第七章 仮初
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日暮れ時と言うには遅く、夜と表現するには曖昧で。まるで儚げな時分。古人はこれを朧月夜とよくぞ言ったものだ。それは穏やかであるべきで、決して睨み合うような夜であってはならない。
男とはどう言う生き物であるのか。己はよく知っていた。いや、こうなってしまったからには、そうも言えない。よく知っているはずであった、と述べるべきか。どんなに過酷な任務でも。どんなに惨い現場でも。嫌になることはあったが、恐れることは無かった。それはきっと、生きているのか、死んでいるのか、良く分からなかったから。生きたいと思う理由がなかったから。我が身など、どうでもよかったから。
だが、今はどうか。周りくどい言い回しなど、きっと無駄になるだろう。
ーー怖い。
何が怖いか。
ーー目の前の男が怖い。
いや違う。北信介という皮を被った”獣”が怖いのだ。
知っていたはず。分かっていたはず。ではなぜ怖い。酸素を取り戻しつつある頭の中で、綾鷹は考えていた。
「綾鷹、これは……。」
伸ばされた腕が目の前に迫る。叩き落とすのに迷いはない。乾いた音が一つ響き、ぐッと腹の底に力を入れた。そうでもしなければ、泣いてしまいそうだ。
唖然とする北。その目は信じられないものを見るような。いや、言うのであれば、何か目に見えない大切なモノが音を立てて崩れ落ちる。そんな表現がぴったりである。彼の表情が徐々に絶望の沼へと落ちていく。その様子を見て、左胸がシワを寄せて痛んだ。
違う。お願いだから、そんな顔をしないで。
「北様……私は……。」
私は、そんな顔をさせたかったわけじゃない。なのに、どうして……。じわじわと痛みは体積を増しながら肢体の自由を奪っていった。なぜ、これほど痛いのか。なぜ、こんなにも辛いのか。なぜ、こんなにも、悲しいのか。なぜ、こんなにも。なぜーー。ここでふと、ヒヨリの言葉が脳内をかすめる。正常に働かない頭の中で、彼女とのやりとりを再び思い起こした。
『ーーそうだ。一つだけ忠告。』
『忠告だと。』
そうよ。三年ぶりの再会を果たした夜。帰り際に振り返って、ヒヨリが綾鷹に告げた。
『経験不足なあなたに、既婚者として、”女性”として。』
気取るようにそう言うと、綾鷹は不審そうな顔をする。
『信じるっていうのは覚悟が必要。それはよく知っているわよね。』
『当たり前だ。これほど危険な行為は無い。』
『よろしい。……でも忘れないで。恋ほど、愛ほど、人を盲目にさせるモノはないわ。……冗談でも、”信じていたのにーー”なんて勘違いなセリフはナシよ。』
甘い感情に流されて、”信じる”の意味を履き違えないで。いつになく真剣な顔をして、ヒヨリは暗闇に消えていった。
今、その意味を理解する。
ああ、私も遂に落ちぶれたか。甘美な感情に知らずのうちに流され、根本的なことを見失っていた。どんなに信じようとも、目の前にいるお人が”男”であること。それをうっかり忘れていたのだ。それは、あまりにも貴方が卓越しているから。あまりにも貴方が大人だから。さながら仙人のように。無条件に。愚かなまでに。
振り下ろした腕で落ちた着物を手繰り上げる。薄々気がついていた。北が綾鷹へと向ける眼差しの熱さ。共にある時は肌身離さず、常に側へ置き、愛し気に触れる。その質感。飲み屋へ通い続けていた頃とは何もかもが違う。お互いの温度差に、気付きながらも目を背けていた。嗚呼、ずるい女である。己は都合のいい女である。都合の悪いものには蓋をする。そんな都合のいい女である。本当の意味での覚悟など、なかったのだ。
座敷の隅へ辿り着いた時、唖然とした表情を浮かべる北を見る。そして、ぐっと唇を噛みしめ、懺悔の如く名を呼んだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい、北様。」
ごめんなさい。ごめんなさい。
気持ちに応えられたなくて、ごめんなさい。
あなたの覚悟を無駄にして、ごめんなさい。
意気地がなくて、ごめんなさい。
往生際が悪くて、ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい……。
この全てを私自身が招いた事だと気づいた頃には、目の前が霞んでいた。
ヒック、ヒッ、ヒック、ひっ、ク……。それまでぼうっとしていた北の目が、ハッと綾鷹を中央に捉える。
「綾鷹ッ。」
「北様っ、私……わたくしはッ……。」
息の詰まるような涙が止めどなく流れる。こんなことは人生で初めてではなかろうか。制御不能。だって正しい泣き方など、誰も教えてくれなかったから。シワくちゃにたくし上げた着物で、口元を隠す。もう自分でも、どうしたら良いか分からなくなっていた。
「綾鷹……。」
「うぅ……ヒック……。」
畳へ預けていた体を起こすと、北はゆっくりと立ち上がり、彼女の側へとよる。嗚咽が止まらない彼女へ哀しげに視線を向け、膝小僧が触れるほど近くに腰を下ろした。背筋を伸ばし、正座する。
「綾鷹……、触れてもええやろか。もう、あない酷いことはせえへん。……約束する。」
不本意に震える肩はウンともスンとも言わない。けれど、突き刺さる殺気を飛ばしていた瞳は、今はただただ縋るように北を見つめていた。一か八か。ゆっくりと、綾鷹の頬に伸びる。びくりと体が揺れたが、先ほどのように叩き落とされる事もなく、手が柔らかな輪郭に辿り着いた。それにひとまず安堵の息が溢れる。
「ヒッ、ク……ぎ、ぎだざま……きたさま。ごめんなさい……わたくしが愚かで、全部、全部悪いんです。きたさまは何も悪くないのに。叩いたりなんかして。私に覚悟がなくて、それで……うぅうう。」
「何言うとるん。怖がらせたのは俺の方や。」
違う、と言いたいのに口が上手くまわらない。ブンブンと音がなるほど首を左右に振る。頬を撫でていた手がぐるりと綾鷹の体を包み込んだ。先程の獣はもう奥へと引っ込んだようで、比べ物にならない程優しく背中を摩り続けた。