第八章 一対
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夏物の敷布団を広げ、丁寧に整える。その隣に、自分の布団も並べるべきか、と一瞬考えた。今日一日、夫である北とは一度も顔を合わせていない。その理由は簡単で、昨夜は睡眠を別々の部屋でとったからだ。まあ、あんなことがあった手前、一緒に肩を並べて眠ろうと言う方がおかしい。それに、綾鷹が目覚めた時、北は既に一人で準備を済ませ家を出た後であった。故に、問題は未解決のままなのである。
「今夜は旧友と飲んでくるって連絡があったし……。きっとお夕飯もそこで食べてくるはずよね。」
夕刻ごろ、アラン様でもなく侑様でも治様でもない軍服の男が、夫からの言伝をわざわざ伝えにやってきた。最初は、間者か何かでは、と疑ったものの誤解はすぐ解ける。角名と名乗った男は、迷う事なく私の名前を呼んだのだ。北信介という男の優秀さは、かなり昔から知っている。情報が漏れるようなヘマはしまい。よって、男の言葉を信じ現在に至る。
再び手元へと意識が戻ると、数分前と同じようにため息をついた。
「この調子じゃあ、今夜も顔を合わせることはないだろうし。……よしっ、今日も別室を使わせてもらおう。」
綾鷹なりに結論を出し、半分開きかけた布団を抱えると、今朝目覚めた部屋へと足を向けた。
夫婦二人に対して広すぎるこの屋敷は、奥座敷の他に使用人が住めるような小さな室がある。わずか三・四畳の小さな空間に布団を敷くと、雪が積もったように一面が白色で埋まってしまうのだ。以前暮らしていた長屋よりも狭い部屋だが、何だか妙に落ち着く。こんなところで、育ちが出てしまうのだと他人事のように思った。
久方ぶりの一人の時間。簡単に湯浴みと食事を済ませ、そそくさと就寝の準備に入る。いつもなら、この時分から”北先生”の西洋講座が始まるのだが。それも今日は已む無く休校であった。初めの頃は、気もそぞろで話を聞いていたのだけれど、これが意外と面白い。北の教える腕が良いのか、それとも綾鷹の内にひっそりと眠っていた興味を引き出したのか。1週間とまだ日は短いが、知らずのうちに魅入っていた。本来、彼女は勉強嫌いではない。ただ、機会に恵まれなかっただけである。
さて、この珍しい時間を有意義なものにするには、何をするのが良いか。裁縫は昼もどっさりとやったから、もう十分。かといって本を読むような趣味は無いし、この暗い中、目を使う運動はどうも気が乗らない。では、散歩でもしようか。……いやいや、それも如何なものか。外出を制限するくらいだ。彼らの意図に反した行動は好ましくないだろう。では、何がーー。とここまで思考を巡らせ、ふと思いつく。燭台を片手に立ち上がり、薄暗い廊下を再び自室へと向かった。
古びた刀身は何度も削られ、薄くなり、下手に扱えばすぐに折れてしまいそうだ。しかし、打ち粉をまぶされ、丁寧に磨き上げられたその姿は、見事と言わざるを得ない。大切にされてきたことが素人の目で見てもすぐに分かった。
「……お前にも、もう世話にならないと思っていたのに。皮肉なこと。」
打ち粉を細かくはたいては、拭い紙で拭き取り。またその動作を数回繰り返す。そうすると、さらに刃は光り、洗礼された輝きを持つようになる。彼女が手にしているのは、暗器とも取れる形の武器であった。手入れする様子は手慣れたもので、華夜叉時代に相当世話になったのだと伺える。波打つ刃は日本刀の技術が盛り込まれ、よく切れそうである。しかし、刃から峰までの距離は短く、角度によっては細長い棒のようでもあった。暗器そのものの長さは短く、例えるのなら菜箸よりも少々長い程度。脛や背後に隠し持つには丁度良い大きさである。
「共に奪ってきたものは多い。もし恨むのならお前を、といつも思っているのに。どうしてかしら。どうも愛着が湧いて叶わないわ。」
何もかも自ら手放したのに、この獲物だけは切り離すことができなかった。過去を捨て去るのなら、真っ先に手放すべきであるのに。それすら出来ない。情けない己が憎らしいことよ。しかし、それ以上にコレが愛らしく見える。
「我が血肉となりし相棒よ……か。ふふふ。我ながら恥ずかしい台詞ね。」
だが、我々の関係をもっとも端的に、そして簡潔に表していた。これ以上の言葉は思い付かない。
