ったのである。しかし、会計部の一団と悲報を入れにきた一兵卒との激しい攻防の中では、彼らの退席に気づいた者は誰もおるまい。アランは少々物足りなさそうに自分の腹を撫でる。
「腹は満たされたはずなんやけどなあ……。」
どうしたもんか、とその声色は悩ましげだ。
「……もう少しの辛抱や。事が収まれば、またあそこへ連れてったる。」
「あそこぉ……。」
ああ、梶さんが勤めとった飲み屋のことか。しばし考え、アランは正解を導き出す。そして、思わずクスリと笑ってしまった。
「……俺は別に、あそこやなくてもええんやけどなあ。」
北のセリフは言外に「あの店が恋しい」と言っているようなものだ。この男は澄ました顔をしているが、己と同じ不満を腹に抱えている。そう知って、単純な男の気分は少し軽くなっていた。
ザッザッザ、と板張りの床を抉るように、踵に打った鋲が音を立てる。二人分あるそれは、迷いもなく元いた部屋へと向かっていた。ふと、先を歩いていた男が足を止める。アランは上司の行動に素直に尋ねた。
「北……どうした。」
「いや……、そろそろやな、と。」
”そろそろ”という言葉に、人知れずアランは残念に思う。それはつまり、同い年である上司の慎ましい夢が覚める事を意味しているからだ。一月という時間は、あまりにも短すぎる。
「今夜、ウチに来い。ええ酒でも飲もうや。」
その誘いは一見、話の筋が通っていないように思える。しかし、アランはハッと両眼を見開いた。そして、サッと左右に視線を配ったのち、直ぐ元の顔に戻す。
「ああ、それならあいつらにも声かけとくわ。」
「助かる。……頼むで。」
再び足を動かし、彼の執務室へと続く廊下を進み出す。その何気ない動作に、アランはギュウッと心臓が苦しくなった。そして、せっかく進み出した上司の足を、思わず止めてしまったのである。
「……なあ、北。」
呼びかけた背中は、どこか哀をまとっている。グッとひとつ腹に力を入れ、その先を口にした。
「いっそのこと、攫ってしもたらどないやろか。」
振り返った男は、消化不良でも起こしたような顔だった。
その一報を聞いて、綾鷹は一つ深く息を吐く。ついにこの時が来た、と縁側の軒から伸びる青青とした空を見た。己の覚悟とは裏腹に、なんと平々凡々とした色だろうか。その落差たるや、腹立たしいことこの上ない。
「奥方……よければ俺が手伝いましょうか。」
今夜、皆あつまれり。準備されたし。という短い言伝を持って屋敷を訪ねた角名は、目の前に腰掛けるご婦人の背に、意味のわからない怒りを見た。それに首を傾げつつ、謙虚に申し出る。
「……ええ、そうね。一等良い酒を揃えなければ。」
「でしたら、良い店を知っています。」
「あら、そう。それは都合が良いわ……では、お願いしましょうかしら。」
熟れた瞳が己をジッと見つめる。時折見せるこの女(ひと)の表情は、天然物だろうか。それとも、策略の内か。
「何なりと。」
そう答えた己の声は、きちんと音になっていただろうか。言葉にできない不安が、刹那、脳内をかすめたのはここだけの話だ。
繕い物をしていた手を止め、綾鷹は部屋の奥へと引っ込む。屋敷には上がらず縁側の外に立っていた角名は、室内の濃い影の中へ消えた女を律儀に待った。しばらくすると、綾鷹は再び角名の前へと現れる。
「こちらはお願いしたい品物の書き留めです。良い店をご存知だとおっしゃられたので、どうぞその選別は角名様に。……そしてこちらは、私からの個人的なお願いでございます。」
この人と知り合って、長い時間が過ぎたわけではない。よって、角名はこの女の事を、会った数だけしか知らなかった。しかしそうだとしても、全く知らないわけではない。触れ合いが少ないなりにも、今回の彼女のお願いは、今までとはまるで異なる色を持っていた。
「薬をひとつ。この店で。」
墨が半端に乾いた紙を裏返す。
ーー神薬、九つーー
酒と共に酔い止めも。なんと用意がいいのやら。
「以前から行きつけの店です。私の名前とこちらを渡してくだされば。」
お時間は取らせませんので、と少し申し訳なさそうに言った。
「奥方の名前……梶とお伝えすればよろしいのですね。」
「いいえ、”北”で。」
女の返事に、角名は目を白黒させる。そして、ああ、と感づいた。これは単なる遣いではないのだ。
「珍しいですね。貴方が書き留めを下さるのも。……そして、個人的なお願いをするのも。」
何を企んでいるのか。なんて野暮なことは聞かない。俺はただ、仕事で彼女の手となり足となる。そういう役目だ。けれども、不思議に思うことくらい許されるはず。それを知ってか知らずか、彼女は俺に頼みを入れたのだ。
「まあ、おかしなことを仰られる。私はいつも、角名様を心から頼りにしておりますのよ。」
あ、こいつは黒だ。
甘美な声は深い白檀を纏う。角名は引き摺り出されそうになる理性を、間一髪で己の内に止めた。そして密かに、目の前の女に『策士』の烙印を押したのである。