第八章 一対
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どうも私の人生、平穏という文字からは遠いらしい。まあ、元々の出自からして、無縁であったのだが。目の前で気まずそうに目を伏せる女。ヒヨリは、あれから一言も言葉を発していない。この場を変に面白おかしく盛り上げるほど、彼女も世間知らずというわけではないらしい。
「……一体、何がどうなれば、お前の旦那にこの話が伝わるんだ。」
言いたいことは沢山ある。が、今はそれらを全て抑え、現状把握に努めるのが吉だ。少々、ドスの効いた声色だったが、ひとまず尋ねる事にした。
「うう……本当に面目ないわ。まさか、聞き耳を立てられてるなんて思いもしなかったんですもの。」
華夜叉ともあろう者が、なんと情けない。聞き耳の一つや二つ、気づけてナンボではないか。まあ、今となっては過去の栄光。昔取った杵柄だ。今更責めるよう事も言えまい。それに、彼女の言いようだと、ついうっかりポロリ……という訳ではなかったらしい。もう少し、深く話を聞く必要がありそうだ。
「あの日ちょうど、春日がいつもみたいに、月の薬を取りに来てたんだけどーー
「はい。これが今月分のお薬よ。」
「いつもありがとうございます。……本当にコレがないとしんどくって。」
女は心底うんざり顔で薬師の妻へ礼を述べる。同じ女性として、毎月やってくるヤツを疎ましく思う気持ちは、十分理解できた。そして、それが特に重い彼女の身を、何度気の毒に思ったことか。幸にして、自分の旦那はそこそこ腕が良い。体質改善に特化した漢方には、即効性はないものの、確実に効果はあるようで。おかげで周囲からの評判も上々である。それが我が身のように誇らしかった。彼との出会いがなければ、こうして家庭を持つことも叶わなかっただろうし、何より、古い友人と世間話に花を咲かせるなんて、想像もしなかっただろう。
「……今日はやけに静かですね。」
縁側に腰掛けて、春日は奥の畳間を見る。茶素(カフェイン)の少ないほうじ茶を啜り、ヒヨリに話しかけた。昨年生まれた息子が、鼻提灯を吹かしながら寝息を立てている。丁度、昼寝の時間だ。最近は森羅万象、あらゆる物に興味が湧く時期らしく。ちょっと目を離すと、すぐ何処ぞへといなくなってしまう。二足歩行を習得してしまったばかりに、そろそろ手に余る元気っぷりであった。きっと性格は私に似たのだろう。そんなもんだから、ひと時も目を離すことができない。お客とやり取りする時も、常に腰帯を捕まえておくのが近頃であった。そんな怪獣息子が今日は静かである。
「やっと眠ってくれたのよ。」
「ふふふ。ヒヨリさんも、もう立派な母君ですね。」
疲れ顔のヒヨリを気遣ってか、それとも揶揄ってか。春日は笑い混じりにそう言った。少なくとも、子育てに奮闘する姿を微笑ましく思ったのは事実。それを汲み取ってか、苦笑をもらすだけだった。
「……最近は、どうしてる。」
「お陰様で。豊かとは言えませんが、それなりに生きておりますよ。」
自分よりも年下の彼女を、ヒヨリは気にかけている。春日だけではない。日本全国、津々浦々を旅する紅緒の事も。そして何より、かつての上司である綾鷹を一等に心配していた。
「それは良かった……お教室も順調かしら。」
「ええ、それなりに……。元より、大きなところではありませんし。名前を出してすらおりませんので。細々と。」
「そう……。」
彼女らしい謙虚な返答に、自然と微笑みがこぼれる。
「今夜は一段と暑い夜になりそうなので、早く薬が手に入って良かった。どうやら今夏は猛暑らしいと、もっぱらの噂です。」
「あら、そうなの。それは知らなかったわ。」
おそらく、彼女のところのお喋りなお弟子さん達が、そんな話をしていたのね。
現役時代から春日は三味線が一等上手かった。私よりも遅くに始めたのに、あっという間に師範にまで上り詰めてしまったのである。お客からの評判も良かったものだから、郭の女将も鼻が高かったに違いない。しかし、もともと寡黙で無愛想な性格が故、床の方はとんと声が掛からなかったとか。まだまだ年端のいかない少女でも、自分がお荷物だということには気付いていた。
そんな彼女が華夜叉へと降ったのは、確か16・7の頃だったか。上手くいけば水揚げの年頃である。最も瑞々しい時期。周りからもちやほやと持て囃される時期に、彼女はこの世界へやってきたのだ。話を聞けば、足抜けを企てたそうな。不安定な娘の心に漬け込んだ、愚かな男がいたものだ、と皆が皆、口を揃えて言ったものだ。
