第八章 一対
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こぽぽぽ。急須から流れる日本茶を、静かに眺める。器の縁から、少し下の位置まで注がれたところで、流れは止まった。ゆらゆらと白い湯気が天井へと消えてゆく。男三人、口を揃えてコレは水だ、と非難した酒でも、酒は酒。知らずのうちに水分を欲していたようで、身に沁みるような一口だった。
もう日付を超えてしまっただろうか。時計なるものは高級品である。当然、この屋敷には設置していない。軍から支給された懐中時計はあるが、脱いだ制服の内ポケットに突っ込んだままだった。わざわざ戻って確認する必要もないだろう。それよりも、目の前で”妻らしく振る舞おう”と頑張る、可愛い女を見る方がよほど価値があった。
「うん。ええ茶や。……流石やな。」
「ありがとうございます。」
右利きの北に合わせ、茶を注ぎやすいように、彼の右斜め前へ綾鷹は座る。その隙に、伏せ目がちに、湯呑みに口をつける北をさり気なく見る。白い肌に品のある目元。直接話をしてみても、物腰の柔らかい上方訛りが心地よい。少々体格は目を引くが、全体的に穏やかな印象を持つが故、誰もこの男が軍人だとは思わないだろう。深い意味は無いが、なんだかズルい男だ。そして、何気にこれが今日初めて、夫の顔をしっかりと見た瞬間だと気がついた。
「……すまんかった。情けない姿を見せてしもうて。」
一息ついたところで、北はしっかりと顔を上げ、謝罪を告げる。すぐ、この言葉が昨夜のことを指しているのだと気がついた。申し訳なさそうに眉を下げた表情に胸が締め付けられる。
「情けないなどと仰らないでください。突然だったとは言え、私のやり方も決して最良ではありませんでした。」
いかなる理由であれ、綾鷹の反応は男の矜持を傷つけるものであった。それを痛いほど自覚しているからこそ、どんな言葉が相応しいか、判断に困る。結果、何を言っても変わらないのではないか、と思えてならないのだ。
「これからは気をつける……せやから、嫌いにはならんとくれ。」
膝に収まる白い手を握られ、ハッと綾鷹は北を見た。頭を下げた姿は懇願に近い。本心なんだ、と彼女の体にストンと降りてきた。思い起こせば、彼はいつも正面からやって来る。小細工など使わない、立派な男なのだ。信じないという選択肢は初めから無い。
「当たり前でございます。……どうして私が北様をお嫌いになりましょうか。」
「せやけど、綾鷹を泣かしてしもた。」
「それは……びっくりしてしまっただけです。それに、北様だけのせいではありません。」
覚悟が足りなかった。だから、あんなことになってしまった。ただそれだけのこと。それ以外は全て、北が用意して施してくれたではないか。何を迷うことがある。たった1ヶ月。ここまで自分を買ってくれた人の頼みだ。いい加減、腹を括らねば女が廃る。
「北様、私がんばります。頑張って妻らしくなりますから、どうか……これまで通りの北様でいらしてください。」
無意識であった。ギュッと彼の手を握り返す。コレからは北が求めるもの全てに答えよう。家事も任務も。そして、勿論”妻”の役目も全て。梶綾鷹にできる全てのモノを、ここでやり尽くしてやろう。この世でたった一人の男へ、そう誓ったのである。
覚悟が決まったところで、いつまでも手を繋いでいる事に気がついた。しかし、お互いに離れようとはしない。それどころか、摩ったり、にぎにぎと握り返したり、絡めたり。と好き勝手していた。その様子に綾鷹は嫌がるどころか、逆に面白がっているようにも見える。北はコレまた意外そうに彼女の姿を観察していた。実を言うと、拒絶されるかも、と思っていたのである。ここ最近は必要以上に彼女に触れてきた。惚れた女が触れたいと思えば触れられる距離にいるのだ。そりゃあ触れるに決まっている。コレばかりは男の性である。
「……嫌やないんか。」
一応、彼女の気持ちを優先する理性くらいは、持ちあわせているつもりだ。
「え、何がです。」
「いや……、嫌やなかったらええんよ。」
一体何のことか、という綾鷹の反応。このまま触り続けても良い、と許可をもらったようなものだ。これ以上は何も言わない方が良い。まだまだ触れていたい。そういう下心を察してか、クスクスと綾鷹は笑い出した。
「なあ、綾鷹。」
「なんですか。」
「……俺はお前のことをもっと良く知りたいと思っとる。」
いつも以上に真面目な声色で話始めた。緊張しながら静かにその先を待つ。
この家へ帰ってくるまでの道すがら。北は大耳先生の助言、基、彼の経験談を思い出しながら、彼なりの策を練っていた。これまで通りのやり方では、また同じような結果になる。今度こそ綾鷹に警戒されてしまう。せっかく時間をかけて、彼女の猫のような隙のない心に入り込んだと言うのに。振り出しに戻るような真似は、涙が出るほど嫌だった。ではどうするか。おそらく敏感になっているだろう今、彼女に直接触れる行為は得策ではない。ここは大人らしく、理性的に、互いを知る方法が望ましい。そして、一つの結論に至る。
「……せやから。一日の終わりに俺と”お話し大会”しようや。」
「……えっ。」
綾鷹は思わず、ぽかーん、と口が開きそうになった。
「お、お話し大会、でございますか。」
「おん。お話し大会……。今日一日あったこと。思ったこと。考えたこと。なんでもええんよ。もっともっと、お前の心の中身が知りたいねん。」
パチパチ、と長いまつ毛が瞬きをする。まるで、夢見る乙女の如く。それならまだ、交換日記の方がマシな気がするが……。そんなこと、この空気の中で言えるはずもなく。綾鷹は反応に困る。忘れているかもしれないが、我々はいい歳こいた大人である。これは、なんと返事をするのが望ましいのか。いや、綾鷹。騙されるな。北様の仰ることだ。きっとコレには素晴らしい裏が隠されているに違いない。きっと我々の今を打開する、秘策中の秘策が。ならば、お断りするのは筋違いというもの。それに、さっき誓いを立てたばかりではないか。北様が真に望んでいることなら、なんだって叶えて差し上げるという覚悟はどこへ行った。
お察しの通り、今、綾鷹は正しい判断ができなくなっている。しかしそんな事情は、誰も知りようがない。さらに最悪にも、今この場に正しく脳が稼働している人間はいない。なんという事だろうか。尾白アランが共にいない事が、これ以上に悔やまれる場面はないだろう。
「き、北様がお望みならば。……その”お話し大会”とやら、いたしましょう。」
変に気合が入った返事。グッと腹に力を入れて、その一言を絞り出した。
「さよかっ。やってくれるか”お話し大会”。」
途端に北の顔が笑顔になる。それを見て、綾鷹の心も途端に晴れやかになった。
こうして、彼らの”お話し大会”という名の報告会が、毎夜開催される事となった。