無心で手を動かしていると、自ずと精神も凪ぐ。”武人の域”というものを、ほんの少し垣間見る錯覚へ陥る故に、綾鷹はこの時間が好きであった。手元を照らす蝋燭がフワリ、と一度棚引く。新しく箱から出したばかりの新品だったが、半分も体を失っていた。
「……誰かしら。」
無我の世界から、突然こちら側へと意識が戻る。その感覚に不快感を覚えながら呟いた。物音は無い。しかし、微かに感じる生き物の熱が、研ぎ澄まされた肌には分かった。夜もまだ深くなったばかり。素早く火を消して、小部屋を出る。風の抵抗を最小限に、鍛えられた勘と肌の感触を頼りにして対象へと近づく。家族用の玄関へたどり着いた時、あ、と声が出た。
「なんや、まだ起きとったんか。……どした、そない驚いた顔して。」
主人の帰宅だ。玄関の一段と高く作られた場所に腰掛け、丁度靴を脱いでいる場面であった。彼の部下から帰宅が遅くなる、と聞いていたので、まさか「生き物」の正体が北であるとは思いもしなかたのである。なんの疑いもなく、侵入者だと思っていた。途端に気不味く思う。
「い、いえ。今日は遅くなると角名様から言付かっておりましたので。……まさか今時分のお帰りだとは……。」
綾鷹の言葉に、北は彼女の出立ちを改めて見る。薄手の浴衣に、裸足。髪も下ろし、後ろでゆるく束ねる程度だ。なるほど、一足先に就寝するつもりであったのか。それは悪い時に帰宅してしまった。
「そやったか。すまんな、邪魔してしもうて。」
「と、とんでもございません。お帰りをお待ちせずに、私の方こそ……。」
靴を脱いだ北がこちら側へ歩いてくる。茶の間と玄関を仕切る壁から顔を覗かせていた綾鷹の側へ寄ると、北は黙って彼女を見下ろした。ああ、気まずい。北様の視線が気まずいったらありゃしない。何か、何か声をかけねば。
「そのっ。お、お帰りなさいませ。お荷物お持ちしますっ。」
半ば奪い取る速さで北のカバンを持つと、これまたやつぎばやに挨拶をする。本当なら、どんな状況でも”おかえりなさいませ”を先に言うべきであるのだが。まだまだ「妻」という体が身に付いていなかった。
己の手から突然カバンが消えたのを、北は少し意外そうに見ていた。本人は慌てているのを隠そうとしているが、残念なことに意味を成していない。というよりも、こんな小さなことで動揺する彼女に、北は驚いていた。なんだろうか。今朝も顔を合わせずに家を出たし、昨夜のこともある。だが、何というべきか。そういう予期せぬ出来事があったことを除いても、彼女の雰囲気が柔らかくなったような。いや、こう、高嶺の花が近くまで降りてきたような。そんな感覚を覚えるのだ。良い意味で”普通の女”になったような。
「……あの、酒のお席は楽しめましたでしょうか。」
そんなことを、ぼうっと考えていた時だ。蚊の鳴くような、は言い過ぎか。空気を揺らすまい、と遠慮気味に彼女は声を発した。
「ああ。久しぶりに会うた奴も一緒やったから、楽しかったで。」
「そうですか。ですが、少々お帰りが早かったのではございませんか。」
確かに。飲もうと思えば、もう少しあの場に留まることもできた。数年ぶりに顔を合わせた大耳とも、積もる話もあったが、あえてそちらは選ばなかったのである。なぜなら、それ以上に大切なことを、大耳本人から聞いたからに他ならない。そんな出来事があったなんて知る由もない綾鷹は、心配そうに己を見ていた。旦那の早い帰りを、何を勘違いしたのか。さて、我が妻は何を不安に思っているのだろうか。早速、旧友から授かった”観察”という言葉を頭に浮かべ、彼女の表情を観る。
「……そうやな。面子は良かったが、ちょっとな。だから早う帰ってきたんや。」
「そ、そうでしたか。お楽しみいただけたのでしたら……良かったです。」
再び黙る。表情も先程と変わらない。どうやら自分の返事は、百点満点ではなかったようだ。なんの理由もなく暗い茶の間で佇む二人。誰がどう見たって気まずいであろうに。
「あのっ。お食事などは。」
「ああ、帰り際、軽くつまんできてん。心配要らんよ。」
「そ、そうですか。……で、では、お茶でも。」
「そやね。……せっかくやから、頂こか。」
ここにきてやっと、綾鷹は踵を返して台所へと向かう。駆け足気味だったことは、この際忘れよう。
奪われたカバンは、きっと綾鷹が後々部屋へと戻してくれる。なら、この間に部屋着へと着替えるのが吉だ。遠くで聞こえる生活音を心地よく思いながら、北は自室へと足を向けた。