第八章 一対
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あの騒動の後。再び綾鷹は北と就寝を共にしている。例の狭い侍女部屋が気に入っている身としては、ちょっと残念であるが、致し方あるまい。
「あら、もうお休みのご準備を。もしや、明日は早めのご出立でしょうか。」
「いや、そういうわけやないが。」
そう言いつつも、北は布団を整える手を止めない。障子を引いて話しかけたまま、綾鷹もその様子を見ていた。
「なんや、特にやることもないしで、気づいたら勝手にはじめとった。」
「まあ、ひょっとしてお疲れなのではありませんか。」
無計画。そんなセリフが似合わない彼である。訳もなく何かをしている姿が珍しい。もしかして、本人も知らないうちに疲れが溜まっているのではなかろうか。そう思い始めると、たちまち不安が立ち込める。深く考える前に、思わずそう尋ねていた。
「なんともあらへんよ。ただ……そうやなあ、何か理由をつけるなら、お前と早く”話し”したいからやろか。」
恥ずかしそうに、はにかんだ笑顔を正面から喰らう。不意打ちであった。よろよろと北と距離を取ろうとする体を叱咤し、なんとかその場に留まる。
「そうでしたら、早めにおっしゃって下されば良いものを。こんなことで、北様の手を煩わせは致しませんでしたのに。」
「はは。ええやん、こんくらい。」
彼女の某友人が、腹を壊すほど笑った”お話し大会”なるもの。この歳にもなって何と幼稚な、と思っていたが、そんなことは打ち明けられず。さらに、当の本人が地味に楽しみにしているとなると、口が裂けても言えない。そんな事を考え、気がつけば三日目の夜を迎えていた。
「いつまでそこにおるん。ほれ、お前の場所はここや。」
障子に手をかけ、突っ立ったままの綾鷹に声をかける。クイッと顎を使って、自分の目の前を指した。「早く座れ」の催促である。促された先には、シワ一つない布団が二組。ピタリと隣り合って準備されている。これは相当、楽しみにしていらっしゃったらしい。
「……ふふ、只今。」
思わず口から漏れたのは、諦めの笑みか、それとも別の何かか。何はともあれ、お断りする理由がない。素足で部屋へ入ると、静かに障子を閉めた。
「最近は一際暑なって敵わんなあ……、夏のせいにするのも、なんや情けない事やけど。アイツらも心なしかぐったりしとったわ。」
「それはいけませんね。どなたかお体でも壊していたりしませんか。」
「ああ、確か別の隊で体調不良者もでとるらしい。幸い、俺らのところはまだ大丈夫や。」
こんな調子でお話し大会は始まる。お話し大会という、少々大袈裟な名前がついているが、やることは至って簡単で。各々の1日を話し合う、といったら良いか。いわゆる世間話のようなものだ。今日のように、ここしばらくの天気や夏の訪れを手始めとする夜もあれば、確か昨日は頂き物の羊羹が最初の話題だったか。
「帝都暮らしもそこそこやのに、この季節だけは一向に好きになれん。」
困った顔をして、うちわを小さくパタパタと仰ぐ。柔らかい前髪が風に煽られ、ふわりと浮きあがった。こうして見ると北様は案外幼い顔立ちかもしれない。彼の為人を知っているが故、大人びた所作が先行してしまいがちだが、その容姿は若く見られがちだ。体格こそ男児に相応しいものの、お化粧など施せば意外といけてしまうのではないか。もしや、物好きの一人や二人、是非ともお相手になどと声をあげーーいやいや、いかんいかん。そんな不埒なことは考えるべきではない。私は一体何がしたいんだ。これではまるでhーー
「綾鷹、突然静かになってどないした。」
「いっいえ。何ともッ。」
あ、危ない危ない。うっかり超えてはならない境を跨ぐところであった。いかに己がお粗末で、北様と釣り合わないとは言え。人間の道理は捨てても、生物の道理は捨てるわけにはいかない。
「……ほんまは何を考えとるんや。」
心なしか、ジトーっと湿気た視線が突き刺さる。何か言わねば。早く、北様の関心を逸らす何かを言わねば。
「そ、そういえば、北様のお郷は神戸の方だとおっしゃいましたね。」
「……おん、そうや。」
「どんな所なんでしょう。……こちらみたいに、夏は厳しいのでしょうか。」
頼む。上手いこと気を逸らしてくれえええええっ。と馬鹿みたいに祈りながら口から出たのは、秘策などという大層なモノではなく。自分でも仕事が荒いなと分かっていた。ビクビクしながら、北の出方を待つ。
