第八章 一対
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「北。お前はそろそろしないんか。」
しないのか、とはつまり結婚のことである。時間も進み、適度に腹を満たしてきた頃。酔うに酔えない酒になぜか顔を赤らめた大耳が、突然思い出したように北の方を向く。それと同じくして、アランは酒を噴いた。
アランの計画では、それとなく、やんわりと大耳夫婦の話を持ちかけ、さりげなく北と綾鷹の関係について助言をもらう手筈であった。しかし、思わぬ急展開に冷や汗が浮かぶ。凄まじい破壊力を持った魚雷並の問いかけに、北は上品な目元をこれでもかと大きく見開いた。北からしても、思っても見なかった問いであったのだ。
「……なんて答えたらええんやろか。」
「なんや。もしかして、婚約でもしたんか。」
「いや……。」
婚約どころか、あらゆる順番をすっ飛ばして、もうすでに夫婦である。
「なら、近々そういった話があるんか。」
「いや……。」
「うーん。そんなら、一緒になりたい女でもおるんか。」
「……。」
アランの内心は荒れに荒れる。北信介ほどの男が、これぽっちの事で怒るはずはない。しかし、あの女が絡む話には、こいつも唯の男に成り下がるのだ。どんなに困難で理不尽な仕事であっても、顔色ひとつ変えず、不平さえも言わないこの男が。それを知っているが故に、アランは大耳の無知具合にハラハラする。
「な、なあ大耳。少しお前に聞きたいことがあんねんけど。」
いてもたってもいられず、不自然に彼らの間に割って入った。訝しげな目で長身の男はアランを見る。
「お前が相談やて。」
「そうやっ。じ、実は悩んどることがあんねん。」
じっとりと湿った視線を向ける。一体、なにを相談されるのだろうか、と大耳は次の言葉を待った。無理やり話題を逸らした感は否めない。しかし、特に追求される様子もないことから、アランは密かに胸を撫で下ろす。
「お前ら、もう一緒になって長いやろ。」
「一緒ぉ。……ああ、嫁さんのことか。そやなあ、かれこれ5年になるなあ。」
「せやろせやろ。して、喧嘩なんかすることもあるんか。」
「うーん。……それと言った喧嘩はしたことがあらへんなあ。まあ、アイツはできた女やし。俺を困らせたことなんか一度もしたことあらへんしーー。」
さりげなく惚気を溢され、アランは「不味いっ」と心の中で呟いた。予想以上のおしどり夫婦ぶりに、本来なら喜ばしいことなのだが。如何せん、今は都合が悪い。いや、だからと言って大耳が嫁と上手くいっていないことも嫌に違いないのだが。
「そ、そうか。ーーまっ、まったく、ええ嫁さんもろうて羨ましわあ。」
「なにいぃ、アラン。まさかお前、アイツのこと変な目で見とったんとちゃうやろなあっ。」
おやおや。我らが飲んでるのは水にも等しい液体だったはず。まさか、この量で酔ってしまったと言うのか。呂律が怪しい男を目の前に、アランは慌てて弁解する。
「い、いやいやいやいや。そないことあるわけないやろっ。親友の奥さんに、そな失礼なこと出来ひんて。」
「……そうかあ。悪い、大袈裟に取りすぎたわ。堪忍堪忍。」
あはははは、とひと笑。その隣で、アランは痛み出した脇腹を軽く摩った。機嫌を取り戻した大耳は再び酒を飲み始める。なぜか知らないが、先ほどよりも調子が良い。北の持つ空のお猪口に、自ら進んで酒を注ぐ程度にはご機嫌であった。
「そう言えば、大きな喧嘩はしたことあらへんけど、一度、ギスギスした雰囲気になったことはあったなあ。」
思い出したように語り出した旧友に、二人は再び注目する。そして、その意外な内容に首を傾げた。
「ほお。そりゃ意外な話やな。お前たちほど仲のいい夫婦もそんな時期があったんか。」
「ああ。……一体、何があったん。」
帝都組二人は揃って同じ反応をする。
「そう大事でも無いんやけど。まあ、今考えると、お互いの距離感の問題やったんやと思うねん。」
距離感。これまた揃って首を傾げる。
「人にはそれぞれ、心地ええ距離感ってもんがある。例えば、一人になりたい時に、外からしつこく声かけられたら不愉快に思うやろ。……そう言うことがあの時、俺とアイツの間で起きとったんや。」
大耳と彼の奥方は許嫁同士。親の取り決めで一緒になった。しかし、大変幸せなことに、両者ともお互いの事を大事に思っている。選ぶ自由はなかったが、用意された相手がたまたま運命の相手だったのだ。大耳に関して言えば、奥方にゾッコンと言っても過言では無い。とりあえず、誰もが憧れる理想の夫婦なのだ。
「惚れてもうたから仕方あらへん。好きな人のことは何でも知りたいし、何でも共有したい。困ってたら助けてあげたしい、何でもかんでも構ってやりたい思うねん。別にそれがあかんわけやないけど……俺があまりにもグイグイと無遠慮に近づきすぎてしまったから、あいつはそれが苦痛になってしもうたんや。」
私的空間への無配慮。
「気づけば、あいつは無口になってしもうた。何となく俺を避けるし、何なら目もなかなか合わせてもらえんくて。理由を聞いても、やんわりとしか返ってこおへんし、訳分からんくなってん。」
そんな時に助言をくれたのが、当時の上司であった。
「『お前は奥さんの事を知らんねん。』って上司に言われてな。そん時はカチンときたんやけど、後々考えてみるとその通りやった。」
