第八章 一対
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さて、そろそろ夜も深くなる。お話し大会も一区切りつける頃合いだ。綾鷹の心中は穏やかとは言い切れないものの、顔には一切出さなかった。
「困ったことに、話が尽きませんね。」
「ああ、まだまだ話し足りひん。……ほんまに毎夜毎夜、困ったなあ。」
眉を八の字に下げ、北は乾いた声で笑う。
「さあ、今日はこの辺でご勘弁を……明日もご公務がおありでしょう。」
子どもに言い聞かせるように声を掛ける。このくらいで床につかねば明日が辛くなってしまう。勿論、北も承知の上だ。故に、悲しそうな顔をしながら布団に潜る。
「……あの、北様。」
「ん、なんや。」
自分も布団へ横になりしばらく。仰向けのまま綾鷹は隣へと声をかけた。
「お約束の一月もそろそろ半ばになりました。」
時間はあっという間に過ぎてしまうもの。二人の同棲生活も半月になろうとしている。神妙な空気でそう話し出した様子に、北は横になる彼女が何を言わんとしているのか。薄々気がついていた。
「……皆々様は如何程にお過ごしでしょうか。」
顔だけ傾け、男の様子を伺う。北は一瞬、目を大きく開いたが、すぐさま優しく細めた。
「順調に進んどる。大使来日の日程も、来月でほぼ決まりやろう。」
「では、そろそろ……。」
「ああ、奴さんらも動き出すで。」
あまりにも穏やかな日常。ついつい本懐を忘れてしまいそうになる。我々はこれを成し得るために、今日のような生活を送っているのだ。
「綾鷹。」
「はい。」
「……ほんまに、ええんやな。」
お行儀よく枕に頭を預けていた北が、肘をたててこちら側を向く。今度は綾鷹が、その双眼を大きく見開いた。何度も何度も、目の前の男が己に問いかけてきた問い。自然とこれが最後の機会であると悟る。
「答えはもうすでに、お伝えしております。……もう、戻れますまい。」
「……そか。……そうやったなあ。」
揺るぎない声色に、北はグッと言葉を飲み込んだ。
「近々、またあいつらをここへ呼ぶつもりや。」
「それは……。」
「こちらも本格的に動かなんだら。色々と合わせる話もある……勿論、そん時は綾鷹も一緒や。」
穏やかな時間も、残りわずか。そう言外に言われたも同然であった。
「北様。」
「なんや。」
「実は、その件について私から一つ、お願いしとうことがございます。」
次に放たれたセリフに、北は不本意にも思い出す。つくづく、彼女がどういう人間であったか。
綾鷹の瞳が暗い部屋の中、一際ぎらりと輝いた。
大将のご飯が恋しい。近頃、そう体が訴えている。姿を暗ませてまだ一月と経っていないが、禁断症状が出そうであった。
「……思った以上に応えるなあ。」
「ん、北。なんかゆうたか。」
手元の飯を頬張っていたアランが、向かいに腰掛ける男へ気を向ける。
「いいや、こっちの話や。」
軽くため息を吐くような返事を不審に思ったが、特に追求することもせず。再び箸を動かした。
時は昼時。季節は立夏である。この時期になると、各師団はざわざわと忙しなくなる。なぜなら、中間決算が始まるからだ。北ら第一師団が組みする関東陸軍部隊は、毎年この時期に一年の中間決済を行う。今年1月から今月までの経費の総算を出し、昨年度と比較を行うのだ。金のやり繰りとは一見無縁に見える彼らだが、この時期を蔑ろにすると翌月から地獄を見ることになる。故に、皆必死でそろばんを弾くのだ。
普段、北との食事は至って静かだ。時折、一言二言、言葉を交える事もあるのだが、お互い淡々と物を口へと運ぶ。今日も今日とて、目の前の男は物静かに咀嚼を繰り返す。が、如何せん周りがなんと騒がしいことか。
「……とうとうこの時期がきよったわ、って感じやな。」
「ああ……。いろんな意味で、眠れん夜が続くで。」
言葉通り彼らはこの昼休憩以外、全くと言っていいほど休んでいなかった。いや、この表現では少々語弊が生まれる。正しくは、休みたくても休めない、と言うべきだ。大根の漬物をポリポリと噛みながら、米を時間差で口へと運ぶ。いつもなら隊舎の外へ食べに行くのだが、今回ばかりはその時間さえも惜しい。決して美味いと言えない食事に、文句の一つも付けないのは、そんな事情が絡んでいた。
アランはチラリと周りを見渡す。一兵卒でいつもは賑わう食堂も、今だけは将校の姿もちらほらと見受けられた。やはり皆、その顔に生気は無い。訓練後とは違った疲労感が漂っている。
「会計部の奴らにとっちゃあ、今が一番辛いだろうに。」
己の視界に映り込む一団を見て、思わずそう呟く。皆、黙々と食事をしつつ、片手は資料を捲る。貴様ら行儀が悪いぞ、と上官らしく喝を入れるべき場面だが、それも憚れるほどの鬼気迫る形相に誰一人として指摘する者は現れなかった。そして彼らの腕章を見て、全員が一様に納得するのである。
「今回ばかりは流石に酷や。」
「ああ。なんせ、あいつらにしっかりやってもらわんと、俺らが堪らなくなってまう。それに今年はーー」
「おいッ、誰か会計部の奴はおらんかっ。」
アランの言葉を遮るように、食堂へ一際大きい声がかかる。資料の一団が顔に緊張を漂わせ、風をきるようにそちらを向いた。
「群馬の一団から訂正の書類が届いてるぞッ。」
「ふざけるなっ、そっちの数字は昨日やっと修正し終わったやつだぞッ。」
「何回直せば気が済むんだっ。」
「送り返せッッ。」
怒号に近いやり取りに、あちこちで苦笑が漏れる。なぜ彼らがこうも殺気立っているのか。それは、今年の決算のまとめ役を我が師団が担当するからである。
毎年この役目は、交代で各師団が担当する。それが順当に回ってきて、当然の如く今回は第一師団の番となったのだ。自らのところだけでも毎回苦戦を強いられる。にもかかわらず、関東の陸軍部隊全ての決算報告もここに集結するとなれば、この騒ぎにも納得がいきよう。故に、いつも以上の混乱を招いている次第である。さらに、今年は特に一筋縄ではいかないらしく、先ほどのように各師団から訂正だの、修正だのが昼夜問わず容赦無く舞い込んでくる。血の気の多い軍内でも、比較的”大人”な連中が多いと言われる会計部だが、てんてこ舞いのどんちゃん騒ぎで今は噂の影もない。メガネ姿の如何にも算盤が似合いそうな男が、口を大きく開けて怒鳴る姿は、いろんな意味で物珍しかった。
「あーあ、いつになったら日常が戻ってくるんやろうなあ。終わりが全く見えへん。……いっそのこと仮病でもつこうたろか。」
「くだらんこと言うな。……それでも、やらなアカンのはやらなアカンねん。これも仕事や。」
「うぅ……、お前に言われると何も言い返せへん。」
「他人事みたいに野次馬決め込んどるとこ申し訳ないが、俺らも暇やあれへん。とっととそれ口に入れて部屋に戻るで。」
目線で刺された最後の一口を、アランは嫌そうに腹へと流し込む。空腹を満たすだけの昼が終わりを告げた瞬間であった。