第七章 仮初
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「落ち着いたか。」
「はい。お陰様で。」
手にしている白湯は、今しがた北が炊事場で沸かしてくれたものだ。一口、口をつけた拍子に、肩にかけられた彼の上着がずれ落ちそうになる。まだ鼻声なのは、涙が引いて時間があまり経っていないからだ。ゆらゆらと白く棚引く湯気が、荒んだ心を落ち着かせた。
あの後しばらくの間、北は綾鷹を前から抱きしめつつ背中を撫でていた。しかし一向に嗚咽が治らない。どうしたのだろうか。肩の震えも止まったと言うのに。懐に収まっている彼女の顔を覗き見て合点がいった。
「あ、あの、北様。ひっ、ヒック、ひっひっ、わた、わたくし、どうしたらこれ、治りますでしょうkっ」
そこには困惑顔が。泣き慣れていないばかりに、しゃっくりが止まらなくなってしまったのだ。まるで別物の様に鳴る体。一先ず、辛そうなそれを落ち着かせるために、北は炊事場へと向かったのである。
「……今日はもう休みい。」
「北様……。」
疲れた表情で隣に腰掛ける彼を見る。立てた片膝の上に腕を置き、力無くそう呟いた。
「……今晩は勉強も無しや。別の部屋、用意したる。」
それは、北が今できる最大限の気遣いであった。こんなことになった以上、同じ部屋で隣り合って寝るなど心休まるはずがない。暑さも日に日に増すこの頃。きちんと休まねば、体を壊してしまう。ゆらゆらと揺れる湯飲みの水面を、綾鷹は何も言わずに眺めていた。
アランは気遣わしげに同い年の上司をチラリと盗み見る。もうこの動作を今日一日で何度となく繰り返していた。普段ならすぐに、「なんや、そないチラチラ見て。」と途端にバレてしまうのだが。一向に気がつく様子がない。これはいよいよ、何かあったに違いない。先日の陸上訓練の結果が思わしくなかっただろうか。はたまた、上からの圧力に痺れを切らしているのか。机の上に堆く積まれた白い柱へ目を通しながら、できる男、尾白アランは考えていた。
「……ハァ……。」
「なんやアラン。まだ昼も過ぎとらん言うのに、もう疲れたんか。」
溢したため息が北の耳に届いたようで、片眉を上げてこちらを見る。他人の変化にいち早く気付き、適切な頃合いで、適切な処置を施す。これができるから、この男は一目置かれるのだ。しかし、今日ばかりは話が違う。アランの溜息の理由がまるでわからない。という顔で、北は同い年の部下に声をかけた。
「なあ、北。何かあったんか。」
「……何かってなんや。」
「いや、その。……今日はなんや、えらい苛々してへんか思うて。」
彼の指摘に、北は数回瞬きを繰り返した。そして、困った様に笑う。
「北……。」
久しく見ない笑い方に、アランは思わず彼の名を呼ぶ。それは純粋な心配を募らせるものだった。
「そりゃあ……お前。」
「分かっとる。全部、俺がまちごとったん。」
アランは懐から新しいタバコを取り出すと、神妙な顔つきで火をつけた。隊舎裏の木陰に2つの影が立つ。遠くから、パーン、パパーンと発砲音が聞こえた。どこかの隊が狙撃の練習でも行なっているのだろうか。生温い風が紺色の裾を揺らす。
「はあ……いや、理解ができひんこともない。むしろ、1週間よう保っとる方やと思うで。」
普通なら初夜を迎えたその日に、いただきます、ごちそうさま、でもおかしくない。極々一般的にいえば、それが常識なのだ。それを1週間も耐えた。さらに言えば、襲う途中でヤメたというではないか。同じ男として尊敬以外しようがない。何年も夢見た女と、一つ屋根の下で寝食を共にする。己が同じ状況だとして、果たして北のようにできるだろうか。答えは否である。自身に投げかけた問いに、いとも簡単に答えが出てしまったところで、ふうー、と空に向かって煙を吐いた。そして、全てを包み込むように、ポンと北のかたを叩いたのである。
「まあ、起きてしもうたことは仕方ない。……お前がいつも言うとるやろ。」
先ほどと寸分変わらない困ったような顔で笑う北に、どうしたものか、とアランは考えた。今の彼にどんな慰めの言葉をかけたところで、何一つ綾鷹との関係が良くなるとは思えない。何より、アラン自身、経験不足であった。では、何ができるだろうか。相変わらず、北は意気消沈とでも言える様子で、青い空を見上げている。これはいよいよ、本当に参っている。
仕事の合間に認められた小休憩。それもそろそろ時間切れである。結局、尾白アランには妙案など浮かばなかった。