妻と言えど人間である。家や夫から、ふと離れる時間も必要。
「そう言えば、俺はあいつの好きなものとか、嫌いなものとか。得意なこととか不得意なこととか。全く知らんゆうことに気づいたんや。」
「それじゃあ、今までどうやって過ごしとったん。」
「アイツがえらい気いつこうてくれはってたみたいで。いつも、俺に合わせてくれとったん。」
それを聞いて、北はグッと拳を隠れて握る。
「それは旦那として……。それ以前に男としてどうなんって思ってな。しばらくアイツを研究することにしたんよ。」
研究とは、これまた面白いことを始めたもんだ。大耳はここで沈黙を保つ北をチラリと盗み見る。元来、この男は聞き手に回ることが多かった。これは学生時代、いや、それよりも以前から変わらないことである。しかし、今日はどこか思い詰めたような表情だ。はて、彼は一体何を考えながら己の話に耳を傾けているのだろうか。それとも、誰かを思い浮かべながらーー。ここまで考えて、一つ簡単な仮説を立てる。
「それで、どんな研究をしたんや。」
話の先を促すように、アランが大耳へ催促する。
「おん、簡単な話よ。一に観察、二に観察。三・四がなくて、五に観察。」
「お、お前……それってつまり。」
「……つきまといやな。下手すれば犯罪やで。」
一歩間違えれば嫌われかねない行為だ。異常ともとれる大耳の研究内容に、二人は思わずのけぞってしまった。
「人聞きの悪いこと言わんといてやッ。言っとくけど、アイツには何一つ迷惑かけてへんで。」
実際に、奥様本人には何も害はない。執拗にねっとりとした視線が、四六時中付き纏う以外のことは、であるが。親友にあるまじき視線を送る同期二人に、ゴホンという咳払いで抗議する。
「で、ちゃんと分かったことがあってん。」
ぐいっと身を乗り出して成果報告を始める。そして勢いよく人差し指を立てた。
「まず、あいつは人混みが嫌いや。夕飯の買い物する時も、空いてる店を探して入るし。何より、あんまりお喋りが得意な方でもない。同じ奥様連中に声かけられた時も愛想笑いばっかりしとるし、何なら早よ退散したいとも思うとる。」
「へえ、そりゃ意外やな。女は皆、喋るのが仕事思うとったのに。」
おい、尾白アラン。それは女性に対して如何なものか。
「そんで、あいつは猫が好きや。よく見るとな、あいつの持ちもの猫柄が多いね。んで試しに猫のハンカチーフを贈ったらえらい喜びよった。因みに、犬は苦手や。」
アランも北も、これは素直に可愛いと思った。
「好物は枝豆で、料理も豆を使ったもんが得意や。嫌いなもんは椎茸やな。あいつ、匂いが強いもんは大抵苦手みたいで。酒飲んだ日はちょっと嫌そな顔すんねん。」
なるほど。だから今夜は酒を嗜むことが許されるのか。大耳が嬉々として二人を飲みに誘った理由が分かった。奥方に配慮して、いつもは飲酒を控えているのだろう。
「夜寝る前は、必ず読書をする。随筆とか歌集とかをよく読んどったなあ。そう言えば、英語の本も嫁入り道具に入っとった。もしかすると、外国語もいけるんとちゃうやろか。」
「ほお、えらい風流な奥方や。お前とは大違いやで。」
「確かに。お前、歌の成績悪かったもんなあ。」
「う、うるさいでっ。今はもうちょっとマシになったわ。」
わはははは、と喉を使って笑う。最後の一本になった焼き鳥を頬張り、口の端についた照り焼きのタレを指で拭う。
「……そんでな、分かったんよ。あいつは、そこまで社交的でもないし、流行りに敏感な人間でもない。どちらかというと、自分の時間とそれ以外をキッチリと分けて使いたい人間で、ゆっくりじっくり考えて行動したいと思うとる。……一人の人間としてちゃんと自律しとるんよ。」
それを知らず、己は彼女をえらく振り回していたのだと気づいたのは、それからすぐであった。惚れた女を暇させたらあかん。きっと女はこういう物が好きなはずや。彼女もこうしたら喜んでくれるやろ。と、男の身勝手な偏見と矜持で持って、彼女に接していた。そのことに気づいてから、大耳は彼女との距離を意図的に測るようになったのだ。
「今、何考えてるんかな。今、どう思ってはるんやろ。今、何に興味があって、今、何がしたいんやろか。そんな風に見るようになってん。そしたらな、アイツ毎日楽しそうでな。いつも笑うてくれるんよ。それがめっちゃ可愛いかってん。もう俺嬉しくてな。そんで極め付けは子供やろ。しかも双子やで。一気に二人も。幸せ以外にないやろ。」
「はあ、めちゃくちゃ献身的やないか。そない奥方に気いつこうてお前は疲れへんのか。」
「あほ。そないこと微塵子ほども大事やない。俺はどうとでもなる。疲れたら休めばええだけや。……だけど、あいつはちゃうねん。」
そもそも惚れた女一人、幸せにできんくて男なんか名乗れるか。
緩い夜風が露店通りを通り抜ける。それは決して気持ちの良いモノではなかったが、少なからず、北の曇った瞳に光を取り戻すには十分であった。意を決して立ち上がる。
「……すまん。先なるわ。」
突然の宣言に大耳とアランは顔を見合わせる。が、直ぐに穏やかな表情になった。
「おう、どんな用事かは知らんけど気いつけてな。」
ひょいっと片手をあげて男の背中を見送る。それに北もフワリと口元を緩めたのだった。