あの街が消えてからしばらく。多くの同志と同様に、彼女との縁も切れてしまったと、残念に思っていたのだけれど。ふとした偶然で再会を果たす。その時、彼女が今も三味線を続けていると知って、大変嬉しく思ったのは記憶に新しい。決して富んだ生活とはいかないものの、命があって言葉を交わせることの他に、”居場所”を彼女は見つけることができたのだ。たとえこれが一時的なものであったとしても、これ以上、喜ばしいことがあるだろうか。いいや、あるはずがない。過去が消えることは無い。しかし、それを乗り越える事も含めて、我々の使命である。そのことに、あの子は気づけるだろうか……。
「ヒヨリさん。突然、ぼうっとなされて、いかがされましたか。」
「え、……あ、ああ。ごめんなさいね。ちょっと考え事をしてただけだから。」
いけない、いけない。少々長く考えに浸ってしまったらしい。不自然な間に、春日が心配そうな顔をして声をかけた。
「何をお考えに。」
「ホント大したことじゃ無いのよ。最近、食傷(食中り)の薬が好調でね。どうしてかしらぁ、って思っていたところなの。」
夏の風物詩といえば、風鈴、スイカ、花火などが思い浮かぶ。近頃は海水浴やラムネなんかも耳にするようになったが、そこに漏れなく食中りも含まれることを忘れてはいけない。著しく医療も発達を遂げているとはいえ、まだまだ大病の一つである。これで命を落とす輩もいるのだから。そこまで考え、ヒヨリは後ろで寝る我が子に意識を向けた。
「生まれて初めて迎える夏ですものね。」
ヒヨリの心境を察してか、春日が代弁するように呟く。近くで忙しなく鳴く蝉の声が、迫り来る季節の訪れを、執拗に知らせているようだった。
「ところで、あの一件はどうなっているのでしょう。……ヒヨリさんは何かご存知ですか。」
あの一件。この一言でピンとくる。綾鷹を含め、四人で甘味を頬張ったのは、つい最近のこと。時があまり経っていないとはいえ、あれから音沙汰が無い。話の内容では、あちら側も時間に余裕はないはずなのだが。
「私も気になっていたの。だけれど……。」
はあ、っと溜め息が出る。その様子だけで、ヒヨリのところにも何も来ていないのだと、春日は理解した。
「……私は正直、綾鷹さんと親しい間柄ではありませんでした。それこそ、御恩はございます。今こうして生きていられるのも、綾鷹さんとヒヨリさんのお力添えがあったから。ですが、言ってしまえばそれだけ……薄情だと思われるかも知れませんが、心のどこかで彼の方を疑っております。」
同じ華夜叉といえども、春日と綾鷹では”格”というものが違う。方や華夜叉随一の実力を持つ、蘭組・首席、五葉を勤めた女。春日も春日で、蟲(四)席という実力を持っていたものの、同じ現場で仕事をしたことはほとんど無かった。お互いがお互いに、噂程度の認知。華夜叉という唯一の繋がりも、消えかけようという頃。そんな二人が突然、覚悟を共にしようというのだ。ヒヨリは、春日の正直な気持ちを否定することができなかった。
「そうね……そうよね。突然言われても、困っちゃうわよね。」
自ずと、表情が暗くなる。しかし、ヒヨリにとっても、彼女達の協力を諦めるわけにはいかなかった。
「けれど、これも何かの縁だと思うのよ。ほら、運命ってやつ。」
我々の価値について、考えたことがなかった訳ではなかった。けれど、それを考えるよりも前に、ヒヨリは己の存在意義にある程度のケリをつけていたのだ。愛する人の唯一。家族としての母親。おこがましくも不律合いな立場だと、重々承知しているし、これで終われるわけがない、とどこか恐怖している自分がいる。この姿はあくまで”今”の自分だ。人間、過去・現在・未来を含め一人である。どこかで過去を回収しなければなるまい。神様は、悠々と生かしてくれるほど、優しくないと分かっていた。
では、華夜叉としての己は何だったのか。
あの頃の行いは何のためだったのか。
それなら、私はなぜ生きているのか。
綾鷹同様、ヒヨリも過去を捨てることなどできなかった。目の前に広がる平穏を享受するだけ。ただそれだけの時期は、そろそろ終わりを告げているのかも知れない。綾鷹の言葉を借りるようだが、これも何かの巡り合わせなのだ。あの頃の自分と、ケリをつける。そのためには、この一件を利用する。そして、何が何でも生き残らなければ意味が無い。同じ結論に至ったからこそ、綾鷹も私に協力を持ちかけたのである。
「運命、でございますか。」
「そうよ。……ねえ、春日。とうとうこの時がやってきたのだと、私は思うのよ。」
「時……。」
どこか不安げな気持ちを隠しきれず、春日は黙って唾を飲む。
「もう、顔を背けるのはやめましょう。……あの日の自分に、いえ、華夜叉そのものを終わりにするのです。」
そう力強く言い放った彼女の目には、久しく見ない燃えるような決意があった。過去の負い目を晴らす術。それは、忌々しき華夜叉を我々の手で解散させること。それすなわち、大義。これ以上、苦しみながら生きる必要はないのだと、そう自らの意思で終わらせる。
少し前まで燻っていた疑心が、嘘のように晴れていった。