第二章 歩寄
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あの日以来、定期的にあちら側から情報が流れてくるようになった。その伝達の方法は多岐に渡る。時に男女の真似事をしながら、時に鳥を飛ばしたり、時に遣いの者を寄越したり。それはもう色々。一体、誰がこんなやり方を考えたのか。気づかれてはならない、というお互いの執念がそこにはあった。
やはり、こちらが睨んだ通り、追っていた男は黒であった。それから、あれよあれよと言う間に時が流れ、武器の密輸入を現行犯で押さえることで、事件は未遂で集結する。あっけない最後であったと共に、彼女との縁もそこでぷつりと切れてしまった。この一件で上層部の汚職も明らかとなり、数名の将校が辞職することとなる。その穴を埋めるように、北を始め数名が昇級する流れとなった。少尉から中尉へ。大耳はその昇給と同時に師団を移動し、黒須大佐は少将へ。士官学校の校長へ就任した。もう、当時の話を共有できる同志は近くにいない。北は全てを心の深いところへ仕舞い込み、限りない日常へと戻って行った。
それから2年後、日ノ本一の大遊郭街は、春先に起きた大規模な火災により、その姿を消した。
北信介、23歳。出張で帝都を離れていた時の出来事であった。
気づけば夜明け近くになっていた。今にも消えてしまいそうな火鉢の中を慌てて返しながら、綾鷹は火力を戻そうと躍起になる。随分長い間忘れていた思い出に、迂闊にもどっぷり浸かってしまったらしい。せっかく温めた体が芯から冷えるような気がして、手近にあった布団を手繰り寄せた。
遊郭が灰になると、皆、思い思いの場所へ散っていった。姐さん方も華夜叉の仲間も。私も、時間はかかったものの、今の生活を手に入れた。あの日以来、彼女たちとは一度も連絡を取り合っていない。それは、あの男ともきっと同じだと、勝手に思い込んでいたのだ。まさか、こんなところで再会しようとは誰も思うまい。今時分から寝ても、きっと中途半端に起きる羽目になることは容易に想像できた。徹夜を決め、顔を洗いに表へ出る。師走も暮れというだけあって、まだ太陽は登らない。
いつもの時間、少し気だるげな体で店へ顔を出す。相変わらず、素敵な笑顔で出迎えてくれる大将夫婦に癒されつつ、開店準備を手伝った。今夜は特に冷え込みそうだ。気持ち多めに炭を焚べ、凍えてやってくるお客のために店の中を暖めておく。
本日、最初にやってきたのは、最近めっきり見なくなったお人だった。
「良二さん。いらっしゃいませ。お久しぶりですね。」
女将の出迎えに、これは久しい人がいらっしゃった、とお茶を湯呑みに入れながら思う。呉服屋の子息である良二は、綾鷹がここで働き始めた頃からよく来るようになった客だ。彼の実家はここら辺じゃ知らない人がいない程、大きな店だ。残念ながら長男ではないため、店を継ぐ立場ではないけれど、それと引き換えに自由な身の上らしい。本当なら、こんな小さな店で食べなくたって、家に帰ればもっと良い食事にありつけるが、彼は来る。
「綾鷹ちゃん。久しぶりだね。元気にやっていたかい。」
二つ年下の彼は、とても気さくな性格だ。誰とでも直ぐ打ち解けてしまうため、友人は多い。しかし正直、綾鷹はあまり好かない。適当に返事をして、さっさと湯飲みを置いた。用は済んだと踵を返したいところだったが、お約束のように引き止められる。
「そう言えば、この間酷い風邪になってね。数日寝込んでいたんだよ。とても辛かったなあ。綾鷹ちゃんは最近どうだったんだい。」
「ええ、特に何も……。」
いいや。何もなかたわけではない。むしろ私にとっては大事件が起こっている最中だ。北の顔を思い出して、不自然に口を閉ざした。
「どうしたんだい。急に黙ったりして。まさか、変な男に言い寄られていたりしてるのかい。」
いやいや、それは貴方のことだ。なんて、青ざめた顔をしている相手に死んでも言えない。これでも大将達の大切なお客様だ。決して言い寄られているわけではないが、それなりに執着されている男はいる。けれども、奴は歴とした身分と立場を持つお人なわけだが。そう言えば、そろそろいらっしゃるお時間じゃあ……。
「大将、邪魔するで。」
普段通り店に入ってくる北と、既に席についている良二を交互に見て、もしや、これは最悪の組み合わせではないのかと思った。一睡もしていない気怠げな体に、かなり堪える。どう化学反応を起こしてくれるのか、全く予想がつかない状況に、一人頭を抱えた。
「……いらっしゃいませ。北様。」
きちんと平然を装えているだろうか。何も起こらないでくれ、と拝みたい衝動を押さえ、北の前へ良二と同じように湯呑みを運んだ。この男、とても静かで、落ち着いていて一見無害のように思えるが、落す爆弾は相当でかい。そして、地味に威力が持続するから、達が悪い。久しぶりに全神経を集中させて接待にあたる。心なしか、大将と女将が不安げな表情でこちらを伺っているように見えた。