「なんや、覚えとってくれたんか。……嬉しいなあ。」
「古物商に立ち寄った際に少しだけお耳にしたきりでしたから……。」
驚きながらも彼の顔に浮かぶ笑顔を見て、これは良い兆しだ、と胸の中でため息をついた。北は嬉しそうな様子で、そうやなあ、と呟くと、徐に太い腕を組む。そして、ボソボソと記憶の中を語り始めた。
「夏は何処もかしこも暑い。俺の郷もそうやった。けど、此方ほど熱が篭ったりはせえへんかったなあ。」
「……ああ、なるほど。神戸は港町ですものね。」
絶え間なく吹き抜ける、爽やかな潮の風。きっとそれが、夏の気だるさまで攫っていってしまうのだろう。人の多さと賑やかさは此方と変わらないものの、幾分か後味の潔さを感じる。それに対して帝都は溜まりっぱなしだ。老いも若きも、富も貧しさも。言いも悪いも全部ひっくるめて。
「そや。海風が気持ちええ。世界中からハイカラな荷を乗せて、港には船がぎょうさん停まるんや。」
かつては砂浜が広がる寒村に過ぎなかった。しかし幕末の時代、修好通商条約において神戸港が定められると、たちまち西洋文化の入り口として栄えたのでる。近くには外国人居留地が立ち並び、隣接する町々は珍しい品が並ぶ商業地として賑わった。
「まあ、外国船が出入りする前から、そこは生田の神さんらの神戸(かんべ)やったんや。」
石の鳥居が堂々と構え、訪れる参拝客を迎える。生田神社の始まりは、海外外征の帰りにこの地へ立ち寄った皇后(仲哀天皇の皇后:古墳時代)によって創建されたとされている。故に海や外国といった話は、昔々から繋がりがあったのだ。その証拠に本殿の奥には末社があり、様々な髪が祀られる中、海上安全の神様もいらっしゃる。地元の漁師からも厚く慕われていた。
「まあ、では神戸のお名前はそこから。」
「ご明察や。」
「面白いおはなしですこと。」
「……綾鷹はそういった話が好きか。」
「ええ……まあ。」
あーあ、宝物を見つけたみたいな顔をして。目の前の男が少年に返ったような気がした。
「そやっ。この件が済んだら、有馬へ行こう。」
「え……。」
「良え湯につかって、これまでの事を流したらええ。」
閃いた、と言わんばかりの勢いである。向き合って座る綾鷹の腕をとると、大事そうに包みこんでそう言った。
「そうや、それがええ。温泉に浸かった後は、冷たいポン水(ラムネのこと)飲んで、活動写真なんかも見て。」
その後も北はひとり、故郷の旅に思いを馳せる。そこには無意識に綾鷹の存在があった。
「和楽園の水族館も綾鷹に見て欲しいしーーなんや、えらい楽しみになってきたわ。」
これはまるで、本当に少年のよう。己の了承を得るわけでもなく、笑顔になってしまった男を、綾鷹は悲しそうに眺める。
「神戸はとてもハイカラな町ですこと。私が知らないことばかり、北様はご存知なんですね。」
けれど私に、彼の楽しみを奪う勇気はない。たとえそれが、叶うはずがないと分かりきっていたとしても、「行けない」などとは言ってはならないのである。
「そうや。ハイカラやで。他にも綾鷹と行きたい場所がぎょうさんあんねん。そんで、その後は婆ちゃんにも挨拶して、綾鷹を紹介せなあかんなあ。」
ズキリ、と一際大きく胸が痛む。なぜ、とは聞かない。誰がどう考えても、それは墓穴であった。
「まあ、お婆さまに私をご紹介してくださいますの。」
「当たり前や。お前を教えんで、何しに郷へ帰るとおもうとるんや。」
至極当たり前といった声色で、北は不思議そうに見つめる。
「……いいえ、そうですよね。とても……とても、楽しみですこと。」
女とは罪な生き物である。誰かがそう言った。まさにその通りで、切なさと嬉しさが交差する心中は、平和とは程遠い。愛しい人と、こうも一緒にいられる事が、どんなに幸せなのだろうか。と最近は考える。そして、それすらも苦行のごとく、己の思考を支配するのだ。いくら考えようとも、彼との未来は見えない。決まった答えしか出ない現実から、いつしか離れる事しか浮かばないようになってしまったのである。
熱りが覚める前に、消えてしまおうか。
やはり、物事はよく考えて発するべきである。下品な妄想を打ち消すためだけに振った話が、こんなところに繋がるとは。無計画なのは己の方であった。
男の覚め止まぬ夢を耳に入れつつ、綾鷹は一つ決意する。