「おん。変わりあらへんか。昨夜はえらい冷え込んどったからな。……よお眠れたか。」
その言葉に良二が反応した。
「昨夜、そりゃどういうことだい綾鷹ちゃん。昨日は店にいなかったじゃないか。」
店の端と端から視線が綾鷹に向かって飛ぶ。良二がなぜ、昨日お休みを頂いた事を知っているのかはこの際いいとして、北様を睨む目だけはいただけない。何せ、素人と現役軍人だ。揉め事になったらその実力差は明らかである。それに、先に動き出すのは性格を考えて十中八九、良二の方に違いないからだ。以前から望まない好意を寄せられていたことは知っていたが、まさか、こんなことが起こりようとは。適当にあしらうのではなく、はっきりと断っておくべきだったと今になって後悔した。
「昨日はたまたまお会いして、近くまで送っていただいたんです。」
本当はたまたまなんかじゃない。わざわざ大将からの差し入れを渡すために、家の近くで待っていてくれた。北の表情を窺う。幸にして、何とも思っていない様な顔だ。
「たまたまやない。帰りが遅なるんを知っとったから、差し入れを持ってったんや。」
なんてこった。何とも思っていないわけじゃなかった。そして、どうしてか何かに対抗するような言い方。なぜだ、なぜそこを訂正なさった。冷や汗が背中を伝う。
「差し入れ……。一体何を。」
大将からのお焼きだ。
「クッキーをやった。」
おい。違うだろ。クッキーも確かに頂いた。頂いたが、あれはお焼きの次いでだったはずだ。クッキー……。良二が不自然に黙り込んむ。その隙をついて、北が懐からまた小さな包みを出した。
「部下がな、これもええ土産になる言うとった。」
洒落た紙袋には最近できたばかりの西洋茶屋の印がある。物の珍しさも去ることながら、その値段もまた話題に上る品だ。頂いてもいいのだろうか。茶なんかそこら辺の安物で十分と言うのに。
「この間のクッキーと一緒に食うと美味いんやと。」
なるほど、そう言うことか。微笑みながら仰るそのお顔が、何と神々しいことか。状況が状況でなければ、少しは心動いただろう。残念ながら、今は逆効果である。
「あ、ありがとうござます。」
大人しく頂戴しておく。その包みが私の手へ移る様子を、瞬き一つしないで見る良二には気づかないフリをした。
意外にも、平和にその日は店仕舞いをする事ができた。北が最後まで居座ったのは、もうお約束である。大将が店の暖簾を引っ込める姿を見て、何も言わず自然と二人で夜道を歩き出した。
「あれが、良二言う男か。」
ええ、と軽く返しておく。
「えらくねちねちしとる奴やな。……何もされてへんか。」
「それは……。」
正直に言うべきか悩む。実際に被害は出ていないが、何もされていないわけではない。何度か彼に後をつけられた事があった。素人の下手くそな尾行なんて直ぐに気づいたが、如何せん、くどい。バレバレですよ。なんて言えるわけがないし、だからと言って苦情を言うわけにもいかない。そういう時は、やけに遠回りをして家に帰ったり、寄り道をしながら撒いたり。とりあえず家を特定されるわけにはいかないので、何とか被害を出さずに対処してきた。どうしようか、北に白状してしまおうか、とグルグル迷っていると頭上から溜息が聞こえる。
「……いつも、こうゆう事されとるのか……尾けられとるで。」
今回も勿論気づいていた。しかし、北にとっては関係のない話である。だからあえて触れずにいたのだ。
「いつもと言うわけではありません。ですが、初めてでもありません。」
早く帰りたかったのに、すんなりとは帰らせてもらえないらしい。それに、今日に限って北がいるのだ。彼とも上手い具合に解散しなければならない。寝不足で働かない頭に、果たしてその段取りが思いつくだろうか。
「……下手くそやな。」
不意にだ。良二の尾行に対して、唐突にそう口にした北に思考がしばらく停止する。が、少しして笑いが込み上げてきた。ふふ、と声が漏れてしまう。
「なんや、正直に言うただけやろ。あんなん、下手くそ以外のなんでもない。」
それはそうなのだが、今、この状況でする必要はなかったはずだ。職業病だろうか、上に立つ人間ゆえに評価せずにはいられないのか。
「……ええ、本当に下手すぎます。」
体が揺れるのを堪える事で精一杯だった。沈んでいた気分が上がってゆく。心なしか体も暖かくなったような気がして、二人の間に穏やかな空気が流れた。
「少し、寄り道してもええやろか。……良え場所を知っとる。」
ちらちらと雪が降り出してきた。空を見上げながら、そう提案される。
「そうですね、このまま家を知られるのは不愉快です。」
満場一致で結論を出した。両者共おのずと仕事の顔になる。懐かしいな、と思ってしまいながら、北の背中をゆっくりと追いかけた。